堀江岳彦

かみかくし

堀江岳彦

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 浅草田圃、田植えに備えて張られた水が春の日差しを浴びて眩しい。大川、山野堀沿い日本堤の桜は満開を迎え、市井の人々が行き交う季節となる。
 明六つ、登楼客の帰りに合わせて大門前は客待ちの駕籠屋、船頭、馬子で賑わう。腹掛に法被姿の集団は大八車を曳き、大門を潜る紙屑屋。朝の静かな時間帯に仕事に取り掛かる。
 昼近く吉原の大見世、鳴見楼の一室。
「それじゃ太夫、また三日後にまいります」
「お師匠はん、よろしゅうに」
 梅川太夫の部屋を後にしたのは三味線の師匠駒である。太夫に三味線の稽古をつけていた。大見世の太夫、花魁は歌舞音曲、手習いに余念がない。上玉な客の好みに合わせるためだ。廓内最高位の遊女も日々の精進に勤しむ。
 駒が太夫の部屋を出て廊下を歩いていると、散茶格の遊女部屋から男が一人顔を出した。この部屋の主は藤丸。男はこの見世の妓(ぎ)夫(う)太郎(たろう)留吉。駒の顔を見ると慌てて顔を引込めた。駒は素気なく通り過ぎる。大階段を降りて御内所に声をかけた。
「旦那、お邪魔しました」
 奥から顔は出さずに楼主が、
「師匠ご苦労さん。またよろしゅう」
 別の男衆が駒の下駄を揃えて出してくれた。
「三ちゃん、ありがとっ」下駄をつっかけて暖簾を潜った。すると階段を勢いよく降りてくる足音がした。男が御内所に声を掛けている。
「師匠を大門まで送ってきやす」
 声の主は先ほど駒に顔を見られた留吉。駒は振り返りもせず歩きだしていた。留吉がすぐに追いつき、
「師匠、お持ちしますよ」
三味線に手を伸ばそうとしたが駒はゆるりと躱し、
「お安くないねぇ留さん。心配しなさんな、あたしゃ何も見てやしないよ」留吉を一瞥してすぐに歩きだす。
 唐桟縞の小袖に御所髷姿が粋を通り越して威厳すら感じる。背筋を伸ばし、一定の速度で真直ぐ前を向いて歩く姿に性格が滲み出ている。留吉は頭を搔きながら駒の後に続いて歩きだす。貫禄負けは否めない。
 大見世の鳴見楼は江戸町一丁目に構えている。大門まではすぐの距離。駒は大門脇で初めて振り向き留吉を見据えた。
「他に用があるのかい」
 高圧的な物言いである。留吉は俯き加減で、
「師匠、昼飯まだでしょ。どうです蕎麦でもやりませんか」訝し気味に、
「なんであんたと蕎麦を喰わなきゃいけないんだい」
 それでも留吉は怯まず、
「五十軒通りにいきつけの蕎麦屋がありますんで、いきやしょうよ。そこは蕎麦もですが酒もいいのを出すんですよ」
 この一言で駒の態度は一変する。
「なんだいお天道様が高いっていうのに、一杯付き合えってか」
 大門を出てすぐ脇に、駒は留吉が指さす店の暖簾を勢いよく潜った。昼時で店内は混雑をしていた。続いて留吉が顔を出すと蕎麦屋の小女は、
「あら留さんいらっしゃい。お連れさんかい。お安くないわね」
 小女は駒を見て留吉に声をかけた。留吉は面倒くさそうに、
「うるせぃそんなんじゃねえよ。奥、空いてるかっ」
 手前の飯台には空きがなかった。奥は一段高く、横長に畳が敷かれてある。
「右の一番奥なら空いてますよ」
 粗末な衝立障子に仕切られた右奥を指さした。駒を誘い、
「冷をくれ。師匠、冷でいいですね。りゃんこだ。それと奴もな」
 小女にいいつけると留吉も席に着いた。駒は煙管を取り出し煙草を詰める。すかさず留吉が、
「およね、煙草盆をたのむ」
 小女は冷と煙草盆を持ってきた。
「それと、もりを二枚たのまぁ」
 煙草盆を引き寄せた。吸口と雁首に銀細工が施してある女物の煙管で一服付ける。ゆらゆらと紫の煙が立ち上る。冷酒を一気に煽った。それを見ていた留吉は、
「およね、お替わりだよ」
 といって、自分も口をつけはじめた。その様子を窺っていた駒は、「なんか話があるんじゃないかい」
