平野周「雪降る永代橋で」

雪降る永代橋で ―大江戸奇っ怪噺―

平野 周

   一

 棒手振の佐吉は、ひどく憔悴していた。
 今日も長屋の奥の間に、一人ぽつねんと座って位牌ばかりをを眺めている。正月もずっとそうして過ごした。まるで人の抜け殻みたいである。
 佐吉といえば、誰もが認める、明るくいなせな豆腐売りだった。それが、なぜそうなったかというと、当然、理由がある。
「なんで、死んじまったんだよぉ。おみつ」
 真新しい位牌に向かって、そう言っては涙ぐむ。
 おみつというのは、佐吉の恋女房の名前である。二人は、惚れて惚れられて、俗にいう相惚れて祝言を上げたのだった。だが、夫婦になってわずか三ヶ月、突然、ぽっくりとあの世に旅立ってしまったのだ。
「まだ、十九になったばっかりじゃねえかよ」
 佐吉の嘆きはきりもないが、確かに齢十九といえば、若い身空で、といって良いかもしれない。
 おみつと知り合ってまだ一年ほどである。長い年月ではないが、この一年は二人にとって幸せな一年だった。そしてこれからも、表に店を構え、子供が生まれて、と夢は大きく広がっていたのである。その幸せな夢が、ある日、ぱっと消えて無くなったようなものなのだ。佐吉としては、何をする気力が起きないのもやむを得ないことだったろう。
「居るかい、佐吉」
 腰高障子が開いたようである。
 ゆるゆるとした動作で、奥の間から出てきた佐吉は、
「いらっしゃい。叔父さん」
 と挨拶したが、声は小さかった。
 佐吉の姿を見て、叔父さんと呼ばれた男は顔をしかめた。
「お前ぇ、何も食ってねえだろう」
 と言って、框に腰を下ろすと、手にした器を畳の上に置いた。
「はい。食べる気も起きないものですから」
「そいつはいけねぇ。これは嬶ぁからだ。食って元気出しねぇ」
 叔父さんは畳の上に置いた器を佐吉の方へ押しやった。上に冷めないように布巾が被せてある。
「暖かいうちに喰いねぇ」
 器の中は煮物であろうか。だが佐吉は、黙ってじっとしたままだった。
「無理もねえやな。あれほど惚れたおみっちゃんを亡くしたんだから」
 叔父さんは名を伝平という。今年四十になる男盛りである。
 伝平はため息を一つついた後で、
「だがなぁ。死んだ者は生き返っちゃ来ねぇ。それに、いつまでもめそめそしていたら、あの世でおみっちゃんが悲しむぜ。元気を出しな。お前ぇの豆腐を待ってるお得意さんもいるんだぜ」
 と励ました。
 佐吉は双親を早くに亡くし、叔父の伝平に引き取られて大きくなった。ここでおみつと所帯を持つまでは、伝平のところに住んでいたのである。
 伝平は深川佐賀町で豆腐屋をやっている。佐吉は伝平に豆腐造りを習いながら、天秤棒で担いで売る、いわゆる棒手振でもあった。
「今日も冷えるな。長居もなんだから、これで帰ぇるが、早く店に顔を出すんだぜ」
 伝平はそう言って外に出たが、
「何でぇ。雪でも降ってきそうな空模様だぜ」
 ぼやきが聞こえてきた。
 佐吉はまたゆるゆるとした動作で、伝平の持ってきた器を持ち上げると、奥の間に入った。
「喰いねぇ、おみつ。叔母さんの煮物だ。うめえぞ」
 そう言って、器をにわか作りの仏壇に供えた。
「居るかね、佐吉さん」
 そのとき訪いの声が聞こえてきた。男の声だが、先ほどの伝平と違って、低いがらがら声である。声で誰かは分かった。
 佐吉は再びゆるゆるとした動作で茶の間に出ると、
「こんにちは、差配さん」
 と、丁寧に挨拶した。
 おみつと所帯を持ったこの長屋は、部屋が茶の間と奥の間の二つある。それでも家賃が他よりも安く、いいところを見つけたね、とおみつと言い合ったものだった。
「寒いねえ。外は雪でも降り出しそうな塩梅だよ」
 差配の言葉は、屈託なかったが、
「店賃がまだでしたよね」
 おみつが死んでから、ろくに稼ぎにでていないのだ。先月分の店賃を確か払っていなかったな、と佐吉は思った。
「元気がないねぇ。店賃のことは昨日も言ったじゃないか」
 そうだった、稼ぎに出てからまとめて払ってくれればいいよ、と言われたのだった。
「すいません」
「いいんだよ。それより元気をださなきゃ」
 差配の名は喜左衛門という。歳は六十に一つ二つ足りないはずだ。
 喜左衛門の心遣いに、佐吉は素直に、はい、と肯いた。
「お前さんの気持ちも分からないわけじゃぁない。相惚れで祝言を挙げたんだもの」
 この時代の結婚は、見合い結婚が一般的である。武家で、相惚れて結婚、ということはまずない。町家では少し事情が異なるが、それでも見合い、というか、仲に入ってくれる人がいて、話がまとまるという形が圧倒的である。見合い結婚というよりも仲立ち婚、といった方がより実態に近いだろうか。
 それでも結婚できる男はましな方だったのである。結婚できない男も相当数いたからである。なぜなら江戸は、圧倒的に男の数が多い町だったのだ。
 したがって佐吉の場合は、本当に幸運といってよいもので、その幸せは他ではうかがい知れないものがある。それだけに、わずか三月で先立たれた不幸も、簡単には癒されないものなのかもしれない。
 でもねぇ、と喜左衛門は続けた。
「今のまんまじゃぁ、おみつさんもあの世で悲しむと思うよ」
 再び佐吉は、しんみりと、はい、と肯いた。
「もう四十九日も済んだんだ。おみつさんも成仏しただろう。気持ちを切り替えて、稼ぎに出ようじゃないか」
 喜左衛門は諭すように言った。
 亡くなってからあの世に行くまでに四十九日掛かるといわれている。それまではまだ魂が流離っていると考えられていた。ただし仏教では、亡くなった人が、次の生を授かるまでの期間を四十九日とし、それを〈中陰〉といった。
 おみつの四十九日は五日前だから、すでにおみつの魂は成仏し、今頃は極楽往生しているか、別な人として新たな生を受けているはずである。
「それに、稼いでくれなくちゃあ、ここの店賃も払えないだろう」
 その言葉は本心からではなく、佐吉を励ますために言ったものである。佐吉もそのことは理解した。喜左衛門といい、伝平といい、ここを訪れたのは、今日が始めてではない。
 佐吉は、いつまでもこのままではいけない、と思った。少しずつだが、おみつを亡くした傷が癒えてきているのかもしれない。
「ご心配をおかけしました、差配さん。もう大丈夫です。明日から稼ぎに出ますんで」
「そうかい」
 喜左衛門は心から嬉しそうな顔をした。
「困ったことがあったら、何でも言っておくれ。縁があってあたしの差配する長屋に来たんだ。あたしで力になれることがあれば、何でも力になるからね」
 喜左衛門は優しく言って帰っていった。
 いつまでもおれのことを心配してくれる人がいる。ありがたいことだ、と胸の内で呟きながら、
「いつまでもお前ぇのことを思ってめそめそしてもいられねぇようだ」
 佐吉が位牌の前に戻って手を合わせたとき、
「ごめんなさい」
 という訪いの声が聞こえてきた。
 立て続けに客が来る日だなぁ、と思いながらも、今度の訪いが若い女の声で、しかも聞いたことのない声だと思ったとき、佐吉は位牌をちらっと見やった。
「どなたさんでしょう?」
 佐吉が恐る恐る奥の間から出たとき、すでに障子は開いていて、玄関に歳の頃二十歳ばかりの女が立っていた。
 どこかで見た顔だな、と思いつつも、佐吉にはどこの誰だか思い出せなかった。
「ここ、佐吉さんの長屋ですよね」
「そうです。あっしが佐吉ですが」
「お豆腐の担い売りはやめてしまったの?」
 唐突ではあったが、女のその言葉で、そういえば豆腐を買ってくれる客の中に居たかもしれない、と思った。見たような気がしたのである。
「へい。ちょいと女房に不幸がありまして、休んでおりました。ですが、明日から、また売りに出ますんで」
「そう、良かった」
 女は嬉しそうな声を出すと、
「あたしは西平野町のおとくといいます。待ってますから」
 と言って、帰って行った。
 佐吉はちょっとびっくりしてしまった。おとくと名乗った女の行動を大胆だと思ったのである。
 だが、と佐吉は思い直した。祝言を挙げる前はたまにあったことなのである。佐吉は、細くて彫りの深い面立ちである。動作もきびきびしていた。正直、女にはもてたのである。おとくの訪問に悪い気はしなかった。
「おみつ。明日から稼ぎにでるぜ、安心しな」
 佐吉は、ようやくおみつを失った痛手から立ち直りつつあった。

