森田健司「泥棒の磯村さん」

泥棒の磯村さん

森田 健司

  一

 磯村(いそむら)さんと初めて会ったのは、僕が住む街の商店街にある「たぬき屋」という定食屋だった。僕は大学に入学して以来七年、毎晩のようにこの店で夕飯を食べてきた。いろいろ注文しても千円でおつりがくる大衆的な店だ。
 その夜、バイトの帰りにとんかつ定食を食べていると、向かいの男がこちらをちらちら見ていることに気づいた。もしかしたら知っている人かなと思って顔を上げると、男は、
「キャベツ食べないの?」
 と話しかけてきた。磯村さんの最初の言葉だった。
 僕は子供のころから野菜が苦手で、あまり食べたことがない。その日もとんかつは完食したが、千切りキャベツは手つかずのままだった。
磯村さんは、
「野菜を食わないと駄目だよ」
 と言い、店のおばさんに胡麻油と味の素を持ってくるよう頼んだ。おばさんは迷惑そうな表情を浮かべたが、長年通っている僕が、「お願いします」と頭を下げると「いいですよ」と承知してくれた。
 磯村さんはおばさんが持ってきた胡麻油と味の素を小皿に入れ、テーブルに常備されている醤油を混ぜ合わせた。それを僕のキャベツにかけまわし、
「まあ、食べてみなさい」
 と言う。
 僕はキャベツを箸でつまんで口に運んだ。おいしかった。なんだか韓国料理風だ。これまで試したどのドレッシングよりも食べやすい。僕はさらに一口、二口と食べ進めた。
「食わず嫌いはだめだよ」
 磯村さんは笑った。食べ方を変えれば、好物になるということだろう。
磯村さんは四十代半ばくらいだろうか。生活は楽ではないようだ。格子縞の青いシャツはかなり色褪せ、上から二番目のボタンがちぎれている。白いズボンはあちこちに灰色の染みが浮いている。あとで気づいたのだが、スニーカーの踵はかなりすり減っていた。
 顔もみすぼらしい。頬の肉がこけ、目の下に深いくまが広がっている。髪はぼさぼさだ。こう言っては悪いが、路上生活の人たちのように見えた。磯村さんが食べ終えた器を覗くと、冷えた玉子丼が半分残っている。僕には野菜を食べろと言いながら、本人は食欲不振のようだ。
――人生に失敗したのかな。
 と苦笑いしたのは、当時の僕が彼を笑える立場ではなかったからだった。僕も行き詰まっていたのだ。
 推薦で志望大学の電気科に入ったものの学園生活に馴染めず、しかも英語が苦手で単位が取れない。英語のせいで留年に留年を重ね、自棄になって講義に出るのをやめ、バイトに明け暮れるようになった。そのあげく大学生活六年目で中退してしまった。
 以後、コンビニのレジや工場の荷物運びのバイトで食いつないでいた。大学時代からつき合っている恋人の由喜(ゆき)美(み)にお金を借りたこともある。由喜美から、
「あなた、このままでいいの?」
 と意見されたが、自分の人生をどこに向けたらいいのか分からない。何かをしなければと思うほど、答えが見つからないのだ。僕は若くして泥沼に沈んでいた。そんな折に磯村さんから話しかけられたのだ。
 磯村さんは、
「人間は健康が一番だよ」
 と何度も言った。
 見た目はさえないが、ここまではそれなりに人生経験を感じさせる大人だった。僕をがっかりさせたのは次のやり取りだった。
「私は磯村という。きみは?」
「永山(ながやま)です。永山恒雄(つねお)といいます」
「永山君か。今日はバイトの帰りだね」
「ええ」
「だったら、悪いけど千円貸してくれないか」
 磯村さんは片手を差し出した。僕がバイトをしているから、少しはお金を持っていると期待しているようだ。
 なんという厚かましい男かと思った。いい年をして千円の夕食代も持っていないとは。
 だけど彼の人懐こい笑顔を見ているうちに僕は信用し、財布からお札を一枚抜いて渡した。磯村さんは立ち上がり、
「今度ね」
 と言った。今度返すという意味だろう。
 磯村さんは僕から借りた千円を持ってレジに向かった。その痩せた後ろ姿を見て、僕は彼が右足を引きずっていることに気づいた。
「そうか」
 僕はつぶやいた。足に障害を負っているから働けないのかもしれない。だったら千円くらいあげてもいいか。そんなことを考えながら、僕は磯村さんの靴のすり減った踵を見ていた。

