動物写真家・小原玲の生涯 (「どうぶつ愛護の物語集」より)
石井建志
「ミャアミャア」「ギャーギャー」という子猫のような鳴き声が聞こえる。あれはタテゴトアザラシの赤ちゃんが親を呼ぶ声だが、動物写真家で故人の小原玲を探すような鳴き声にも聞える。
小原玲は20年以上、カナダの流氷とタテゴトアザラシを撮影し続け、日本でのタテゴトアザラシの赤ちゃんブームの火付け役にもなった有名なカメラマンだ。ホタルの季節には全国のホタルや、北海道のシマエナガなど色々な動物の写真を撮り続けた。
これは動物写真家・小原玲(故人)と作家で妻の堀田朱美、その家族の物語である。
小原玲は1961年2月に生まれ、前橋高校、茨城大学を卒業。高校時代から写真展に入賞してカメラマンを目指した。大学卒業後はFRIDAYのエースカメラマンとして活躍する。1986年独立して報道カメラマンに転身。しかし、天安門事件や湾岸戦争で人の死ばかりを写すことに疲れて、動物写真家に転身する。
2021年11月、肺癌のため遠征中の北海道の病院にて60歳で亡くなる。まさに波乱に満ちた生涯だった。
堀田朱美は故人・小原玲の妻、現在60歳。小説家、椙山女学園大学教授。『1980アイコ十六歳』が当時史上最年少で文芸賞を受賞、映画化された作品だ。
小原玲との間に三児を授かった。長男真斗、次男海斗、長女琴子。うち、海斗は自閉症スペクトラム障害も持ち、朱美の自著『発達障害だって大丈夫』でも紹介している。
次男の堀田海斗は大人の顔付きとあどけなさが残る二五歳。発達障害により言葉が不自由だ。「ねえ、お母さん、お父さんのことをいっぱい話してほしい」と母の朱美に頼んだことからこの物語は始まる。
動物写真家・小原玲は2021年11月17日、北海道の病院で亡くなった。それからもう三年も経過した。
堀田朱美は次男の海斗と、亡夫のことを海斗に語る。二人はソファに身をうずめ、小原玲が残した写真の数々を見ながら生前の功績を語る。
「お父さんのこと、四夜にわたってお話をしてあげるね」
とASDの海斗にも理解できるように話す。海斗も母の話に真剣に耳を傾けた。
初日のこと。「まずは、高校生の頃のことだよ」と優しい口調で語り始めた。
「中学2年でお爺ちゃんが亡くなった。お母さんと出会う前で、真斗も琴子も生まれる前だよ。」
と朱美は言う。
「お父さんは母子家庭なので、おばあちゃんを安心させようと、安定した道の教師になろうと考えていたらしいの。でもね、あることが切っ掛けでカメラマンになることにしたんだって」
と小原玲から何度か聴いていたエピソードを海斗に告げる。
カメラマンになろうとした転機は高校時代に応募した出版社の写真コンテスト。「休み時間」のタイトルで応募した作品で、昼休みに黒板に向かって化学の先生と議論する長髪の優等生とアダルトな写真集を見てニヤニヤするイガクリ頭の野球部員を対比させた写真だった。
小原は「高校生対象だったから、こんな作品は評価されないだろう」と想像していたが、意に反しグランプリに輝き、人生を変えることになった。
自衛隊音楽隊の指揮者で写真好きだった父親の形見のペンタックスで撮りまくり、「同級生を撮るのが楽しく、みんなと仲良くなれ、写真撮影で周りが幸せになれる」という喜びを感じていた。
朱美は亡夫のグランプリ作品を携帯の写真アプリから引き出して海斗に見せた。
「うん、それはお父さんに見せてもらったことがあるよ。お父さんの自慢の写真でしょう?」
と生前の亡父とのやりとりを思い出していた。
翌日の夜も朱美と海斗はリビングのソファに座り、
「今日は報道カメラマン時代のことと動物写真家になった切っ掛けを話すね。報道カメラマン時代はまだお父さんのことを知らなかった。頑張っていたけれど、とても辛かったらしいの」
と朱美は前置きして、20代の頃の亡夫について語り始める。
茨城大学卒業後は、当時創刊したばかりの写真週刊誌FRIDAY(フライデー)のエースカメラマンとして活躍。田中角美江子元首相の入院、日航機御巣鷹山墜落、ロス疑惑三浦和義の逮捕といった数々の事件現場に出張った。
FRIDAYが芸能ゴシップを中心とした紙面になるにつれて嫌気が差して、ビートたけしとたけし軍団によるフライデー襲撃事件を切っ掛けに退社する。
小原玲はフリーの報道写真家としてスクープを連発した。天安門事件や湾岸戦争、ソマリア内戦を取材、ファインダー越しに多くの「死」や「悲しみ」を見てきた。
「海斗はソマリアの難民の子供達を見てどう思う?」
と朱美が聞くと、海斗は