   二

 おみつの意識がはっきりしたのは、どこか分からないが、目前に赤い顔の角の生えた奇っ怪な男の前だった。
「あんた誰よ?」
 おみつは伝法な口のききかたで訊いた。夢だと思ったのだ。ひどく現の感じが希薄だった。
 そういえば、亭主の佐吉がひどく悲しんで泣いていたのを見たような気がする。誰かの枕元だったような……。
 誰だったのだろう。白い布が被せられていたので誰だか分からなかった。まるで宇宙(といってもよく分からないが)から下界を眺めるような感じだった。ぐるぐる回っていたように思う。川を渡ったような気もする。
〈三途の川〉
 と、書かれた小さく古びた看板が見えて、
「やだ! これが三途の川なの」
 思わず声をあげたような気もする。
 で、意識が戻った、というわけなのだが、目の前に奇っ怪な男がいたものだから、ちょっとびっくりした、という次第なのである。
「俺は獄卒だ」
 奇っ怪な男は胸を張って答えた。
 辺りは真っ暗で、その男だけがはっきりと見える。窮屈そうに椅子に座り、前に小さな木の机があって、上に帳簿が一冊置いてある。
「ごくそつ?」
 獄卒と名乗った男は、赤ら顔で頭に左右の角を生やし、目がらんらんと輝いていた。丸い団子鼻の下には、口の両端から上に向かって尖った牙が二つ飛び出していた。
「よく分からないけど、あんた鬼なの?」
「違う。人間界ではそう呼ぶかも知れんが、ここでは獄卒という」
「ふうん。そうなんだ、やっぱり鬼なのね」
「違うと言っておろうが」
「年齢はいくつ?」
「鬼に歳はない」
「やっぱり、鬼じゃない」
 赤ら顔の獄卒は、しまった、という顔をした。
「ここって、いったいどこよ?」
「何という伝法な娘だ。本日、わしは閻魔大王様の名代なのだぞ」
 赤ら顔の獄卒は声を改めたが、おみつをややもてあまし気味である。
「十九年ぶりではあるが……」
 獄卒はちょっと残念な感じで付け足したが、おみつは聞いていなかった。
「えっ! 閻魔大王様の名代って、もしかしたら、ここは地獄なの?」
「そうだ。お前は死んだのだ」
「嘘よ……」
 おみつは絶句してしまった。
「気の毒だが……」
 獄卒が地獄の説明をしようとしたとき、わっという大きな泣き声が響いた。
 それはおみつのもので、死んだ、と聞き、もう佐吉に逢えないかと思うと、突然、悲しくなったのだ。
 身悶えるようにして大声をあげてなくおみつに、
「やれやれ。怒ったり、泣いたり、忙しい娘だ」
 眉をしかめながら言って、目前の帳簿を繰りだした。
 ひとしきり泣くと、おみつは少し気持ちが落ち着いてきたようで、そうすると、様々な疑問が湧いてきた。
「ねえ。なんで、閻魔大王様は居ないの?」
 おみつは小さい頃に大人たちから聞いた話を思い出した。それによると、死んだ人間は閻魔大王の前で裁かれることになっている。生前の行いの善悪を問われるのだが、それによって、地獄でどのような苦しみを味わうか、つまり刑罰が決まるというわけだった。その決まった刑罰を執り行うのが鬼たちだった。
「そんなことは、お前は知らなくてよい」
 獄卒はにべもなかった。
「じゃあ、あんたがあたしを裁くというの」
「そうだ」
 獄卒の断定におみつは閃いた。
「あんた、同心みたいなもんでしょ。お奉行さまは居ないの?」
「馬鹿もの。ここは町奉行所ではない。獄卒といっても、今日、わしは閻魔大王様の名代だからの」
 声と話しぶりから察するに、この鬼は人間でいうとかなりの年輩か、偉い人なのかもしれない。とはいえ、
「あたしは嫌だ。ちゃんと閻魔大王様のお裁きを受けたい」
 どうせ裁かれるなら、名代とかではなくてちゃんと閻魔大王に裁かれたい。死後一回こっきりのことではないか、とおみつは思った。それに、死後、地獄で苦しむような悪いことは何もしていない、とも思った。
「無理を言ってはいかん。閻魔大王様はお休みなのだ」
「大王様はよくお休みになるの。ずる(・・)してるんじゃないの」
「何という不埒な娘。言葉を慎まぬか」
「だって、死者は必ず閻魔大王様がお裁きになると聞いたのよ」
「ま、確かにその通りだが」
 獄卒の声が低くなった。
「お願いです。大王様がお出ましになるまでの間、生き返らせてください」
 閻魔大王が裁かない以上、地獄へは行けない。ということは、生き返る絶好の機会ではないか、と期待したのだが、
「また、魂になってさまようか?」
 獄卒にそう言われて、そうか、そうなるのか、と妙な納得をしたおみつだった。儚い期待だった。
「今日は一月十六日なのだ。七月十六日と年に二回だけ閻魔大王様はお休みになられる」
 つまり直接裁定しない、ということらしい。
「藪入りじゃないの」
 藪入りとは、商家の奉公人が、年に二度だけ実家に帰るのを許された日のことで、
「大王様も大変なお勤めなのね。お休みが藪入りしかないなんて」
 と、妙な感心をした。
 本来は閻魔大王も休むことから商家などでも休むこととしたらしいのだが、
「まあ、死者は日を選ばぬからな」
 と、獄卒は特にそのことには触れなかった。
「それで、ゴクソツ(・・・・)さまがお裁きになるの」
「まあ、そういうことになるの」
 獄卒の言葉が急に柔らかくなった。さま付きで呼ばれて、ちょっと気をよくしたらしい。
「やだ!」
 おみつは思わず叫んだ。
「嫌だとは何だ」
「見たところあたし一人、なぜあたしだけ大王様じゃないの」
 例え、町奉行所で裁かれるにしても、与力や同心ではなく、やっぱりお奉行様に裁かれたい、とおみつは思った。
「お前一人ではない。一人ずつ順に裁くから、いまここにはお前しかいないのだ」
「ふうん」
「分かったか」
 獄卒は厳かに言って、さらに帳簿を繰っていったが、
「や、やっ」
 驚いたような声をあげて、帳簿の一か所に目を留めてじっと見入った。そこは二十年前に獄卒が裁いたところだった。
「う、ううむ」
 唸りながら、帳簿の一か所とおみつとを見比べている。
「どうしたのゴクソツさん?」
 おみつは〈獄卒〉の意味が分かっていない。名前だと思っているのだ。
「お前は素直そうな娘だが、言葉使いが荒くていかん」
 帳面から目を上げて、獄卒は顔をしかめながら言った。
「江戸っ子だから仕方ないじゃない。それにあたしはもう娘じゃありません」
 三月前に祝言をあげたばかりだ、と抗弁しようとして押し黙った。それを言うと悲しくなる。
「まあよい。明るくておきゃんなところは母親に似たんだろう」
「おっかさんを知ってるんですか?」
「いや、知らん」
 獄卒はまたも、しまった、というような顔つきをしたが、すぐに元に戻ってきっぱりと言った。
 そう、とおみつは寂しそうに下を向いた。母親とは生まれ変わりだったという。かなりな難産で、おみつを産み落とすとすぐに亡くなってしまったのだ。
父親は再婚せずに男手一つで育ててくれたが、その父親もおみつが嫁入りする一月前に流行り病がもとで亡くなってしまった。おみつの花嫁姿を何よりも楽しみにしていたのに。そんな双親のことを思い出して、思わず涙をこぼした。
「泣くな。お前の殊勝な態度に免じて一度だけ蘇るのを許そう」
 と、獄卒は慰めるように言った。
 おみつは聞き間違いかと思った。顔をあげてじっと獄卒を見た。
「こら。若い女に真っ直ぐ見つめられるとわしも照れるではないか」
 獄卒は意外にも純情なことを言って、
「ただし、蘇ろうにもお前の身体というわけにはいかぬ」
「どうしてですか?」
「残念だが、お前の遺体は荼毘に伏されてしまって無いのだ」
 火葬にしたということである。
「それでも蘇りたいか」
 蘇ってもおみつではない。別な誰かということである。だがおみつは迷わなかった。
「はい。お願いします」
「よし。待っておれ。いま、探してみよう」
 そう言って獄卒は、もう一度帳簿を繰り直していたが、
「あった」
 と叫んで、
「西平野町のおとくという女が、たったいま息を引き取った。一人でふぐを食って、その毒に当たったようだ」
「ふぐの毒!」
「幸い今ならそのおとくの身体を借りて蘇ることができる。歳は二十一。お前よりも二つ上だが、まあ贅沢はいうまい。良いな」
「はい」
「よし、決まりだ。ただし、おみつは現世の者ではない。お前はあくまでもおとくだ。もし、おみつの生まれ変わりだと知れたら、その場で消えてなくなることを覚悟せい」
 獄卒が宣言したとたんに辺りは暗くなり、おみつはまるで暗い穴に吸い込まれるような感覚に気を失ってしまった。そのとき、
 ――十九年ぶりに閻魔大王様の名代を務められたというのに、何という因果なことなのだ
という、獄卒の嘆き声が聞こえたような気がした。
 そして、気がついたとき、おみつはその長屋の中に寝ていたのである。
 はっ、として辺りを見回したとき、獄卒とのやりとりが鮮やかに思い返された。
「ここがおとくさんという人の長屋なんだわ」
 思わず一人ごちたが、おみつの意識を失っていないことに感謝した。おとくのまんまで蘇ったら佐吉とのことも無くなってしまうからである。おみつの意識がある限り、佐吉の元を訪ねられる、と思った。そのときである。
「たいへんだよ、おとくさん」
 腰高障子ががらりと引き開けられて、歳の頃三十ばかりのおばさんが顔を出した。
「……?」
 むろんおみつの見知った顔ではない。
「どうしたんだい。あたしの顔に何かついているのかい」
首を振って、おみつは心を落ち着けた。じっと心気をこらすと、
「おたねおばさん。どうしたんです」
 その言葉は、声質はもちろん、中身もおとくのものだった。
「いやねぇ、内の宿六がね、ふぐの毒に当たっちまってね。お医者を呼んだんだけど、だめだったんだよ。それでお裾分けしたお前さんのことが心配で来てみたんだが……」
 そこまで言っておたねさんは、
「でも、よかった。お前さんは無事で」
 と、おいおい泣き出してしまった。
 どうやら、おとくはおたねからもらったふぐの毒に当たったらしい。
「あたしは何ともありませんでしたよ、おばさん。でも、おじさんはお気の毒に」
 言葉を詰まらせると、すまないね、と何度も言いながら帰っていった。
「さて、と……」
 おみつはこれからどうしようかと考えた。