  二 

 二度目に磯村さんと会ったのは翌週、やはりたぬき屋だった。夜の七時過ぎに僕が店に入ると店内は満員。座れそうもない。すると、
「永山君、ここに座りなさい」
 という声が聞こえた。見れば磯村さんが奥の席で手招きしている。彼の前の席がひとつ空いているのだ。
 僕は磯村さんと向かい合う恰好で座った。磯村さんはとんかつ定食を食べ終えたところで、キャベツの千切りもきれいに平らげている。
「おかげさまで野菜が食べられるようになりました」
 僕はぺこりと頭を下げた。
 あの日以来、僕はスーパーでキャベツやレタスを買い、磯村さんが教えてくれた醤油と胡麻油、味の素のドレッシングをかけて食べるようになった。由喜美が「ゆで卵を乗せるとおいしくなるわよ」と言うのでやってみたら、さらに野菜の味が引き立った。僕は二十七歳にして自分の食わず嫌いを知り、サラダのおいしさに目覚めたのだ。
 この日の磯村さんは相変わらず服装はみすぼらしいが、白熱灯の照明をしっかり浴びているせいか、血色のいい顔をしていた。本当は健康なのかもしれない。
「忘れる前に返しとくよ」
 磯村さんは財布を開き、千円札をテーブルに置いた。
「この前借りた千円。ありがとね」
 彼の財布にちらりと目をやると一万円札が数枚並んでいた。この前は千円にも窮していたくせに、今日はけっこうリッチじゃないか。
 僕は磯村さんに、どんな仕事をしているのかと聞いたが、
「いや、ちょっとね」
 と言うだけではっきりとは答えない。質問されて、どこかおどおどした雰囲気だ。
 僕は思った。もしかしたら磯村さんの正体は泥棒じゃないか。泥棒だから初対面の人間から平然とお金を借りられるのだろうと。普通の人はあんな厚かましい真似はできないものだ。ということはこの一週間のうちにどこかの家に盗みに入ったので、今日はけっこう持っているのだろう。
 さらにこんな考えも浮かんだ。足を引きずっているのは盗みに入った際に住人に気づかれ、逃げるときに塀から飛び降りて骨折したからではないか。
 想像をめぐらしていると、
「永山君、きみは大学生?」
 と聞かれた。
「いえ、元大学生です」
「どういうこと?」
「実は中退したんです」
「そうか。せっかく入学したのにもったいないことをしたね。苦手な科目でもあったの?」
「ええ。英語が……」
 僕はこれまでのいきさつを話した。磯村さんは泥棒かもしれないが、僕の話に穏やかにうなずくので、ついあれこれと話してしまう。
「中退したのは残念だ。でもきみはまだ二十七歳。人生はこれからだ。電気科に入ったということは技師を目指していたんだろ」
「ええ」
「だったら現場で働いて、仕事を覚えながら勉強しなさいよ」
 磯村さんは年長者だけあって、言うことに説得力がある。熱弁ともいえる口調ではっぱをかけてくれた。僕が一番勇気づけられたのは、
「二年間でいいから死ぬ気で努力してみたらどうだい。それで駄目なら諦めればいい」
 という言葉だった。
「諦めていいんですか?」
「いいよ。思いつめて自分を追い込むと人間はさらに駄目になるからね」
「はあ……?」
「どんなときも莞(かん)爾(じ)として泰然自若(たいぜんじじゃく)たれということだよ」
 泥棒とは思えないほど自信に満ちたアドバイスだ。
「とにかく限界まで頑張れば、たとえ思いどおりの結果が出なくても残りの人生にプラスになる」
 ここまで話すと、磯村さんは説教したことが照れくさくなったのか、
「今日はおごるよ。千円の利子だ」
 と僕のとんかつ定食の伝票を持って立ち上がった。僕は遠慮したが、磯村さんは、
「いいからいいから」
 と言うばかり。僕は磯村さんが泥棒で痛めた足を引きずりながらレジに歩くのを眺めていた。