「こんなに痩せた子がいるんだね?お父さんも悲しんでいたのかなぁ?」
と驚き、見るのも辛そうだ。
「そうね!お父さんはシャッターを押すのが辛くなり、「カメラを捨てよう」とまで思い込んだらしいの。でもね、そんな落ち込んだお父さんを救ったのはアザラシの赤ちゃんだったのよ。つぶらな瞳を見て、夢中になってシャッターを切ったって言っていたわよ」
と動物写真家・小原玲が誕生した瞬間を海斗に話した。
「その方が良かったよね」
と海斗も暗い顔が明るい顔に変わった。
3日目夜、動物写真家転身後の小原玲について語り始める。小原玲は多くの写真集を出版している。
日本でのアザラシの赤ちゃんブームの火付け役となった大ヒット作『アザラシの赤ちゃん』(1990年)、ホタルを撮影した『螢 Light of a Firefly』(2002年)や『ほたるの伝言』(2010年)、北海道に入り浸りシマエナガの魅力を伝え、若者や女性に人気を博した『シマエナガちゃん』(2016年)など。
また、小学一年生の国語の教科書にも載ったシロクマ母子の写真物語『うみへのながいたび』もあり、後世に名を刻んだ。
朱美は亡夫がカナダで二十年以上に及び流氷の取材を続けていたことを誇りに思っている。小原玲は「地球温暖化」の目撃者であり、流氷の異変を著書や講演などでも伝えていた。
家族でカナダの東端マドレーヌ島に渡航したときの写真も二人で見入った。流氷にはヘリコプターで飛んで行くが、天候が不順だとホテルでの待機を余儀なくされ、他の同行者たちと一緒にロビーやレストランに集まって、お話をしたりスライドショーを見たり。天候が良ければ、流氷に寝そべって、タテゴトアザラシの赤ちゃんと同じ目線に寄り添った。アザラシの赤ちゃんが母親と思って近寄ってくるから、とてもかわいい写真がいっぱい撮れた。
「海斗はどの写真が好き?」
と朱美は海斗に聴くと、
「みんな良い写真だね。でも、お父さんに連れて行ってもらったカナダのアザラシの赤ちゃんの写真は大好きだよ。お父さんとアザラシの赤ちゃんが同じような体型しているね」
と笑った。この頃の小原玲は巨漢だった。体重を減らしたりリバウンドしたりして心臓に負担が掛かったのも寿命を短くした要因だった。
朱美は4日目の夜も海斗の肩に手を回して思い出を語った。海斗の集中力を慮って、毎夜一時間程度に抑えていたが、海斗の集中力はなかなか切れない。
「海斗、今日はお父さんが子供たちを大切にしてきたんだよ、って話をするね」
と前置きして、亡くなる直前の亡夫の気持ちを伝えた。
「お父さんは多くのお友達に親切だったよ。色んな人が褒めてくれる。」
「お父さんは亡くなる一年前にガンで余命宣告されたの。お母さんのことや子供たちのことをとても心配していたけれど、『人生で一点の悔いもない。ずっと写真を撮ってきたから』と話していた。亡くなる直前まで撮ったのが愛くるしい表情のエゾモモンガ。お父さんは『かわいい』を追い続けたの。お父さんはみんなのこと、動物たちも『かわいい』と言っていた。写真家にとっての『かわいい』は『守りたい』と同じなの。少し海斗には難しいけれど、お父さんは報道写真家から動物写真家に転身したと言うけれど、お父さんはずっと報道の人だったと思うわ。自然の美しさや動物のかわいさを伝えたかったのではなく、人との関わり合いを写してきたの。だから、みんなに優しいの」
と語った。
「お父さんは元々『子供はいらない』と言っていたので、お兄ちゃんの真斗が生まれて病院を退院する時のお父さんの言葉には驚いたわ。お世話になった看護婦さんに、アザラシの赤ちゃんのポストカードを差し上げたのね。看護婦さんから『こんなかわいいのをもらって良いのですか』と言われ、お父さんは『もっとかわいいものをもらって帰りますからご遠慮なく』って言ったわ。海斗、わかる?お母さんもあなたたちを産んで良かったと思ったわ。そして、お父さんは子供たち三人の面倒見が本当に良くてお母さんも助かったわ」
と子供が産まれた頃の亡夫を思い出していた。
小原玲は60歳という若さで早逝してしまったが、全力で走り切った人生だった。
「お父さんは立派だったね。ぼくもお父さんのように頑張りたい。」
と、海斗は呟いた。
【あとがき】
筆者は小原玲と高校時代の同級生だ。
名古屋や東京、カメラマンとして活躍する同窓会などで何度か会っている。とても優しく、誰にでも好かれるタイプの性格だった。まだまだこれからだという時に惜しまれて他界してしまった。
改めて小原玲君のご冥福とご遺族様のご多幸をお祈り致します。
完
(文字数3,745字)