   三

 どうやら身体は完全におとくのものである。だが、意識はおみつのものだった。では、おとくのつきあっていた人のことは分からないのか、というとそうでもない。頭を真っ白にして、じっと待っていると、直ぐにおたねの知っている人なら、事実だけがしっかりと脳裏に湧き上がってくるのだった。
 そのことを理解したおみつは、次にここがどこなのかを知ろうとした。
 ここが深川の西平野町の権兵衛店と知ったとき、
「やだ。ずいぶん近いじゃない」
 おみつは嬉しそうに叫んだものだった。
 佐吉と住んでいた深川伊勢崎町多助長屋とは、道路を挟んだ向かい側であった。両方とも仙台堀に沿った細長い町である。
 そのときおみつは、ほんのちょっと赤ら顔の獄卒に感謝した。
「佐吉さんはどうしているかしら」
 おみつが佐吉のことを想ったとき、意識の底で何かしら蠢くものがある。不審に思って心気をこらすと、
「やだ! この人、佐吉さんを知ってる」
 明らかにおとくのものだった。
間違いない。佐吉のことを思う度にだんだん反応が強くなっていく。だが、強いが暗いものだった。それでも不快な感じではない。
「もしかしたら、この人も佐吉さんを好きだったんじゃないかしら」
 という疑いが、鎌首を持ち上げる蛇のように、むっくり起きあがるのを止めようがなかった。
「でも、なぜ?」
 いったい佐吉との関係はどのようなものだったのだろう。おみつは余計なことに悩むはめになった。このときおみつが赤ら顔の獄卒を恨んだことはいうまでもない。
 やがて、おみつの疑問は氷解した。
「この頃、豆腐の棒手振の姿を見ないねえ」
 翌々日、おたねさんのご亭主の葬儀に出た後で、近所のおかみさんに言われたのである。
おとくのおみつがどう返事をしていいか迷っていると、
「ほら。何と言ったかねえ。ちょいといなせな好い男」
「佐吉さん?」
「そう。何かあったのかねえ。去年の暮れ辺りからぱったりこなくなっちまった」
 そうか、この辺りは佐吉さんのしま(・・)だったんだ、とおみつは合点がいった。
 去年の暮れから、ということは、もしかしたらあたしが死んでからじゃないだろうか、と思った。
「このままだと、縄張りを他の人に取られちまうんじゃないかねえ」
「まさか……」
 おとくのおみつ(ややこしいので、これからは「おみつ」とさせてもらいます)は、否定したが、動揺が広がっているのは事実だった。
 縄張り、というほど大げさなものではないが、棒手振りはなじみを持ち、回る地域が一定してくると、稼ぎが計算できるようになる。
 だが、長い間顔を出さなくなると、確かに他の棒手振りに客を取られるかもしれない。急におみつは心配になった。
「思い切って、佐吉さんのところを訪ねてみようかしら」
 一人ごちると、いてもたってもいられなかった。おみつは伊勢崎町の多助長屋を訪ねて見ることにした。
 その日は冬空の厚い雲がどんよりと垂れ込めた日だった。風はないが冷えのきつい日で、
「雪でも降るんじゃないか」
 と、ささやきあう声を何度も聞いた。
 懐かしい多助長屋の佐吉のところに来たときおみつは思わず涙が出そうになった。
 このまま、ただいま、と屈託無く言って、腰高障子を開けられたら、どんなに幸せなことだろうか、と思ったのだった。
 おそらく佐吉は布団にくるまって寝ているだろう。
「冷えるわね、何で炭を熾さないの」
 と訊くと、
「ばかいうねぇ。掛かりが出るだろう。今は少しでも貯めねえとな」
 と返すに決まっている。お金を貯めて、表に豆腐屋を出すのが二人の夢だったのだ。
 おみつはそんな思いを振り切って、
「ごめんなさい」
 と声を掛けた。
 返事はない。もう一度声を掛けて、おみつは恐る恐る腰高障子を開けた。
 やや、間があって奥の間から佐吉が出てきた。
 目と目があった。佐吉が不審な顔をしている。やつれた顔だ。心配かけてごめんなさい、佐吉さん、と叫んで飛びついていきたい衝動を堪えて、
「ここ、佐吉さんの長屋ですよね」
 低く抑えた声で、念を押すように訊いた。そうしないと泣き出してしまいそうである。いまはおみつではなくおとくなのだ。
「そうです。あっしが佐吉ですが、何か……」
 佐吉の怪訝な表情はやむをないことだった。
「お豆腐の担い売りはやめてしまったの?」
 いきなりのおみつの言葉で、佐吉の目が動いた。なじみの客だと思い出したのだろうか。
「へい。ちょいと女房に不幸がありまして、休んでおりました。ですが、明日から、また売りに出ますんで」
「そう、良かった」
 佐吉の神妙な言葉を聞いて、おみつは心底嬉しかった。
 あたしのことを悲しんで、仕事が手につかなかったのだ、と思ったのだが、それだけにいつまでもめそめそしている佐吉は見たくなかった。
「あたしは西平野町のおとくといいます」
 と名乗ると、
「待ってますから」
 とだけ言って、すぐに外へ出た。
 元気を出してね、と胸の内で思わずにはいられなかった。
 次の日――。
「すまねえ。心配をかけちまって」
 佐吉はおとくのもとを訪ねてきた。
 おとくだけではない。なじみの客を一軒一軒回っているようだ。
「いままでの無沙汰の詫びに、今日はあっしに気を使わせてくだせえ」
 いいわよ、と断るおみつに、無理矢理佐吉は、豆腐を一丁置いていった。
「遠慮はいりませんぜ」
 他のところへもそうしているという。
 もらってわずか三月の女房を亡くした、ということは、知っている人は知っていたようで、佐吉の元気な姿をみて喜ぶ客がけっこういたらしい。
 おみつの権兵衛店もそうで、その翌日からは、いつものように木戸口に集まって、わいわい言いながら買うようになっていた。
「おとくさんの訪いは嬉しゅうござんした」
 長屋の客がいなくなっておみつ(おとく)一人になったとき、佐吉がしんみりと言った。
「無理もないわ。恋女房だったんでしょ」
 へい、と肯いて、照れるような表情をする佐吉を見て、おみつは複雑な気持ちになった。
「あたし毎日買いますから、頑張ってくださいね」
 へい、ともう一度肯いた佐吉を見て、おみつは思わず涙ぐみそうになった。
 それをこらえて長屋に戻ると、
「ところで、おとくさんて何をしていた人なのかしら」
 という疑問が湧いた。
 佐吉に毎日買う、と言った手前銭のことが気になったからである。もし、どこかに女中奉公でもしていれば、主人に無断で休んでいることにもなる。
 権兵衛店は九尺二間のよくある裏店である。一間しかない。おたねさん以外の住人とはあまり親しくなかったようだ。
 親兄弟はいないのかしら、と思うと、急に不安になってきた。
 おみつは買った豆腐を台所に置くと、部屋に上がった。いつものようにじっと座って心気をこらす。そうするとおとくの気が湧き起こってくるのである。
「この人、夜鷹だったんだ!」
 身体を売る商売だと知って、おみつは思わず声をあげていた。
 慌てて辺りを見回す。むろん、部屋の中はおみつ一人だった。ほっと安堵して、居住まいを正した。
 歳は二十一。おみつよりも二つ上である。朝、水に映る器量はそれほど悪いとは思われない。それに立ち居ふる舞いも蓮っ葉な女には思われなかった。そんなおとくがなぜ春をひさいでいるのか、おみつはさらに心気をこらした。
「やだ! おとくさんって、佐吉さんを想っていたんだわ」
 おみつはもう一度声をあげた。甦った日に抱いた疑いは本当だったのだ。
 それは意外な成り行きであった。

