佐倉の華
左門 新
(第一章は「植疱瘡事始め」として前回合評会掲載)
第二章 「帝王挙子」
第一節 佐倉順天堂再訪
ときおり砂埃が舞い上がり、荷車の轍や馬の蹄の跡が走る、曲がり角の多い小径を歩いている順天堂大学病院研修医の佐藤泰三は、小石を踏みしめると足裏に感じる脳裏に残る痛みから、今自分は江戸末期の佐倉藩内にいるのかもしれないと思った。
歩みを進めて急傾斜の切り通しを登ると、イヌマキやカラタチの木々から成る生け垣と高い土塁が連綿と続く屋敷街に出た。長屋門から垣間見える茅葺き屋根に白い漆喰の壁の屋敷、手入れの行き届いた庭樹の数々、台所のかまどからの煙、鼻をくすぐるたき火のような臭い、窓から漏れる赤ちゃんの泣き声、蚊に刺されたらしい手の痒みが、自分は今また江戸末期の佐倉藩に戻っていることを確信させた。
この先には大きな瓦屋根の城門、その先には佐倉順天堂があるに違いないと、泰三は心躍らせて歩を速めた。すると、城門から老若男女の人の群れが目に飛び込んできた。
逸る気持ちを抑えて泰三が佐倉順天堂の病棟に足を踏み入れた途端に、女性の大きな叫び声が耳に入ってきた。何事かと声の方へと急いで向かおうとしたが、思うように足が動かない。どうしたのだろうともがき苦しみ叫ぼうとした瞬間、泰三は目が覚めた。病院の当直ベッド脇の電話が鳴っていることに気づいた。
第二節 産科研修医助川
泰三は朝7時に眠気を払いながら当直室のベッドから起き上がると、分厚い眼鏡をかけダブダブな白衣に着替え、いつものように朝食前に受け持ち患者の状態を確認するため病棟へ向かった。10名ほどの診察を簡単に済ますと食堂へと向かった。
「佐藤、どうされたのですか。髪はぐしゃぐしゃだし、眠そうじゃないですか」
長い髪を七三に分け、皺ひとつないアイロンのかかったダブルの白衣を着こなした同級生だった助川が、首を右側に傾け、中肉中背の背筋を伸ばして近づいてきて声をかけてきた。金縁の眼鏡から優しそうな眼差しを泰三へ向け、朝食のお盆をテーブルに置きながら向かい側へ座った。助川は父親が産婦人科の開業医をしており、将来はそれを継ぐ予定で産婦人科の研修医をしている。
「ああ、昨夜も電話で何回も起こされて寝不足なんだ。当直は本当に大変」
「朝からふつうに勤務してそのまま夕方から引き続き当直だから、10数時間の連続勤務となって大変ですよね」
「いや、それだけじゃないでしょ。当直明けてからもそのまま昼13時までまたふつうに勤務だから、夜起こされたりしたら連続28時間勤務になるし」
「でも、今の研修医はまだましみたいですよ。以前は深夜起こされても、そのまま朝から夕方までふつうに勤務だったから、連続32時間以上の勤務がふつうだったようです」
「最近は、労働基準監督署が医師の勤務時間に対しても病院への指導が入るようになったから随分変わったけど、それでもめちゃめちゃだよね。これじゃ、睡眠不足からの注意緩慢で医療事故が起こっても不思議じゃないよ」
「研修医の労働時間削減管理は、アメリカの研修医制度からの輸入のようですよ。日本は外圧がないとなかなか制度変えないようですから」
「でも、同じ当直でも診療科によって負荷は随分違うよね。産科は結構大変じゃないの。お産は昼夜ないし」
「確かに父親の若い時代は昼も夜もなくて大変だったようですけど、その後予定出産というのが増えたようです。医療スタッフが揃っている昼間に出産が始まるようにしようというわけです」
「ああ、それ聞いたことある」
「予定日の少し前、陣痛が起こる前に水分を含むと膨らむラミラリアというのを膣に挿入して数時間かけて子宮口を広げて、ある程度広がったら今度は陣痛を起こす陣痛誘発剤を点滴して出産を誘発する方法なのですよ」