 留吉はちびりちびりやりながら辺りを気にしていた。駒は何気に、
「さっきもいったけどあたしゃ何も見てないし、聴いてもないから安心をおし」
 それでも留吉はなにもいわない。話したところで声は店内の喧騒にかき消されるだろう。
 蕎麦が運び込まれて酒のお替わりもきた。駒は蕎麦を食べ始める。勢いよくすする蕎麦をゆっくり食べてもすぐに食べ終わってしまう。駒は冷を呑みながら冷奴に下地をかけて留吉を観察していた。ゆっくり食していたおかげで店内の客が疎らになった。
それを確認すると留吉が小声で話し始めた。
「師匠、手を貸してほしいんです」
 怪訝な顔をして、
「何に」
 更に小声で、
「足抜き」
 予想外の言葉に度肝を抜かれた。今度は駒が周囲を見回した。
「留さん寝言は寝ていっとくれよ」
「師匠寝言じゃねえです」
「あんた、これっぱかしの酒で酔ったのかい」
 留吉が更に声を潜めて、
「師匠が前を通った部屋の、藤丸をなんですが」駒は慌てて煽ぐように手を振り、「留さん聞かなかったことにするよ。姉さん、おあいそ」
 小女を呼んでお代を払う。見ると留吉は俯いて席を立たない。その姿が何とも哀れである。駒は振り返り、
「留さん取り敢えず出るよ」
 無理矢理留吉の腕をとり店を出た。五十軒通り沿いの引手茶屋の軒先で、
「悪いことはいわない、馬鹿な真似をしちゃ駄目だよ。じゃあねっ」
 留吉を置き去りにして歩きだす。駒の足取りはけっして軽くない。しかし早くこの場を去りたかった。見返り柳を足早に通り過ぎ、衣紋坂に差し掛かる。頭の中は先ほどの留吉の言葉がぐるぐる駆け巡っていた。
 日本堤の花見客を早足に抜き去る。足元の桜の花びらが舞い上がる。汗ばみながら大川まで出た。気が抜けたようにゆっくりぼんやり歩みを進めた。
 (なんだって留吉の奴ぁいきなりあんなことをいいだしたんだ。よりによってこのあたしに)
 思いだすたびに腹もたってきた。
 それからどこをどう歩いてきたのかはっきり覚えていない。気が付いたときは浅草寺
 脇にある蛇骨長屋(じゃこつながや)の自宅に戻っていた。その夜はまんじりともせず、一夜を明かした。
 駒は深川の芸者上がり。御城から見て辰巳の方角に位置する深川を辰巳と称し、深川の芸者を辰巳芸者とよぶようになった。
 冬でも素足に下駄をつっかけ、男勝りで伝法な喋りが受け継がれ、またそれを売りにもしていた。後の時代には男物の黒羽織をはおり威勢がよかった。江戸っ子気質は土地柄のようである。
 三味線、踊りが辰巳一といわれ駒吉として名をあげた。そんな駒吉を大店の旦那衆がほっとくわけがない。若くして呉服問屋加賀屋の主に身請けされて根津の隠居所に落ち着いた。
 しかしその生活も長くは続かなかった。加賀屋の主が急逝し独り身となった。根津の家は加賀屋から手切れ名目で貰い受けたが、月々の手当ては途絶えた。
 富裕な商人の隠居所が点在するだけの根津は寂寞な地。人好きな駒には我慢の限界があった。僅かな貯えで糊口を凌ぎ、伝手を頼りに今の仕事にありついた。下女と下男の爺さんに暇を出して近所の百姓家に後を託し、吉原から近い蛇骨長屋に越した。最近になり、僅かながら余裕ができたため息抜きをする場所として再び根津を利用していた。そんな安定した生活を覆そうとする留吉の一言ではあったが、妙に心に引っ掛かり頭から離れなかった。

 清蔵が大八車を曳き山野堀を渡り、衣紋坂をゆっくり下り五十軒通りに差し掛かると大門の前は同業者、駕籠かき、船頭たちで賑わっていた。
 明六つ、大門が開く。
 実際には大門は閉められることはなく、開けっ放しではあるが呼称としてそういっていた。帰路につく登楼客待ちの彼らを尻目に清蔵は大門を潜る。
 陽が昇り明るくなった郭内は燈篭の灯も落とされ、夜の喧騒が噓のような静けさ。