   四

 断片的な記憶をつなげていくと、おとくという女が決して幸福な身の上だったとはいえないという事情がわかってきた。
 おとくは相川町の小間物屋の子として生まれたらしい。どうやら双親はまだ健在のようだが、おとくの方が家を飛び出して、この長屋に住んでいるようだ。
 昔、佐吉は佐賀町の叔父の店に住んでいて、その界隈をシマにしていたのだが、そのとき棒手振の佐吉を見て一目惚れしてしまったらしい。
 だが、おとくは商家に育った娘らしく、控えめな性格の女だった。佐吉と口を聞くこともなく、黙って遠くから見ていることで満足していた。佐吉への想いがあって、持ち込まれる縁談に気乗りがせず、ために少々婚期が遅れていたようだ。
 おとくには兄が一人いた。六つ違いで、すでに嫁を迎えている。その兄が心配して、取引のある相手との縁談を強く勧めてきた。おとくは十九になっていた。
 しぶるおとくに、
「一度会ってみてはどうだろうか」
 と兄は提案した。
 それでもおとくは渋った。すでに、胸の中に佐吉の天秤棒を担ぐいなせが姿が焼き付いていて、恋い焦がれている。
「お前にとって悪くない話なんだよ」
 兄は粘り強かった。
「見合いといっても、改まった席で顔を合わすわけじゃない。時間と場所を決めて遠くからお互いに姿を見るというだけなんだよ。それですぐに祝言というわけでもない。相手はうちと取引のある相手だよ。頼むから見合いだけでも受けておくれ」
 兄の説得に負ける形で、
「じゃあ、お見合いだけ」
 気乗りのしないまま受けざるを得なくなってしまった。
 見合いは、先方が富岡八幡に参詣した帰り道、先にお参りしたおとくたちが、通り道の茶屋で休んでいる、という段取りで進められた。
 その日の見合いは無事に済んだ。恥ずかしさでおとくは相手の顔を満足に見られなかったが、ちらっとみた感じでは、いかにも商家の若旦那という印象だった。
「あたし、もうしばらくここにいて帰ります」
「そうかい。よく考えるんだよ」
 兄と母親はそう言って、先に帰って行った。迷っていると思ったのだろう。
 おとくは付き添いの下女を待たせて、富岡八幡の境内をぶらぶらしながら佐吉のことを想っていた。そのときである。おとくが恋しい佐吉の姿を見かけたのは。
「あっ!」
 おとくは思わず小さな叫び声をあげていた。目の前を佐吉が女と親しそうに歩いていたからである。
 二人はおしゃべりをしながら、いかにも楽しげに歩いている。おとくは悪いこととは知りながら、こっそりと二人をつけていった。
 やがて、二人は境内の裏手の木陰に入った。
 その後の二人の行為を見て、おとくは気が動転してしまった。あやうく「やめて」と大声で叫びそうになった。
 二人は口を吸いあっていたのだった。
 悲しみと怒りと、そして絶望。口を吸い合っていた女への激しい嫉妬、そんな自分に対する嫌悪。全ての感情が一気に押し寄せてきた。
 おとくは急いでその場を離れたが、頭の中は全く整理がつかず、次々と湧き上がる感情を持てあまして、おとくは深川の界隈を彷徨いあるいた。
 涙が後から後から流れてきた。ぬぐいもせずに、そのままふらふらと夢遊病者のように歩いていく。気味悪がっているのだろう。往来の人々はみな一様に道を空けた。
 やがて雨になった。降り出した雨に濡れながらも、家に帰る気は起きず、ただひたすら歩き回っていた。
 おとくは、どこをどう歩いたのか全く覚えていなかった。気がついたときは、ある寺院の庫裏に寝かされていたのである。
 歩き疲れて、腹も減って、寺町の辺りをふらふら歩いていたときに、一人の坊主に声を掛けられた気もしたがよく覚えていなかった。
 声を掛けられたのは事実で、その坊主に介抱されたのだが、その坊主は僧侶として未熟だったとうべきであろう。おとくの若い肌に血迷ってしまったのである。
 翌日、惚けたように帰ってきた小間物屋は大騒ぎだった。
 当然、縁談は破れた。兄はおとくを犯した坊主を探したが見つからなかった。騒ぎになるのを畏れて江戸を出たものらしかった。
 その後のおとくは、店の中でまるで厄介者のように扱われた。いたたまれなくなったおとくは、こっそりと店を出たのである。
 小間物屋のお嬢様育ちのおとくに生計の道はなかった。寺町の坊主相手に夜鷹をして銭を稼いでいたのである。
 この長屋を世話してくれたのも春をひさいだ坊主の知恵をかりたものだった。
 おとくの身の上を振り返って、おみつはため息をついた。転落の始まり、そう富岡八幡の境内の木陰で佐吉と口を吸い合った女が、まさしくおみつだったからである。
 別におみつが罪の意識を持つ必要はないのだが、おとくの身体に蘇った以上、おみつは複雑な気持ちを抱かざるをえなかった。同時に、おみつはいかに偶然とはいえ、おとくの身体で蘇らせてくれた赤ら顔の獄卒を恨んだが、そうはいってもいまさらせんないことだった。
 夜鷹とは、夜、寝茣蓙を持って、柳原土手や柳橋、護持院原、愛宕下当たりに出没する遊女(街娼)のことである。特に柳原土手が名高いが、やはり縄張りや顔役とかがからんだりして、素人が簡単にできることではない。若い身空でありながら、おとくが今まで大過なく暮らして来られたのは、おそらく、坊主相手の夜鷹だったことと、始めてまだ三月足らずということだろうと思われた。だがそれ以上に、やはり運が良かったのだ、とおみつは思った。
「駄目よこんな荒んだ暮らし、早くちゃんとしなきゃ」
 そうと思い決めれば、おみつは真っ直ぐに駆け出す女だった。
 慎重におとくの記憶を手繰ってみたが、幸い面倒なことには巻き込まれていないようだ。明日、おたねさんに相談してみよう、とおみつは決めた。
 だが、翌日そのおたねが朝早くにおとくのもとを訪ねてきた。
「まあ、おたねさん」
「すまないねぇ、朝早く。でもねぇ、今日ここを出ることになってね」
「どうしてですか?」
 おみつはびっくりして尋ねた。
「亭主があんなことになっちまったからね。あたし一人の稼ぎじゃ暮らしていけないんだよ」
 おたねはしんみりと言った。
「でも、良かったよ。あんたが無事で。あたしゃホントに肝が冷えたんだよ。お裾分けしたのがあんたのところだけだったからねぇ」
 おたねの亭主は釣りが道楽だったらしい。釣った魚は晩のおかずにもなる。実用を兼ねていたのだろう。
 そんな亭主がふぐをもらったのは偶然だった。釣り仲間に誘われて海に出たのだが、一匹も釣れなかったのである。こんなことはよくあることだったが、その日は仕事を休んでいたため、誘った仲間が詫びの意も込めてくれたものだった。船を借りた船宿に持ち込まれた河豚だったという。
「運がなかったんだねぇ。毒があることは承知していたんだが、あたしも亭主も河豚を捌くなんて初めてだったからねえ。そのうえ、待ち切れなくてね。亭主のやつ先に手酌で食べちまったんだよ。それで当たってりゃ世話がないけどね」
 口が卑しんだよ、と言って小さく笑ったが、その河豚をおとくにお裾分けしたことを思い出したのか、
「あ、ごめんよ」
 と謝って、
「それで田舎に帰ることになってね。こんなあたしでも後添いにもらってくれる人が居るんだよ。子供もいっしょで構わないと言ってくれてねぇ」
 と続けた。
 おたねの実家は、船橋の山の方にある農家だという。後に残されたおたねと子供のことを思いやった実家の兄たちの奔走らしい。
「そうですか。お達者で」
「おとくさんもね。早く、あんな身過ぎからは足を洗うんだよ」
「え……!」
 おみつは吃驚した。どうやらおたねは、おとくのやっていることを知っていたようだ。
「若いからねえ。自棄を起こす気持ちはよく分かる。でもねえ、やり直せるのは若いうちだけだよ」
「おばさん」
 おみつは思わずおたねに抱きついていた。夕べのことを思い出したのである。
「辛いことがあったんだろう」
 おたねはおみつの肩に回した手を軽くたたいた。
「あたし、あたし……」
 足を洗う、と言いたいのだが、しゃくりあげて言葉にならなかった。
「分かっているよ。あたしが相談に乗ってやりたいが、それもできない。これから差配さんに挨拶に行くから、あんたのことを頼んでおくよ。よく相談おし」
「はい」
 おみつは強く肯いた。