  三

 翌日、僕はネットの求人サイトを見てあちこちの会社に応募の手続きをし、電気工事アルバイトの面接を受けた。その結果、従業員十数人の小さな会社に採用された。磯村さんのアドバイスに従って二年間だけがむしゃらに頑張ってみようと決め、働きながらまずは電気工事士の資格試験の勉強を始めた。僕も男だ。頑張れば未来は明るく輝くに違いない。
 と言えばいえばかっこいいのだが、疲れて帰ったあとアパートで参考書と向かい合うのはけっこうしんどい。最初のうちは眠気との戦いだった。そんな僕を励ましてくれたのが由喜美だった。
「その磯村さんの言う通りよ。人間、死ぬ気になれば何でもできるんだから」
 由喜美のアドバイスは体育会系の精神論に似て具体性に欠けるが、それでも彼女の存在だけが僕の心の拠り所だった。
 僕は相変わらずたぬき屋で夕飯を食べた。だが、あれ以来店で磯村さんを見かけることはなかった。
「捕まって、刑務所にぶち込まれたかな」
 休みの日に由喜美と渋谷を歩いているとき、僕は冗談を言った。
「そうかもね」
 由喜美はつぶやくように応じた。
 僕は彼女の横顔をちらりと見た。由喜美は生真面目な性格だ。普段は冗談に応じず、「また馬鹿なことを言ってる」とたしなめるのに、この日は賛同している。僕はそのことがおかして、くすっと笑った。
 スクランブル交差点を渡りながら、視線を前方に戻した。そのとき地下鉄の出入り口から見覚えのある男が出てきた。磯村さんだ。光沢のある生地のポロシャツの上に麻のジャケットをはおり、僕たちに背を向けて道玄坂を歩いて行く。人気ブランドのスニーカーはピカピカの新品だ。
 磯村さんは一人ではない。僕と同じくらいの年齢の若者を二人従えていた。時刻は夕方。仕事終わりに若者たちを飲みに連れていくという風情だ。足は不自由だが、頼りがいを感じさせる背中がなんだかかっこいい。
「磯村さんだよ」
僕は三人を指さした。
由喜美は、
「えっ?」
 と言って僕の顔を見るなり、僕を置いて早足になった。磯村さんに向かって突き進んでいくのだ。僕が「由喜美」と声をかけても聞こえないらしい。
 磯村さんたちを追い越したあと、由喜美は立ち止まった。僕を振り返るふりをして磯村さんをちらりと横目で見た。白い顔に微笑みが走った。磯村さんは由喜美の横を通り過ぎて雑踏に消えた。
「磯村さんて、けっこうイケおじじゃない。気づかなかった?」
 追いついた僕に、由喜美が言った。イケおじは女性の目から見た魅力的なおじさんの意味らしい。
「恒雄君が言うように不健康じゃなく、体格もがっしりしてるわよ」
「イケおじかどうか知らないけど、磯村さんの正体は泥棒だからね」
「泥棒でもいいのよ。世の中には良い泥棒と悪い泥棒がいるかもしれないでしょ」
「そうかなぁ?」
「そうよ」
 由喜美はきっぱりと言った。
「ほら、ねずみ小僧は大名屋敷から盗んだお金を貧しい庶民に分け与えたじゃない」
「あれは伝説でしょ」
「そんな夢のないことを言わないでよ。信じれば道は開かれるんだから」
「なんだか預言者みたいだな。何を言いたいの?」
 僕は聞いたが、由喜美は何も答えない。ただ、まるで名残りを惜しむように磯村さんが歩いて行った方向を見つめていた。