「誘発分娩とはどう違うの?」
「誘発分娩とも言いますけど、ふつう初産で十数時間、経産婦では半日で出産が終わるので、お産が昼間になるように遡って計画的に始めるのを計画出産と言います」
「なるほど、出産時刻を決めての出産ね。それ、なかなかいいね」
「でも、しばらくして下火になってしまいました」
「良さそうな方法なのにね。どうして?」
「この方法が始まってしばらくすると、自然出産ブームが始まったのです」
「計画出産というのは、自然ではないというわけね」
「そう、人工的。それに、陣痛が自然に始まれば痛みも受け入れられますけど、陣痛誘発剤で人工的に痛みが始まると、点滴で痛みを注入されたみたいで、嫌悪する妊婦が次第に増えていったのです」
「なるほど。医学的には陣痛とは分娩時の『子宮の収縮』のことを言って『痛み』の意味ではないけど、妊婦は陣痛を痛みと取るのね。しかも胎児ではなく、意に反して医師に引き起こされた」
「そう。だから、昼間にという出産日時をあらかじめ決める計画分娩は次第に減っていったのです。でも、誘発分娩というのは行われています」
「どういう場合に?」
「まず、分娩予定日から2週間以上過ぎても陣痛が起こらない場合がありますね。胎盤機能が低下して胎児に悪影響が出てくることもあるので人為的に陣痛を起こします」
「胎盤機能が落ちるだけでなく、胎児が大きくなり過ぎて難産にもなるよね」
「それもありますね。あと、子宮や胎盤、羊水に感染の兆候が見えた場合ですね。感染が進行して胎児への感染が起こる前に早く出産させてしまうわけです」
「そうか。胎児への配慮ね」
「母体への配慮での誘発分娩もありますよ。妊娠中毒症で血圧が高い状態が続いたり、妊娠糖尿病などでは、それらを長引かせて悪影響が出る前に出産させます」
「だいたいはあらかじめ予定するわけね。これなら医療従事者への負担も減りますね」
「あらかじめ予定するのではなく、強いられるのもあります。陣痛がまだ来ないけど破水が起こってしまった場合、長く放置すると破れた膜から胎児への感染が起こるので、あまり時間が経過しないうちに誘発分娩をします」
「なるほど。一口に計画分娩、誘発分娩と言っても、いろいろな理由があるんだ。出産もいろいろ大変だね。俺男でよかった。」
「でも、その分、無事に出産できた時の達成感と安らぎ、男には絶対味わえない至福と言えますね」
「なら、今度生まれてくる時は、女がいいかも。それにしても助川は何にでも醤油をビタビタに掛けるんだね」
「私の生まれ育った新潟県ではこれくらいはふつうだったですけど」
「それじゃ塩分取り過ぎだよ。将来高血圧になるよ」
「そうですか?」
「そうだよ。親は高血圧ないの?」
「父親は高血圧ですけど」
「じゃあ、遺伝と塩分取り過ぎで、このままだと高血圧間違いないね。ところで、前から思ってたんだけど、助川はよく首を右側へ傾けてるよね。いつも何か考え込んでるの?」
「そうですか。あっ、私はもう行かないと。午前中に陣痛の始まっている人がいるから、夕方までには出産になるかもしれないから」
「じゃあ、助川、また」
第三節 「療治定」
佐藤泰三は見覚えのある大きな門をくぐった。目の前の大きな瓦屋根の平屋へと歩を進めると、そこは様々な恰好をした多くの老若男女でごった返しており、受付のようである。
正面の壁に目をやると、筆書きの大きな表のようなものが目に入った。「療治定」とある。治療料金表らしい。
一金創 金百疋 一手足(裁)断方 金三両などと縦書きで、数十に及ぶ治療法と料金が列記されている。乳癌摘出、焼傷、瘡毒、眼病、兎唇、陰嚢腫根治方、睾丸癌腫切断、包茎開皮術、痰包腫術、卵巣水腫回復術、穿膀胱術、刺腹術、動脈(札糸)施方、割腹出胎児術、造鼻施術、腹癩根治方、鎖陰、鎖肛、造瞳孔術など、実に多岐に渡っていて、泰三はこんなに多くの手術が江戸時代に行われていたことに驚いた。