   五

 おみつは、差配さんの仲介で一善飯屋で働くこととなった。身体はおとくだが、意識はおみつである。客あしらいには苦労しなかった。給金はそれほど多くなかったが、何とか一人で食べていくことができる。
 気持ちにゆとりができたせいか、毎朝豆腐を売りにくる佐吉ともちょっとした冗談を言えるほどの仲になっていた。
「おとくさんて、実は明るいひとだったんですねぇ」
「あら、どんなふうに見えていたの」
「ちょいと暗い感じかなぁ、と思っていやしたよ。注文のときしか口をききませんでしたしね」
 そうだったんだ、やっぱり奥手だったんだ、とおみつは思った。
 いつもの朝のことである。
 如月に入っていて、そろそろ梅の花の話題が出る頃だった。
「でも、良かった。ホントは明るいひとだと思えてもらって」
「なんか、死んだ女房に似ているような気がしますよ」
 どきっ、とおみつの心の臓が鳴ったような気がした。
「佐吉さんの亡くなったおかみさんて、きれいな人だったんでしょうね」
 おみつはさりげなく訊いた。女心としては、どう思っていたのか気になるところだった。
「よしやしょう。話したところで、亡くなった者は生きかえりゃしませんや」
 佐吉はその話題を避けたが、その言い方におみつを亡くした無念の思いがこもっているのを感じた。
「ねえ。あたしでよければ力になるわ。何か困ったことがあったら遠慮しないで言って」
 佐吉がびっくりしたような顔をした。
 しまった、と思ったが、
「いいじゃない。佐吉さんだって明るい方がいいでしょ。このお豆腐楽しみにしているのよ」
 慌てて言い訳のように言うと、
「あのときは、ご心配をおかけしました」
 佐吉はぺこりと頭を下げた。長屋に顔を出したときのことである。
「ううん、いいのよ。さあ、あんまり油を売ってると売れ残ってしまうわ」
「ちげえねぇ」
 二人は笑って、長屋の木戸口のところで別れた。
 長屋に帰って、おとくの身体にうごめくものがある。それは決して不快なものではなかった。むしろ、うきうきとするような気持ちの良いもので、佐吉と話した後は特にそうだった。
 おとくさんも喜んでくれているんだ、とおみつは思った。
 もともと身体はおとくのもので、意識だけがおみつのものである。そのおとくも生前は密かに佐吉を想っていたのである。その思いは無意識に五体の動きを活発にしているのだろう。
「決めた。あたしは、おとくとして佐吉さんに寄り添って生きていこう」
 おみつは決意を込めて呟いた。
 いっぽう、佐吉である。
 おとくと親しくなった佐吉は、
「人は見かけによらねえ」
 近頃、よく一人でごちる。
 おとくのことである。おとくはきれいな衣装を着て、黙って立っていたら、どこぞの商家のお嬢さまかと見まがうのではないか、と思うのである。
「いや。育ちは間違いなくお嬢様だ」
 という確信に近いものがある。佐吉も小さい頃から客を見て育ってきている。人を見るめは、当たらずともいえど遠からず、という自負があった。
 それが長屋に住んでいるのは、何かいわくがあるのだと思っていたから、佐吉としては気安く言葉を交わすことを避けていたところもあったのである。
 だが、おみつを亡くして落ち込んでいたときは、わざわざ訪ねてきてくれた。その後も毎朝豆腐を買ってくれる。そこで徐々に話をするようになった。
 思い切って訊ねてみると、
「いやだあ、商家のお嬢さまだなんて。あたしは飯屋の女中よ」
 と言って、けらけらと笑いだした。
 そうかい、と仏頂面で肯く佐吉に、
「ごめんなさい」
 素直に謝ったおとくは、
「でも、お嬢さまに見えたなんて、あたしも捨てたもんじゃないわね」
 そう言って、ちょっと気取った態度をとったのである。そんな仕草に、佐吉は思わず、おみつの姿を重ねていたのだった。
 いけねえ、と慌てて頭を振ったのだが、後から思うと、
「あのときからだったかなあ」
 佐吉がおとくにおみつを見るようになったのは、と思った。
 おみつとおとくは歳こそ近いがまったく似ていない。おみつは丸顔だったが、おとくは瓜実顔で、おとくの方が背も高い。おみつはどちらかというと背が低い。そのことが原因で、悪童どもにからかわれることがあった。
 ある日、佐吉といっしょに、富岡八幡宮の帰り道、しつこく悪たれをついてまとわりつく子供に向かって、思わず手を挙げそうになったおみつに、
「よしねぇ」
 と佐吉が制した。
「あたし、悔しい……」
 そのくせおみつは負けん気が強かった。
 佐吉の懐に顔を埋めて、両手をばたばたとさせた。
「ガキとはいえ相手は男だぜ。喧嘩沙汰になったら負けるに決まってるだろう」
 歩き出して、佐吉がどんなに慰めても、おみつは、悔しい、悔しい、と永代橋を渡りきるまで、ずっと言い続けていたのである。
 おみつの家は、永代橋からさらに豊海橋を渡った大川端町にあった。代々の佃煮屋で、今は兄が代を継いで、女房子とそこに住んでいる。
 それに対しておとくは、控えめでおとなしかった、ように思う。ように、というのは、多助長屋を訪ねて来るまでの印象がそうだったのである。
 あれはおとくが権兵衛長屋に来てまもなくのことだったように思う。
「お豆腐くださいな」
 おずおずと言うおとくに、
「へい。まいどありぃ。一丁でようござんすか」
 威勢良く答えると、
 はい、と肯きながらも、
「えっ! そんなに大きいの」
 大きさがわからなっかたようなのである。そのうえ、持っていた入れ物も小さかった。
「五十六文になりやす」
「……」
 言葉の出ないおとくに、
「持ってってあげましょう」
 と、長屋まで行こうとすると、ひどく狼狽したように、けっこうです、と言ったのである。
「遠慮はいりませんや」
 そう言って、佐吉は豆腐を届けたのだが、おとくは一人で住んでいた。一人者が豆腐を買うのは、だいたい半丁か四半丁が普通である。
「本当に一丁でようござんすかい」
 と、念のためもう一度訊いても、ただ顔を真っ赤にして黙って肯くだけだった。
 その後もそれ以上に親しくなることはなかった。気さくに言葉を交わす、という感じではなかったのである。
 ところが、近頃はあきらかに違う。以前の感じと比べて別人かと思うくらいなのである
 ある日、佐吉は思い切って尋ねてみた。
「おとくさんは、もともとおきゃんなところがありましたかい」
「あら、おきゃんだなんて。恥ずかしい」
 と答えて、ちょっと横を向く仕草をした。
 これだ、と佐吉は思った。
 おとくの取った仕草は、しゃべり方といい、亡くなったおみつにそっくりだったである。
 声の高さ、質とかは全く異なる二人である。だが、佐吉はいつしかおとくを通して、おみつを見るようになっていた。