  四

 それから間もなくして、僕は電気工事士の資格試験に合格した。バイト先の社長は「それはおめでたい」と言って僕を正社員に昇格させてくれた。おかげで給料がぐんと増え、社会保険の適用も受けられるようになった。
 由喜美が飛び上がって喜んだことは言うまでもない。
「電気工事士の永山恒雄さん、次の目標は?」
 とテレビリポーターのようにマイクを向けるしぐさで僕に聞いた。
「もちろん電気工事施工管理技士です」
「自信のほどは?」
「うーん。半分かなぁ」
「そんな中途半端は駄目よ。絶対に合格するつもりじゃないと」
「分かった。自分のためじゃなく、由喜美のために合格するよ」
「その調子!」
 由喜美の目に涙がにじんでいた。
 バイトで食いつなぐ身から正社員になれたのはひとえに磯村さんのおかげだ。由喜美はいつも「恒雄君が磯村さんの助言に素直に従ったから、幸運が舞い込んできたのよ」と言う。僕もそう思う。磯村さんと出会い、彼の言葉に触発されて努力したおかげで人生に目標ができた。磯村さんがいなければ、僕は若くして敗戦処理のような日々を送り、空しく人生を閉じただろう。
 磯村さんに礼を言いたいが、長らくたぬき屋で見かけていない。僕はたぬき屋に向かうとき、彼が歩いていないかといつもきょろきょろしていた。試験に合格したことを知らせたいけど、携帯番号も住所も知らないので連絡の取りようがないのだ。
 資格を取って正社員になり、仕事はますます面白くなった。そうした充実の日々の中、僕は由喜美のことで悩んでいた。僕と知り合う前につき合っていた男がよりを戻したいとしつこくメールしてきたからだ。
 僕の指示に従って、由喜美は無視していたが、男からのメールの回数は増え、電話も頻繁にかかってくるようになった。一種のストーカーだ。
 僕にとって、由喜美はかけがえのない存在だ。次の資格を取ったら結婚しようと思っている。万一を想定し、由喜美を連れて警察に相談に行った。警察の担当者はストーカー男の行為がひどくなったら本人を呼んで注意すると言い、今後は由喜美のアパート周辺の巡回を増やすと約束してくれた。
 それでも心配なので、僕は由喜美が帰宅するときはアパートの最寄り駅で待ち合わせして夜道を送って行くようにした。仕事を終えてからだから一苦労だが、彼女を守るためなら何でもない。
 ある日のこと、工事現場の作業が予定どおり進まず、仕事の終了が遅れた。会社のクルマの中で着替える前に由喜美の携帯にかけたが、呼び出し音が鳴るだけで電話が通じない。着替えを済ませ、駅に飛んで行ったものの、彼女の姿はなかった。僕は胸騒ぎを覚え、由喜美のアパートに走って行った。
 予感は的中した。アパートの手前の暗がりで、由喜美が一人の男と揉み合っていた。腕をつかまれた由喜美は、
「離して」
 ともがいている。相手の男が例のストーカーなのは間違いない。
「何やってるんだ!」
 僕は怒鳴りながら体当たりした。男は吹っ飛んだ。僕も地面に尻をついたが、すぐに立ち上がった。
「由喜美、怪我はないか?」
 僕が由喜美を気づかっている間に男は起き上がった。線の細い小柄な体型だ。
「警察を呼べ!」
 僕は由喜美に指示して、ストーカー男の前に立ちふさがった。そのとき男が地面に置いた黒いカバンから何かを取り出した。街頭の光を浴びて、それはきらりと光った。包丁だ。僕は身構えた。
「由喜美、逃げろ」
 横にいる由喜美に声をかけたとたん、ストーカー男が刃を水平にして突進してきた。僕は由喜美をかばうため咄嗟に抱き寄せた。ストーカー男に無防備な背中を向けている。体のどこかを刺されるのを覚悟した。
 その瞬間、背後で人と人がもつれる気配があった。振り向くとストーカー男の握った刃物が血に染まっている。刃先が白いズボンに突き刺さっていた。ズボンの主はストーカー男を突き飛ばした。僕は人影に近づいた。
 磯村さんだ。磯村さんが包丁の一撃から僕をかばい、右足の太ももを刺されたのだ。
 パトカーのサイレンが響いた。ストーカー男は自分のしでかしたことの重大さに怯えたのか、悲鳴に似た声を上げてその場から逃げ去った。
「磯村さん、大丈夫ですか?」
 僕は右足から包丁を抜き、血が吹きこぼれないよう傷口を両手で覆った。
「大丈夫だ」
 磯村さんは落ち着いた口調で言い、由喜美を見てにこりと笑った。由喜美は顔を引きつらせ、傷口に当てた僕の手を上から両手で覆った。白くて細い指がたちまち赤く染まっていく。
「永山君、ひとつ教えておく。刃物で刺されたら、不用意に抜いてはいけない。抜くとよけいに血が出るからね」
 磯村さんに言われて、僕は自分がへまをしたことに気づいた。いくら動転していたとはいえ、それくらいの判断ができないとは我ながら情けない。
「それと、これしきのことで恋人の前でおろおろしてはいけないよ」
 磯村さんは血を流しているというのに、いつもの説教口調で言った。