 仲の町の通りは花見時期に植木職人が入り、満開の桜の木が整然と立ち並ぶ。このときは市井の女子供も花見を楽しめるように解放されている。
 仲の町の通りをまっすぐ進み京町一丁目を右に折れる。この辺りは庶民向けの小見世が多い地区。通りに大八車を停めて積んできた大きな竹籠を担ぎ、御内所に声を掛けて賄い場の外にある塵箱を目指す。中から手早く紙屑だけを選り分けて竹籠に詰め込む。一軒だけでも相当な数の紙屑である。吉原全体となると計り知れない紙の消費量だ。事後の始末だけではなく馴染みに宛てた手紙の書き損じ、時には起請文まで含まれることもあった。
 市場、吉原、芝居小屋は一日に千両のお金(あし)が動くといわれていた。それだけ多くの人間が行き交っていたことが垣間見える。
 清蔵は詰め込んだ紙屑を上から踏み固めて次の見世へと向かう。数件も回れば持参した八つの籠はいっぱいになる。籠を大八車に括り西河岸を進んで江戸町一丁目を右に折れる。大見世の鳴見楼前で掃き掃除をしていた留吉が声を掛けてくる。
「清蔵、あとでな」車を曳きながら、
「ああ」
 と返事をして通り過ぎた。

 再び山谷堀を渡り作業小屋前に停めると小屋から漉き職人の源三が出てきた。二人で堀から引き込んである水場に竹籠を沈める。紙屑が充分に水を含むまで晒(さら)す。その間に大釜に火を入れて湯を沸かす。水を含んだ紙屑を板敷きの上に広げて木べらで叩く。柔らかくなった紙を煮立った大鍋に投げ込みドロドロになるまで煮る。程よく煮込まれたら火を落として冷ます。冷めたら型に流し込んで漉いて乾かし、できあがる。これが浅草紙である。 憚(はばか)りで使う落とし紙として普及していた。
 大鍋内が冷めるあいだ職人達は暇を弄(もてあそ) ぶ。たいていの職人は吉原内をぶらつき時間を潰した。遊ぶほどの時間もお金(あし)もない。格子越しに遊女を眺めては軽口を叩いていた。冷やして乾かす職人連中をいつしか素見(ひやかし)、というようになった。
 他の職人連中が素見で時間を潰すとき清蔵はきまって鳴見楼の留吉の元へ向う。留吉とはお救い小屋で育った幼馴染である。
 火事が多かったこの時代、焼け出された者を幕府が救済措置としてお救い小屋を設置した。二人は二親と死に別れた者同志。他にも大勢孤児はいたが二人は妙に気が合った。寝るのも喰うのも、悪さをするのも一緒。奉公にでる歳になり清蔵は職人の道へ、留吉は食住付の遊里に進んだ。働き始めてからも深い友情に変わりはない。
 鳴見楼中庭の縁台に将棋盤を置き、二人で将棋を指すのが唯一の息抜きである。
 遊女、奉公人も見慣れた光景なので誰も邪魔をしない。しばらく指していると清蔵が、
「どうした気も漫ろで。なんかあったか」
「いや、別になにもねえよ」
 そうはいったものの留吉は明らかに将棋に身が入っていなかった。
 そこへ出稽古終りの駒が縁台にやって来た。一見すると将棋見物のようにも見える。抱えていた三味線を脇に置き煙管を取り出して一服付ける。将棋盤を見下ろし
ながら小声で、
「蕎麦が喰いたいねぇ」
 それだけいうと吸い口を縁台の端でこっんと叩き、吸い殻を落としその場を離れ
た。清蔵が呆れ顔で駒を見送ると留吉が燻(くすぶ)る燃えかすを見て、
「ちゃんと消してけってんだ」
 と草履(ぞうり)で踏み躙(にじ)った。清蔵が留吉の顔を見ると、
「悪りいな用事を思い出した。また明日な」
 清蔵が何かをいいかけるも留吉は中庭から走り去った。
 留吉は先日駒を誘った蕎麦屋の暖簾を潜った。駒は既に先日と同じ右奥の席で冷を煽っていた。駒は留吉を見ると、
「姉さん、冷を頼むよ」
 席に着き、伏し目がちに駒の顔を覗き込んだ。なにかいいたそうだった留吉には目もくれず冷を煽っている。
 小女が冷を持ってくる。駒は顎で吞むように促した。いわれたとおりに留吉は冷を吞み始めた。二人とも言葉は一切発しない。