   六

 豆腐売りは、朝が最も早い商売の一つである。朝飯に間に合わせるためで、そのため、他の棒手振りと違って、売るときの会話は多くない。佐吉はわざと道順を変えて、おとくの住む権兵衛店を最後にした。
 そのため、おとくとはゆっくり話ができるようになっていた。
「聞きましたかい。亀戸天神の梅の話を」
「あら、梅といえば、梅屋敷じゃないの」
 梅屋敷は、正しくは清香庵という。本所の商人伊勢屋の別荘である。
 ちょうど江戸は春の盛りで、梅見の真っ最中だった。
「それとも向島かしら?」
 近頃は、佐原某という商人が向島に開いた梅園も〈新梅屋敷〉とか〈百花園〉とかいわれて、文人墨客には人気がある。
「とんでもねぇ。天神さまの門前茶屋で、近頃売り出した梅干しと饅頭の組み合わせが大層な評判なんですよ」
「梅干しとお饅頭?」
「梅干しの酸っぱいのと甘い饅頭の取り合わせがいいらしいんですがね。どうやって食うのかと思いやしてね。代わる代わるに食うんですかね」
「佐吉さんも花よりお団子の口なんだ」
 そう言っておとくはくすりと笑った。
「いや、あっしはそういうわけじゃねえが」
「じゃ、何なの」
「女は食い物の話が好きじゃねえかと思いやしてね」
「まあ、ひどい。お安く見ないで」
 おとくは、つん、と顔を横に曲げたが、すぐに戻して、
「でも、佐吉さんが買ってくれるなら天神様にお参りに行ってもいいわよ。でも、もう少し待って花見の方がいいかな」
 と言って笑った。
「花見ですかい」
「そうよ。あたしがお弁当を作ってあげよっか」
「そういやあ……」
 おとくと話していて佐吉は、ふいに一年前のことを思い出していた。
「昔、といっても去年のことだが、亡くなった女房と花見に行きましてね」
「あら。亡くなったおみつさんのことを思い出したの?」
「えっ!」
 おいらの女房がおみつという名前だってことをどうして知ってるんだ、と訝しんでいると、
「この前、話したじゃない。忘れちゃったの?」
 と、おとくが言った。
「そうでしたかい」
 何となく合点がいったような気がしたが、どうもすっきりしない。だが、
「それで、おかみさんと花見でどうしたの」
 と聞かれて、
「そんきも弁当をこさえてきてくれたんですがねぇ」
「あら。ごちそうさま」
 おとくの絶妙な間に、佐吉は心持ち顔が上がって、遠くを見るような目をした。
 あれは墨堤の桜が満開の頃だったように思う。
 お口に合うかしらね、と言って、おみつがこしらえてきてくれた弁当は、一言でいえば豆腐づくしだったのである。木の芽田楽、油揚げに厚揚げなどの手間のかからないものから、霰豆腐、あらかね豆腐、草のけんちんに飛龍頭(がんもどき)など手間のかかるものまで。
「いくらあっしが豆腐の棒手振とはいえねぇ」
 二人はどちらからともなく、くすくすと笑い出した。
「思いつく限りのお豆腐の料理だったんだ」
「そうなんですよ。あれにはまいっちまいましてね」
「でも、佐吉さんは、おいしい、おいしいって言いながら食べてくれたわよね」
「でしたね。あっしは小さい頃に双親を亡くしましてね。あっしだけのために作ってくれた弁当を食べたのは初めてだったんですよ」
「全部平らげて」
「あたしの分がない、っておみつは怒ってましたっけ」
「でも、お豆腐だからおなかいっぱいにはならなかった」
「そうそう。その帰り道に蕎麦屋に寄りましたねぇ」
「……」
 佐吉が楽しそうにしゃべっていると、そこで急におとくの言葉が絶えてしまった。
「どうしたんです」
 佐吉が隣を見ると、おとくが倒れ込むように身体を丸めて震えている。
「大丈夫ですかい、おとくさん」
 佐吉が慌てておとくを抱え起こすと、
「何でもないの。ちょっと身体が……」
 そこまで言って、おとくは気を失ってしまった。
「おとくさん。しっかりしなせえ」
 佐吉の必死の言葉が聞こえたような気がしたがよく覚えていない。
 どれくらい経っただろうか、おみつが気づいたとき、そこは権兵衛店のおとくの部屋の中だった。
「気がついた」
 真っ先に聞こえたのは佐吉の言葉だった。
「そうかい。良かった」
 次に聞こえたのは、差配さんの言葉だった。
 おみつがゆっくりと起きあがると、框に腰を掛けている二人が目に入った。
「大丈夫ですかい」
「すいません。大丈夫です」
「気がついてよかったよ」
「ご心配をお掛けしました」
「医者を呼んだんだがね。どこが悪いか分からない、とか言ってね。とんだ藪を呼んじまった」
 と言って差配さんは笑ったが、
「まあ、何にしても大事なさそうなので安心したよ。でも、今夜は店は休んだ方がいい。あたしから使いを走らせておくから」
 と差配さんは親切に言って、じゃ、あたしはこれで、と帰っていった。
 すでに辺りには夕もやが立ちこめている。
「ごめんなさい」
「いいってことよ。おとくさんは夜の仕事で、あっしは朝が早い。もしかして、あまり寝てねぇんじゃねえですかい。ゆっくり寝てなせぇ」
 佐吉はおみつのことを気遣って、じゃ、あっしもこれで、と言って帰っていった。
 その後ろ姿が心なしか寂しそうに見えた。
 だが、後に残ったおみつは、
「ごめんなさい。おとくさん」
 と言って頭を垂れた。
 突然のことの原因は分かっていた。おみつと佐吉が、昔の二人きりの思い出話を楽しそうに語るのを、おとくの身体が嫉妬したのである。
 しかもそのとき、おみつは知らず知らずおみつとしての地を出していた。久しぶりに佐吉と二人きりになったことで我を忘れていたのだろう。
 だが、おみつはおみつであってもおみつではない。この世ではあくまでもおとくなのである。
 ――おみつの生まれ変わりだと知れたら、その場で消えてなくなることを覚悟せい
 厳かに命じた赤ら顔の獄卒の言葉をおみつは思い出していた。
 もしあたしが消えたら、あたしだけじゃなく、おとくさんも不幸になってしまう。このままおとくとして生きることが二人にとって幸せなのだ。
「これからは気をつけよう」
 おみつは改めて自分に言い聞かせるように誓った。

