佐藤雫 『残光そこにありて』 中央公論新社
間違いなく傑作です。今年度ナンバーワンです。これまでの作風から言って、今後の作家生命を左右する新たなステージを占う試金石になるだろうと思って読みました。この課題を見事にクリアーしました。
その要因は、熟考を重ねた緻密な構成にあります。幕末という複雑怪奇な時代に、己のコンセプトとポリシーを貫いた難物・小栗忠順を、閉塞感に覆いつくされている現代に蘇らせました。
緻密な構成は章立てに現れています。特に、作品の成否を握る序章は、物語を紡ぐ作家としての力量を余すことなく伝えています。金勘定に敏感で得意としていること。乗馬が好きで馬に関心を持っていること。妻となる道との交情、利八との出会いと存在、これらのエピソードを分かり易い表現で描いています。つまり、章ごとに小栗の特質を表すエピソードを串刺ししていくことで、人物造形をより深く刻んでいく手法をとる選択をしたわけです。注目して欲しいのは、ラスト場面に出てくる(にわただずみ)という表現です。作者が敢えてこの表現をしたのは、あふれ流れる水を小栗の未来を象徴する表現として最もふさわしいと考えたからなのです。最終章のラストと見事に呼応しています。
各章の特徴を順にみていきましょう。第一章は、遣米使節として貴重な体験をし、世界観を身につけます。これが小栗の使命感を醸成していく原動力となります。印象深いのはネジに刻まれた螺旋に引き込まれる場面です。第二章は、対馬問題をクローズアップすることで、幕末の最大難問となる外国問題に対する小栗の姿勢を明確なものにしていきます。
第三章は、勘定奉行となり、金勘定の近代化に智慧を発揮します。カンパニー構想、造船所の建設進言、賠償金に対する明確な態度表明など、弱腰の幕閣に対し、厳しい進言をします。時代錯誤も甚だしい武力行使を唱える輩や馬鹿の一つ覚えみたいに攘夷を口にする連中の功績は、賠償金を増大させただけです。ここで注目は勝海舟との対比です。世界観、時代観、人生観が違う勝との軋轢が緊迫感を醸成します。史実の則った時代小説を面白く読ませる工夫は、脇役の存在と役割分担の的確さにあるといっても過言ではありません。生き様の違う勝や変幻自在の利八の造形は、物語に厚みをもたらしています。
第四章では、日本をどう統治するのがいいかを念頭に置いています。第五章は、大政奉還の時期を慶喜に説きます。そして、徹底抗戦を主張し、その戦略も優れたものでした。これで薩長に狙われることになります。
最終章は、ネジに注目してください。小栗は自分をネジと思って生きていくことを決意していました。だからこそ最終章は、ネジの祈りなのです。
小栗は生かしておくには危険人物と思われていました。そのため裁判もせず、問答無用で斬り殺したのです。小栗と近藤勇の惨殺は新生明治政府の汚点以外の何物でもありません。
評者:菊池 仁(きくち・めぐみ)