 蕎麦が運ばれる。二人は蕎麦をすすり始めたが会話はない。蕎麦を喰い終わると、
「留さん休みはいつだい」
 予想外の問いに戸惑いながら、
「いつでも取れます」
「そうかい、詳しいことはここで」
 小さく折り畳んだ紙を手渡し、
「明晩」
 しばらく考えてから、
「亥の刻にきておくれ」
 続けて、
「姉さん、おあいそはこの兄さんからもらっておくれ」
 いい残して先に店を出ていった。留吉が紙を開くと根津までの簡単な地図が描かれてあり、道順が記されていた。

 留吉は早々に根津を目指した。紙に描かれた田畑の中を進む。畦道の草には早くも夜露が溜まり、履物も足も濡れた。
 漸く数寄屋作りの家屋が点在する一画に出た。記されたとおりに庭に大きな欅がある家を目指した。暗がりでも大木は目立ち、すぐに分かった。
 目指す家の玄関前に着き、提燈の灯を落とし訪いを告げる。
「悪いけど裏へ廻っておくれ」
「へぇ」
 裏へ廻る。勝手口の戸が開き駒が手招きをした。
「師匠、遅くなりやした」
「ちっとも遅かないよ。お入り」
 台所脇をぬけて框に腰掛け足を濯ぎ、脇の小部屋に促された。駒は長火鉢脇に座る。お燗をつけていた。
「春とはいえ、夜は冷えるからつけといたよ」
 長火鉢の縁に猪口が用意されていた。徳利を湯から上げて猪口を持つように促し
た。留吉は遠慮気味に猪口を差しだす。留吉の猪口に酒を注ぎ駒は手酌で注ぎたし、顔の前まで軽く猪口を持ち上げて眼で挨拶をして吞み始めた。それに答えるように留吉も一気に吞んだ。
 それとなく部屋を見渡した。家具、調度品は一目で上等な物であることがわかる。
 しかし人が住んでいる気配がまったく感じられない。
「師匠、このお宅は」
 手酌で燗酒を注ぎ足し、
「死んだ旦那が残してくれた唯一の財産。普段は誰もいないから肴はないよ」「いえ滅相もねぇです。これだけで充分です」
 煙管を取り出し煙草を吸い始めて上目遣いで留吉を見る。
「この間の話なんだけど。二人がいつどうしてどうなったかなんて野暮なことは聞かないよ。それよりも手立てはあるのかい」
 留吉は首を横に振った。駒の予想通り。
 留吉はぽつりぽつり藤丸との馴れ初めを語り始める。藤丸は湯女上がりであった。吉原にきたときは散茶扱い。客の切れ間がないほどの売れっ子になる。
 散茶とは、格から言えば太夫、花魁が一番。次が格子、三番目が散茶といわれていた。その下も幾つか続き七つの階級があった。散茶のいわれは急須に入れたお湯を振らないことを散茶といったことから客を振らない、と掛け言葉から始まった。毎日の激務をなんとかこなしてはいたが、心身共に疲弊しきっていた。
 藤丸もまた留吉同様火事で二親を亡くしていた。天涯孤独と相通ずることが多
く、いつしかお互い惹かれ合う仲になった。当然二人とも素人ではない。廓内の遊女と男衆の恋愛は御法度であることは重々承知している。しかし燃え盛る火はいつしか炎と化した。藤丸の年季明けは程遠く、互いの貯えも乏しく留吉が身請けできるはずもない。手元不如意な二人はただただ人目を忍んで逢瀬を繰り返すだけ。当然打開策は見つからないし考えられない。相談する近しい関係の者もいない。
 長火鉢に片肘をつき、気怠そうに留吉の話に耳を傾けていたが、
「留さん、あの日わざとあたしに見られたね」ドキリとして駒を凝視した。
 あのとき藤丸と二人でいた部屋から聞こえていた三味線の音色が止んだ。そのとき留吉は梅川太夫に稽古をつけているお駒のことが一瞬頭を過った。顔の広いお駒であれば助言をもらえると思い、出たとこ勝負で芝居に打ってでた。計画的に駒に見られるように藤丸の部屋から顔を出したのだ。それまで顔は見知ってはいたが挨拶程度の間柄。芝居を打つことで話す機会を得ようとした。