   七

「間違いねぇ。おとくさんはおみつだ」
 長屋で寝転がった佐吉は、天井を見ながら呟いた。
 独り言であるにも関わらず、その語気の強さに自分で驚きながらも、今まではおとくを通しておみつを見ていたが、おとくこそがおみつだと思うようになった。
 豆腐を売り終えて、朝飯を食って、ごろりと寝ころんであれこれ考えているうちに得た結論だった。
 そう思わなければ、一昨日の花見のことはどうしても納得できない、と思うのだ。
 おみつと行ったのは墨堤の桜の花見だった。弁当が豆腐づくしだったこと、それをおいしい、おいしいと言って食べたこと、それでも腹が満たせなかったことは、おみつと自分しか知らないはずである。楽しい思い出の一つで、佐吉は誰にも話したことがなかった。おそらくおみつだって家族以外には話していないだろう。ましてや見ず知らずのおとくになんて。
「いや。あれは人から聞いたしゃべりじゃねぇ」
 あのときのおとくは、まるで自分のことででもあるかのような話し方だった。いっとき、佐吉もおみつと話しているかのような錯覚を起こしたのである。
「錯覚じゃねぇ」
 佐吉は強く否定した。
 今までも豆腐を売りながらの立ち話で、何度かおとくをおみつと錯覚したことはあった。だが、あのときの二人の話しぶりは間違いなく、おみつと佐吉の会話だったのである。
 そのときは夢中で気付かなかった。あの後、すぐにおとくが引きつけをおこしたようになって、気が動転してしまったこともある。
 全くそんなことを思いもしなかったのだが、今朝のおとくの余所余所しい態度で、逆に一昨日のことを強烈に思い出してしまったのである。
 おとくがおみつの蘇り、だとすれば、佐吉は全てのつじつまが合うような気がするのである。
 おみつが亡くなるまでは、おとくは単に朝豆腐を買ってくれる客の一人でしかなかった。だが、おみつが亡くなって、四十九日を過ぎた五日後、突然、おとくは佐吉の長屋を訪ねてきた。
 単なる棒手振の客である。しかも、女である。豆腐を売りに来ないからと言って、男の長屋を気安く訪ねてくるものだろうか。いや、気安くは言い過ぎかもしれない。おそらく迷ったには違いないのである。それでも佐吉の売る豆腐を食べたいから、わざわざ心配して訪ねて来てくれたのである。それはそれでたいへん有り難いことだと思った。
 だが、その後の話し方は、明らかにそれまでとは異なるものだった。佐吉のもとを訪ねて来る前と来た後とでは、別人ともいって良い変わりかただった、と思う。
「だけど、どうして……」
 おとくがおみつなのか、そこのところが佐吉にはどうしても分からなかった。
よし、と佐吉は一人合点すると長屋を出た。
多助長屋の近くに清左衛門店という裏店がある。深川伊勢崎町は、仙台堀に沿った横に長い町で、清左衛門店は、その上之橋側にあった。そこに三笑亭馬風という噺家のような名前の戯作者が住んでいる。佐吉の豆腐を買ってくれる馴染み客でもある。
「なんじゃ。わしに用か」
馬風はたっぷりと蓄えた顎髭をなでながら言った。ちょうど書き物が終わったところだったのだろう。机の回りを片付けているところだった。
馬風は歳の頃は五十くらいで、元は武士だったという。戯作に興味の無い佐吉は、馬風がどんなものを書いているか知らない。だが、少なくとも佐吉が知る学のある人物といえは、馬風しか思い浮かばなかったのである。
「へい。ちょいとご相談がありまして」
「うむ。まあ、あがれ」
佐吉の慇懃な態度に、何かわけがある、と見たのか、馬風は手早く片付けて、上がるように進めた。
「へい。ごめんなすって」
佐吉は慣れない正座をしながら、
「実は……」
と、おみつのこと、おとくのことを詳しく話した。
 じっと佐吉の話を聞いていた馬風は、話が終わると、ううむ、と何事かを考える風だったが、
「口寄せできるものに、おみつの霊を呼び出してもらうのが一番良いのだがのう」
 と言った。口寄せとは、死者の霊魂を呼び寄せて、巫女などの口を通じて死者の意思を聞くことをいう。
「口寄せですかい?」
 佐吉はびっくりして問い返した。おみつの霊を呼び戻す、本当にそんなことができるのだろうか。
「ほっほっほ。じゃが、口寄せができる者は、わしの知り合いにはおらぬよ」
「先生、おどかさないでくだせえよ」
 だが、それで佐吉の緊張が取れた。
「あっしは途方に暮れているんですぜ。おみつのことは今でも忘れられねぇ。惚れた恋女房でしたからねぇ」
「おや、これは。のろけてくれるじゃないか」
「すいやせん。ですが、形は違いますが、おとくさんはおみつにそっくりなんです。あっしはおみつがおとくさんの姿、形を借りて蘇えったんじゃねえかと思っているんですよ。ですが、なぜそんなことをしておみつが蘇ったものか。そこのところがわからねえんで。あっしは、嬉しいやら、気味が悪いやら」
「ふむ。確かに単なるいたずらにしては手が込んでいるのう」
「いたずらじゃねぇですよ」
 佐吉はきっぱりと言った。
 馬風は、再びじっと考え込んで、
「お前さんの気持ちは分かるが、考えられることは、三つじゃな。一つ目は、お前さんが言うように、おとくの身体を借りておみつが蘇ったか」
「そうに違いねえんで」
「まあ、待て。急くでない。二つ目はおみつの霊が成仏せず、おとくに取り憑いたか」
「まさか」
「考えられないわけではあるまい。蘇るのも、取り憑くのも、それほどの違いはなかろう」
 とはいえ、取り憑く、というのは余り気持ちの良いものじゃねえな、と佐吉は思った。
「三つ目は、おとくがおみつのことをいろいろ調べて、わざとお前に近づいたか」
「えっ。何のためです?」
「例えば、お前を好いているとか」
「冗談じゃありませんぜ。あっしは、しがねえ棒手振ですぜ」
「そういうお前さんにおみつは惚れたんだろう」
「そりゃま、そうですが」
 佐吉の口ぶりは満更でもない。
「まあ、これが最もあり得ることじゃ。とはいえ、先の二つもあり得ないことではない。わしが調べてみるゆえ、三日後に来るがよい」
「へい。わかりやした。お願いいたしやす」
 佐吉は馬風に任せて帰っていった。それまでは、おとくとはいままでの話し方でいこうと決めていた。
 約束の三日後に馬風のところを訪ねていくと、
「こっそり見たり、調べたりしたが、霊が取り憑いている形跡はない」
「じゃ、やっぱり」
「いやいや、蘇りと決めつけるわけにもいかんのじゃ。権兵衛長屋の住人に聞いても、特におとくに変わったところはないという。ただ……」
「ただ、何です」
「前に比べて明るくなったというのだな」
「明るく?」
「うむ。それも不審なことではない。お前と親しくなったことが理由かも知れぬからな」
「そうですかい」
 佐吉は半信半疑だった。
「いずれにしろ、お前さんに仇をなすようには思えぬ。むしろ、お前さんのことを想っているというのが真のところだろう。哀れな女心と思うて、素直に受け入れてやってはどうかのう」
「先生。あっしは嬉しさ半分、気味悪さ半分なんですよ」
 ふうむ、としばらく考え込んだ馬風は、
「その気味悪さは、真実のことを知りたい、ということと裏腹じゃな」
 と言った。
 佐吉は大きく肯いた。
「真実のことを知って良いことばかりとは限らぬぞ。それでも良いか」
 佐吉は大きく首を縦に振った。
「ならば策を授けよう」
 佐吉は思わず馬風の方に耳を寄せた。