  五

 その夜、磯村さんは救急車で運ばれて入院した。翌日、僕は由喜美を連れて病院に見舞いに行ったが、受付で「患者さんが傷が回復するまで面会をお断りしたいとおっしゃってます」と門前払いを受けた。会いたいけど会えない。そんなもどかしさをかみしめつつ、たぬき屋で夕飯を取っているときだった。
「どっこらしょ」
 と僕の前に人が座った。僕は顔を上げ、
「磯村さん!」
 と店中に響くほどの大声を上げた。
「あれ、誰かと思ったら永山君じゃないか」
 磯村さんは喜劇役者みたいなとぼけた表情で僕を見ている。
「足は大丈夫なんですか?」
「もう傷はふさがった。あんなの怪我のうちに入らないよ」
 磯村さんは笑った。
 見れば松葉づえも使っていないようだ。ベージュ色のチノパンは新品なのか、折り目がしっかりついている。足を刺された人が、事件からまだ四日なのに出歩いている。驚異の回復力だ。
「助けてくださってありがとうございます」
 僕は何度もお礼を言った。磯村さんは両手を左右に振って僕の謝辞をさえぎりながら、
「私がきみをかばった。だからきみはしっかり勉強しろ」
 と言った。
 なんだか変な理屈だが、驚きと興奮にある僕は深く考えず、
「はい、わかりました」
 と素直にうなずいた。
 それだけ言うと、磯村さんは何も食べず、僕の伝票を持ってレジに向かった。あれっと思った。怪我どころか、この前まで引きずっていた足が治っている。軽やかに歩いているのだ。一体どうしたのか。僕が首をひねっている間に、磯村さんは僕のとんかつ定食の会計を済ませ、店の外に姿を消した。
 僕ははっと我に返り、箸を置いて店の外に出た。だが磯村さんの姿はない。今度会ったら、あの晩なぜ由喜美のアパートの近くにいたのかを聞こうと思ったのに、突然現れたため動転して質問できなかった。
 磯村さんは何者。泥棒じゃなかったのか……?