「目端の利く男衆揃いの遊郭だ。三味の音がやめば当然あたしが帰る時分だ。そこへ顔を出すなんざどうぞ見て下さいよっていってるようなもんだ。どうだい、図星だろう」
 二の句が継げられなかった。
「留さん、承知と思うけど鳴見楼はやっとお出入りが許された大見世なんだよ。足抜けを助けて露見したらお出入り禁止どころじゃないよ。吉原自体に足を踏み入れられなくなるんだよ。下手すりゃ仏になっちまうよ」
 両膝に乗せていた拳が震えていた。それを見て、
「で、あんたら吉(な)原(か)抜けてどこへ行くんだい」俯いたまま答えに窮する留吉。
「天涯孤独の二人が行くところは、差し詰め地獄の一丁目ってところかね」黙って立ち上がり唇を嚙み締め踵を返した。
「まぁ待ちなよ留さん、考えなしの出たとこ勝負なんて当節流行んないよ」
 再び煙草を詰め、
「助ける気がなきゃここまで呼ばないよ。さぁ座っておくれ」予想外な駒の言葉に、
「師匠、今なんて」
 顎で座れと指示をした。留吉が座り直すと、
「助けるに当たって一つ条件がある」
「なんです」
「仲間を一人増やす」
 驚いた留吉は、
「誰をですかい」
「あんたの兄弟分で毎日紙屑集めてる奴がいるだろ」
「清蔵ですかぃ」首を縦に振る。
「そいつぁ勘弁してくだせい。万が一ばれたら男は殺(やら)れちまう。あいつは唯一の兄弟分なんでさぁ」
「あたしは殺れてもいいのかい」
「そんなことをいってるんじゃねぇです」
「だったらばれないようにすりゃいいだけの話じゃないか」煮え切らない顔をして駒を見つめた。
「在所がない者同士どこへ逃げようってんだい。手立てもさることながら先のことを考えないとすぐに捕まっちまうね」
 駒は猪口を傾けながら手段を語り始めた。
 清蔵が毎朝集める紙屑。籠に紙屑ごと藤丸を詰め込み吉原から連れ出す。作業小屋から蛇骨長屋まではゆっくり歩いても半時はかからない。
「冗談言っちゃいけねぇ、蛇骨は吉(な)原(か)の目と鼻の先ですぜぃ」
「だからいいんだよ。灯台下暗しというだろ」
 留吉は改めて駒の豪胆に驚いた。
「小屋からの途中見つかりゃあしねぇですかぃ」
「早朝、女一人姿が見えなくたってすぐには誰も気付かないだろ。あんたが一番よく知ってるじゃないか」
 遊女らは登楼客を送り出すと湯浴みをして髪を結い、飯を喰ったり馴染に手紙を書いたりと、僅かではあるが干渉されない時間がある。
「見世で騒ぎが起きるころには藤丸は家で昼寝してるよ。後は頃合いを見てここに連れてくりゃぁ、しばらくは安心だ」
 後は留吉がどう清蔵を仲間に引き入れるかが鍵だといった。話の流れからすると清蔵が一番の立役者。それも命の危険を含んだ役どころである。
 留吉は悩んだ。清蔵にとっては何の得もない。清蔵もまた吉原で喰わせてもらっている一職人にすぎない。留吉は考え込みながら根津を辞去した。

 漉職人の時間潰し時となると清蔵は鳴見楼にやってきた。いつものように縁台の将棋盤に駒を並べた。珍しく留吉が急須と湯呑茶碗を持ってくる。清蔵は怪訝な顔をして留吉を見つめた。注がれたのは酒であった。
「留、お天道様が高いうちにどういうわけだ」
「たまにはいいじゃねぇか。俺達ぁ身を粉にして働いたって僅かな給金だ。これっぱかしの贅沢をしたってお天道様は怒りゃしねえよ」
 ここには毎日上等な酒が大量に運び込まれては消費される。酒好きな清蔵はぐいっと呑み乾す。
「かぁー、旨ぇなぁ」
「おうよ、最高の下り酒よ」
 さらに清蔵の湯呑に継ぎ足そうする。清蔵は黙って掌で湯呑に蓋(ふた)をした。
「用件は、なんでぃ」
 清蔵の鋭い眼光に一瞬怯んだ。勘の鋭い清蔵は留吉の魂胆を見透かしていた。戸惑いながらも小声で駒との遣り取りを話し始めた。
 聞き終えた清蔵は険しい表情で黙ったまま将棋盤を見詰めていた。端から見れば局終盤の熱戦のようにも見える。