   八

「すまねえが、ここでちょっと待っててくれねえか」
「どうして?」
「ちょいと用事を思い出したんだ。なあに、すぐに帰ってくるよ」
「如月とはいえ、今日は寒い日よ。すぐに帰ってきてね」
「ああ」
 佐吉はおみつの側を離れると、駆け足で深川の方へ去っていった。
 一心堂を訪ねてから三日後のことである。花見の話をしてから、おとくの態度はどこか余所余所しかった。それはむしろ以前のおとくに返ったようにも思われたが、それが無理をしていることは佐吉にも分かっていた。
 おとくがおみつの蘇りであることは、佐吉にとって確信になりつつある。後はそのことを確実にして、おとくがおみつであれば、もう一度夫婦になりたいと心底から思うようになっていた。
 そのためにも一心堂から聞いたことを実行して、おとくがおみつであることを確かめたかった。
 今日は、そのことを実行するために気の乗らないおとくを誘い出したのである。
 おみつは永代橋に一人残された。
 永代橋は大川(隅田川)に架かる幅三間、長さ百二十八間の大きな橋である。深川と神田、霊厳島を結ぶ橋でもある。往来する人の足は多い。
 おみつの実家は霊厳島大川端町にあった。
「昔、よく渡ったわねえ」
 佐吉の住んでいた豆腐屋は、深川佐賀町にあって、よく行き来したものだった。
「早いものよね」
 佐吉と初めて出逢ったのも、この永代橋である。あれから、まだ一年と少ししか経っていない。
 すでに辺りは黄昏始めていた。心なしか人の足も減ったようだ。見回せば、あちこちに灯が点っていく。
「あ、雪!」
 思わずおみつは叫んだ。
 どんよりと垂れ込めた厚い雲からちらちらと白いものが舞い降りてくる。
 如月に雪が降るというのは珍しいことではないが、ここ数年はないことだった。
「そういえば、あの日も寒い日だったわね」
 おみつは佐吉と初めて逢った日のことを思い出していた。
 やはり如月の寒い日で、深川の親戚に佃煮を届けに行った帰り道だった。
 今日と同じく灯点し頃だったように思う。寒さにちぢこまっていたたおみつは、下を向いて橋を渡っていて、前から来る三人連れの男に気付かなかった。
 あっ、と思ったときには、三人の連れの一人の男にぶつかっていたのである。
「ほほう。ガキかと思ったが、ねえちゃんじゃねえか」
 男たちは二十くらいだったが、いずれも赤い顔をしていた。仕事帰りに一杯ひっかけてきたのだろう。
「ごめんなさい。気付かなくって」
 おみつは詫びを言って、急いで通り過ぎようとした。
「それだけかい」
 一人の男がおみつの手をつかんだ。
「離して」
 思わずふりほどこうとしたとき、
「なんでぇ、口先だけかい。どうやら、ちゃんと謝る気はねえようだな」
 三人の男がおみつを囲んだ。みんながっちりとした身体つきで、背の小さなおみつは恐怖を覚えた。駄目かと思ったそのときである。
「つまらねえ悪さはやめな」
 澄んだ声が響いてきた。
「なんだ手前ぇは」
 男が声のした方を振り返る。
「娘一人を大の男が三人で取り囲むなんざぁ、あんまり見られたものじゃねえぜ」
 男はいなせに言って男たちとおみつの間に割って入った。
「この野郎、おれたちに因縁をつけようと言うのか」
「とんでもねぇ。ここは往来、しかも橋の上。見てごらんなせぇ、人だかりができてますぜ」
 いなせな男はそう言って、首を左右に回した。確かに野次馬が集まりつつあった。
「ここじゃ、話もできねぇ。ちょいと橋袂にでも行こうかい」
「よし」
 早く帰ぇんな。といなせな男はおみつに耳打ちすると、男たちと橋の東袂に向かって歩き出した。
 恐怖にかられていたおみつは小さく肯いて早足で帰りかけたが、
「だめ」
 と自分を制した。
 おみつも江戸の女で、おきゃんなところがある。
「けんかです」
 永代橋の中央には番屋が設けられている。おみつはそこに駆け込むと、中にいた町役人といっしょに東袂に急いだ。
「あっ!」
 おみつが声を上げたのは、そこにおみつを救ってくれた、いなせが男が倒れていたからである。
「大丈夫ですか」
 男は目の上に青い痣をつくり、口から血を流して倒れていた。
「なんでぇ、逃げなかったのか。格好悪いところを見せちまったな」
 気丈に笑って、おみつの小さな手に抱えられて気を失った。
 その男が佐吉だったのである。
「格好悪い、だって」
 おみつはあのときのことを思い出して、くすりと笑った。
 そのとき、おみつ、と呼ぶ佐吉の声が聞こえた。
「佐吉さん」
 思わず答えて佐吉の方を振り返ったおみつは、しまった、と激しく後悔した。
「おみつ。やっぱりお前はおみつなんだね。あの世から蘇ったんだろう。形が違うからおれも気付かなかった。ごめんよ」
 橋の東袂から佐吉が早足で歩いてくる。
 強い北風が吹いて、粉雪が激しく舞った。
「来ないで」
 おみつは叫んだ。脳裏に赤ら顔の獄卒の顔が蘇る。
 ――おみつの生まれ変わりだと知れたら、その場で消えてなくなることを覚悟せい。
 という言葉とともに。
「お願い。来ないで」
 だが、言葉とは裏腹に佐吉が来ることを身体が望んでいる。このまま抱き合えたら、どんなに嬉しいことか。
 佐吉がどんどん近づいてくる。
「あっ!」
 それに連れておみつの身体が軽くなったように感じられた。
 佐吉が近づく度に、足が橋板から離れていく。
「どうしたんだ、おみつ」
 佐吉の悲痛な声が聞こえた。
「ごめんなさい」
 おみつはただ謝ることしかできなかった。
「おみつ!」
 再び佐吉の悲痛な声が聞こえたとき、おとくの身体は煙のように消えていた。ただ意識だけがその場に残ったが、その意識も朦朧となりつつあった。ぼんやりと佐吉の嘆きが見えるだけだった。
 佐吉は頭を抱えるようにして、その場にうずくまった。
「おらあ、なんてことをしちまったんだ」
 後悔が後から後から自分の身を苛んだ。
「おらあ、またおみつを亡くしちまった。形は違ってもよかったんだ。そんなことはどうでもいいことだ。すまねぇ、おみつ」
 橋板にくずおれて、泣き崩れる佐吉の背に粉雪が後から後から吹き付けてきた。
 長い永代橋に佐吉一人が肩を振るわせて、いつまでも泣き崩れていた。

 突然、最後にすいません。戯作者の三笑亭馬風でございます。
 あたしも話を聞いたときは半信半疑でございました。ですが、佐吉の話に嘘は無いように見受けたのでございます。一応、ここで話は終わりなんでございますが、お読みいただいた皆様は、納得してないところが一か所ございますよね。
 そう。なぜ、獄卒はおみつの蘇りを許したのか?
 あのとき獄卒は、二十年前に自分が裁いたところを見て、驚いたような声をあげ、帳簿の一か所に目を留めてじっと見入りました。そして、唸りながら帳簿の一か所とおみつとを見比べていたはずです。
 常であれば、獄卒の間違い、ということになるんでしょうが、なにせ地獄でございます。間違いは許されません。ただ、あの後で閻魔大王様から大目玉を食らったそうでございます。
 え! 納得しない。それじゃ、地獄に行って、直接お尋ねになったらいかがでしょう。

(了)
(文字数24,469字)

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