  六

 事件から半年が過ぎた。僕は毎晩たぬき屋に通ったが、磯村さんに会うことはなかった。
 会社の仕事は順調で、重要な仕事を任せてもらえるようになった。僕が電気工事施工管理技士の勉強をしていることを考慮して、社長は無理な残業をさせないよう配慮してくれた。おかげで勉強が進み、僕は自信を持って試験に臨むことができた。昨日、二次試験を受け、三カ月後に結果が発表される。この一か月間追い込みで勉強したためデートの時間も取れなかったが、今日は久しぶりに由喜美と食事をすることになっている。
 僕は待ち合わせの渋谷に早めに着き、本屋に立ち寄ったあとカフェで読書を楽しんだ。腕時計を見ると間もなく約束の午後六時になろうとしている。僕は待ち合わせのレストランに向かった。
 横断歩道で立ち止まっているとき、反対側の歩道に見覚えのある人物がちらりと見えた。磯村さんだった。高級そうな濃紺のスーツを着て道玄坂を上っている。ペイズリー柄のネクタイがひらりと揺れていた。
 僕は彼の行方を目で追い、信号が青に変わるや、すぐに駆け出した。磯村さんは悠然と歩いているが、僕は人の波にはばまれてなかなか追いつけない。
 磯村さんは足を引きずることもなく、歩道を踏みしめて滑るように進んでいく。やがて坂の途中で左の小道に入った。
「磯村さん」
 僕は呼びかけた。大きな声を出したつもりだが、彼は聞こえないようで、振り返ろうともしない。
 まもなく磯村さんは僕の視界から消えた。いや、正確に言えばあるビルの中に入って行ったのだ。僕は建物の看板を見上げて愕然とした。
「永山電気工業」
 僕の名前「永山」と同じ会社名だ。ビルの中に入って磯村さんを訪ねたいが、すでに由喜美との約束の時間を過ぎている。僕はビルの住所を確認して、レストランに走って行った。
 由喜美は席について僕を待っていた。
「いま磯村さんを見かけたよ」
 僕は激しく息をつきながら、見たばかりのことを話した。意外なことに、由喜美はそれほど驚いていない。
「高級スーツと永山の看板……。やっぱりね」
 と言って胸の前で両腕を組み、天井を見上げた。それから僕を見てにっこり微笑んだ。
「恒雄君、おめでとう。今度の試験は合格よ」
「何で分かる?」
「磯村さんがあなた自身だからよ」
「えっ?」
「たぬき屋での出会いは未来の恒雄君が二十代の迷える自分を導くために現れたの。その証拠に、あなたが野菜を食べるようになったら、磯村さんの顔が健康そうになったでしょ」
 由喜美の言葉を聞きながら、僕は二年前のたぬき屋の風景を思い返した。
 彼女の言うとおりだ。磯村さんは僕がサラダ好きになると血色が良くなった。僕が電気工事のバイトと試験勉強を始めたあとは、おしゃれな格好で若者を連れて歩いていた。僕の境遇が変わるたびに、磯村さんの風貌が変化した。
 ということは……。
「あなたは三か月後に合格する。そして将来は社長になる。永山電気工業という会社のね」
「あの夜、ストーカーに襲われたのは?」
「磯村さんが刺されたおかげであなたは怪我をしなかった。だから未来の磯村さんの怪我が消えたのよ。磯村さんは過去の自分の怪我を防いで足を治したってわけね」
「そうか……」
 なんだか頭がぼおっとしてきた。未来の自分に導かれるなんて、そんなことがあるだろうか。だけど実際に起きたことだ。
 僕は大きく息を吐いた。
「磯村さんは泥棒じゃなかったんだ」
「いいえ。立派な泥棒よ」
「……」
「彼はあなたから運命を奪った。奪いながら人生をつくり変えたわけ。ねずみ小僧、いえ、石川五右衛門も顔負けの大泥棒ね」
「磯村さんは僕を苦境から救うために現れた。他人の意見は真面目に聞いたほうがいいってわけだ」
「そう。良い意見ならね」
 由喜美はしたり顔で言った。
 僕は思った。一年前の渋谷で、由喜美は磯村さんを「イケおじ」と評した。あのとき彼女は磯村さんが成長した僕だと気づいた。
 いや待てよ。僕が「刑務所にぶち込まれたかな」と冗談を言ったときに彼女が「そうかもね」と応じたのは、すでに磯村さんの正体を察知していたからではないか。たぬき屋での出会いを聞き、未来からメシアが到来したのだとピンときた……。
「由喜美は磯村さんが何者かを見抜いていたんだね?」
 僕は聞いたが、由喜美は、
「えっ、何のこと?」
 と言って大らかに笑うだけだ。テーブルに料理が並ぶと、僕が何を聞いても磯村さんの話題に触れようとしなかった。彼女の静かな笑みを見ながら、僕は自分が立ち直った喜びをかみしめた。
 コンソメスープの湯気の向こうで緑色のサラダが瑞瑞しい輝きを放っている。クラシックのBGMを聞きながら飲むワインは格別だ。秋の夜のひととき。由喜美と僕の間を、満ち足りた時間が流れて行った。

     (了)
(文字数9,120字)

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