「留、覚悟はできてんのか。しくじったらお前ぇも藤丸も、いや俺も師匠もこれだぞ」
 といって掌で頸(くび)を斬る仕草をした。留吉は真っ直ぐに清蔵の顔を見て、
「できてる」
 しばらく沈黙が続いた。
 清蔵はぐいと湯呑を差し出した。留吉が急須からなみなみ酒を注ぐ。それを一気に呑み乾す。
「打ち明けられたら断れねえな、兄弟ぃ」
 その夜、根津の家で打合せが行われた。清蔵も一緒である。相変わらず人気はなく駒一人が長火鉢前で呑んでいた。
「師匠、遅くなりやした」
 留吉が清蔵を誘い部屋に入ってきた。清蔵は改めて駒に挨拶をした。
「いいよ改まんなくたって、お互い顔は見知ってんだから。それよりよくこんな無謀な企みに加担してくれたねぇ」
 兄弟分以上の間柄である留吉の頼み事だからこそ、引き受けた旨を吐露した。「羨ましい話じゃないか留さん。血の繋がってる親兄弟だってなかなかできることじゃないよ」
 留吉は涙ぐんでいた。それを見ていた清蔵は、
「よしねぇみっともねぇ。まだ事を成してねぇぜ。上手くいったときまで泣くねぇ」
「ほんとだよ留さん、泣くのは早いよ」
 駒にいわれ涙を袖口で拭う仕草を見ていた清蔵は駒に向き直り、
「師匠一つ聞きてぇんですが、師匠はなんでこんな危ねぇ橋をお渡りになるんですか。
 何の得にもならない、いや逆に損なことになり兼ねねぇことに」
 悪戯っぽい眼をして、
「暇潰しさ。たまにさ、ごくたまに刺激が欲しくなるじゃないか。別段深い意味はないよ」
 駒は吉原内の見番にも稽古をつけに出向いている。稽古終わりに若い芸者から様々な情報が嫌でも耳に入ってくる。殆どが遊女の悲話。多くは極貧の農村から口減らしのため売られてくる娘たち。 彼女らは間引かれずに生きてこられたことに感謝しつつも、不条理な世を恨み落ちてくる。いても地獄、出ても地獄と諦めている遊女がほとんどだ。理不尽な扱いを受けている遊女を身近に感じながらも、何もできない自分との葛藤が途切れることはなかった。
 二人の猪口に酒を注いだ。それから駒は計画を話し始めた。
 藤丸の身の回り品はそのままにしておく。どうしても手放せないものは、前もって留吉が運び出す。お金については半分の持ち出し。これらは前もって留吉が預かる。着物履物類は一切持ち出し禁止。決行日は留吉から藤丸に伝える。決行当日早朝、藤丸は塵箱内で清蔵を待つ。簡単且つ明瞭な計画が明かされた。清蔵と留吉は半信半疑ながらも指示通り従う意思を示した。
 作業小屋裏に清蔵の塒(ねぐら)がある。といっても粗末な小屋である。布団が一組、鍋釜など炊事道具は一切ない。食事は全て外食で済ます。吉原内は勿論、五十軒通りですべて賄える。着物も冬物は夏の期間は質屋の蔵、同じく夏物は冬の期間蔵に入っている。普段は季節を問わず腹掛に股引、法被姿。独り身の職人は大抵こんな感じだ。火事にはまだあってはないが、布団だけ担いで逃げれば事足りる。
 明六つ前に大八車を曳き吉原を目指す。大門を潜りいつもどおりの道筋をいつもどおりの見世で紙屑を詰める。この時間は静まり返っている。最後の集積場所である鳴見楼前に車を停めた。脇の細い路地に籠を背負い中庭へ進む。留吉と将棋を指す中庭を素通りして、御内所に声を掛けて台所脇の塵箱へ向かう。
 用心のため菅笠の下から辺りを見回した。誰にも見られていないのを確認する。それから静かに蓋を開けた。藤丸が怯えた子猫のような眼を向けてきた。軽く目配せをして紙屑を拾い、外から内部が見えないように籠内の底と周りに詰め始めた。準備が整うと一気に藤丸を抱え上げて籠の中に静かに納めた。
「しばらく辛抱しな」
 と声を掛ける。藤丸は小さく頷き身体を横にして膝を抱えた。
 さらに紙屑を集め籠に投げ込んだ。ほかの籠と遜色ない程度まで詰め込むと今度は引き摺りながら中庭を後にした。急ぎ車に乗せて荒縄で固定をした。
 清蔵の掌は思った以上に汗が滲んでいた。まだ油断はできない。菅笠の下から辺りを見回して大八車を曳き、静かに大門を潜った。
 作業小屋前にはまだ他の連中が荷解きをしている。清蔵は塒前で藤丸の収まる籠を素早く小屋へ押し込んだ。中には駒が待機している。急ぎ百姓着に着替えさせ草履を履かせ手拭を被せた。
 清蔵は何食わぬ顔で作業小屋前に移動して他の籠を下ろし始めた。その間菅笠の下から駒たちを見守っていた。
 駒は頃合いを見計らって小屋を後にした。後には藤丸が続く。
 山野堀を渡り大川を目指す。藤丸は伏し目がちに駒のすぐうしろに続く。この時間は誰ともすれ違うことはない。桜も残り葉桜が芽吹き出し、いい塩梅に二人を隠してくれる。
 ほどなく大川縁に出た。駒はさり気なく辺りを見回してから川沿いを下った。その間二人とも無言である。
 花川戸までくると右に折れた。人目を避けるため寺町を抜けた。鳥のさえずりが響き渡るが二人の耳には届かない。
 浅草寺境内を横切った。本堂の前で立ち止まり、二人は手を合わせる。手を合わせながら駒は小声で、
「ここまでくりゃあひと安心だよ」
 しかし藤丸の不安は拭い切れない。小さく頷くだけであった。
 心配していたことはおこらず蛇骨長屋に着いた。
「あー肝が縮んだよ」
 扇子を煽ぎながら大きく息を吐いた。駒も相当気が張っていた。
「お師匠さん、ここは大丈夫でしょうか」
 まだ不安が残る藤丸は上がり框に腰が抜けたようにへたり込んだ。
「しばらくは騒がしくなるだろうね。ここには暗くなるまでいて、それから移るよ。それまで休んでおきな。呉々も外には出ちゃ駄目だよ」
 その頃ようやく藤丸の姿がないことが分かり鳴見楼は大騒ぎとなった。
 遣りて婆のスギが主の叱責を受けているのを横目に、尻を端折り見世の屋号が染め抜かれた半纏を羽織って、男衆が一斉に四方へ散った。しかし藤丸は天涯孤独、在がない。男衆は馴染帳の男をあたることぐらいしかできない。
 主と遣りて婆が藤丸の部屋を調べるものの、身の回り品は全て残っていた。布団に関しては今さっきまで寝ていたかのような痕跡である。粗末な手文庫の中にはお金も残っていた。藤丸の姿だけがない状態。奉公人やほかの遊女は勿論、男衆さえ誰一人目撃者がいない。主は首を捻るばかりであった。
「おかしいだろう。人が一人いなくなったのに誰も見ていないなんて。あり得ないだろう」
 主は憤りを隠せない。
遣りて婆のスギが責任転嫁とも思えることをいいだす。
「藤丸と仲がよかった留吉なら、何かわかるかもしれませんよ」主はそれを聞くと、
「留、留吉はいるかい」
 階下で主に呼ばれた留吉はドキリとしたが、すっ飛んできた。
「留、お前は藤丸と気が合ってたようだが何か心当たりがあるかい」 隣で上目遣いに留吉を見ているスギを一瞥して、
「気が合ってるっていうか、藤丸姐さんだけじゃなく姐さんたちに用を頼まれれば駄賃欲しさに使いにいきますよ。たまたま藤丸姐さんの用事を多く引き受けていただけですよ」
 それでも主は猜疑心の眼差しを留吉に向ける。
「お前は今朝、何してた」
「いやだなー旦那様、あっしは伊勢屋の若旦那の付け馬で三田まで出張ってたじゃねぇですか」
「あーそうだったね」
「今さっき戻ったばかりで、この騒ぎも聞いたばかりですよ。おまけに藤丸姐さんに頼まれた煙草まで買ってきたんですぜ」
 留吉は懐から煙草の包みを見せた。主の疑いははれたが
(婆は感ずいていやがったのか、あぶねぇあぶねぇ)
「とにかく、お前たちは手分けして探し出しておくれ」再び男衆にはっぱをかけた。
 吉原の土地は代官に属し住民は町奉行に属していた。元禄以降は全て町奉行の管轄下に置かれた。大門脇にある会所は町奉行所配下の番人よって厳重な警備が敷かれていた。入ってくる女には木札を渡し出る時には木札を回収する。遊女の脱走を防ぐ手立てだ。
 主は行方不明者が出たならば即座に会所の番人へ届を出さなければならない。それだけではない。管理不行き届きにつきお咎めもある。主にとっては踏んだり蹴ったりである。番人らも廓内を隈なく探索する。
 しかし遂に藤丸は見つからなかった。
 その頃吉原ではまことしやかに、こんな噂が広まった。
 ―藤丸はかみかくしにあった―と。噂を流したのは駒である。稽古先で吹聴してまわっていた。見つからない以上は皆が信じた。

 半月経った。いつものように留吉と清蔵が将棋を指していると駒が近づいてきた。いつものように煙管を取り出すと一服付けた。将棋盤を覗き込みながら小声で、
「根津で、いつもの時間に」
 それだけいうとくるっと踵を返し中庭から出ていった。
 その夜、根津で初めて一堂に会した。用心のために駒からの指示で顔を合わせないようにしていたからだ。
 藤丸はあの晩、駒と根津にきてから住み始めた。買い物は当分警戒しなくてはならないので留守を任せていた近所の百姓家の老夫婦に任せていた。
 清蔵、留吉、駒が揃うと藤丸は改めて手をつき深々と頭を下げ礼を述べた。
 藤丸は勤めていた時分からだいぶ様子が変わっていた。昼間時間を弄んでいるため、百姓の老夫婦に頼み百姓仕事を手伝っているとのことだ。日焼けをして逞しく感じた。百姓家の嫁そのものであった。
 留吉が藤丸の横に座り直してから、懐から紙に包んだものを出した。
「師匠、清蔵世話になった。これは俺とこいつの気持ちだ。少ねぇけど収めてもらえねぇか」
 駒が包みを開くと小判が二枚出てきた。清蔵は二人を見ながら、
「いらねえよ。そんなもん貰うためにやったんじゃねぇ。引込めな」
「清蔵さん少ないけど収めてください。今、私とこの人が出来る精一杯な気持ちです」「気持ちだけで十分だよ。お前たちはこの先どっかへ落ち着くんだろ。そのときのためにとっときな」駒がその時、
「藤丸の名前のことなんだけどさぁ。あっそうだ、ほんと名はなんというんだい」
 話の腰を折られた格好となった三人は顔を見合わせた。藤丸は、
「つるといいます」
「なるほどね、それで藤丸かぁ」
 留吉と清蔵は訳が分からない。それを察した駒は、
「藤蔓を見たことないのかい」
 二人には構わず、
「女衒や楼主は名前を憶えているからこの際替えちまったほうがいいよ。こんなことでしくじりたくないだろう」
 三人はただ首を縦に振るだけ。
「いいのを思いついたんだ、聞いておくれよ。かみくずに紛れて足抜けしたんだ。かみくずの頭と尻を取って『みく』ってのはどうだろう」三人は顔を見合わせて失笑した。
「いい思い出のない頭と尻を取っ払って、出直しってことでさぁ」
 駒は温かい眼差しでみくを見つめた。清蔵が、
「師匠は昔、お座敷で語呂合わせや言葉遊びが得意だったんじゃねぇですかい」
 駒は嬉しそうに立ち上がり、
「今日は肴があるからゆっくり呑もうじゃないか。みく、手伝っておくれ」駒とみくは台所へ肴を取りにいった。さきほどから煮付の香りが漂っていた。清蔵と留吉は肴がくるまで静かに吞んでいた。二人が戻ると留吉がはっとして、
「もしかして、吉原でかみかくしの噂を流したのは師匠ですかい」 駒は悪戯っぽい眼をして、
「ははは…」
 三人は合点がいった。
 四人は改めて呑み始めた。杯が重なるにしたがって駒は特に上機嫌になり、
「なんか気分がいいねぇ。みく、三味を取っておくれ」 三味線を手渡されると、
「即興だよ」
 爪弾き、唄いはじめた。
♫ かみにまみれてかくがいに
 かみはくずばかりじゃないけれど
 くずにはかみがふくまれる
 いつかは土にかえるけどいまは土とたわむれて
 ひたいにあせして青菜つみ

(文字数12.248字)

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