そういえば、天保14年(1843年)、佐倉の元町に佐倉順天堂を開いた佐藤泰然は、それまで外科医として名を馳せていたことを思い出した。文化元年(1804年)出羽の国升川村(現在の山形県遊佐町)出身で江戸で公事氏をしていた佐藤藤佐(とうすけ)の長男として武蔵の国稲毛(現川崎市)に生まれ、旗本の伊奈家に仕えた後、天保元年(1830年)に医術を修めるために江戸の足立長しゅんに師事する。その後長崎に留学しオランダ商館長のニーマンに西洋医学を学び、天保9年(1838年)に江戸両国薬研堀に医塾を開き、医業と塾生の教育を始め、外科医としての評判が高まっていた。佐倉順天堂では泰然はその外科医としての経歴を活かした医術を前面に打ち出しており、驚くほど多彩な外科手術を売りにしているのも泰三の腑に落ちた。
手術の多彩さに加えて興味深いのがその料金だ。例えば、乳癌摘出は金千疋(ひき)、瘤摘出裁断が五両、卵巣水腫回復術が十両、割腹出胎児術が十両、造鼻施術十両とある。泰三は造鼻施術が割腹出胎児術つまり帝王切開と同じ十両と極めて高額なのも不思議だと納得がいかない。造鼻施術とは単なる鼻の整形手術ではなく、癌か何かで顔前面を大きく削ぎ落した後の顔面形成術なのだろうか、
そんなことを考えながら、平屋の奥へと歩を進めた。
第四節 帝王切開
いつものように泰三が朝食をとっていると、助川が真向いにお盆を置いて座った。
「助川おはよう。どうしたの? 眠そうな顔して」
「ああ、今朝未明に、帝王切開手術の助手を務めて寝られなかったのですよ」
「朝に帝王切開の予定手術するはずないから、緊急の?」
「そうです。昨日から陣痛があったのですけど、お産が順調に進まなくて胎児が切迫仮死になったので、緊急に帝王切開をすることになって」
「切迫仮死って、分娩モニターの胎児の心拍数が遅くなったってこと?」
「そうです。強い陣痛の時に一時的に心拍が下がるのではなく、陣痛が弱くなっても心拍数が回復しないので、切迫仮死が進行しつつあるかなと、指導医が急遽緊急帝王切開をすることに決めたのですよ」
「お産ってこういうことがあるから、結構大変だよね」
「私もまだ経験少ないので、その判断は難しいですね。優秀な産科医は経過を見て、そのままお産を続けるか、緊急の帝王切開に切り替えるか、その判断と決断力が素晴らしいですね」
「まさに産科の神髄だね」
「本当にそう思います。それが産科の産科たる由縁なのに、日本の医学部教育は全くずさんですね」
「どういうこと?」
「ほら、学生の時に産科実習があるでしょう。一週間病院に泊まり込みんでの」
「ああ、どこの医学部でもあるみたいね。大学付属病院での泊り込み実習」
「泊まり込み実習って産科だけですよね。救急医学でもないみたですし」
「そうだね。私もしたけど、助川ももちろん泊まり込み実習したよね」
「しましたけど、それがとてもひどいものでしたね」
「どういうこと?」
「大学病院でお産する人ってあまりいないじゃないですか。妊婦に病気があるとか、胎児に問題がありそうだとかでないと」
「確かに、そうだね」
「だから、お産が少ないんですよ。一週間寝泊まりして、お産に立ち会ったのはたったの一例だけでした」
「それじゃ、あまり勉強にならないね」
「それだけじゃなくて、その一例の実習もお粗末極まりなかったのですよ」
「どういうこと?」
「ですから、出産って、その進行をはじめから診て、経過が順調に進んでいるかを判断することですよね」
「そうなんだ」
「そうです。ですから、お産の最初から傍で教員から分娩の進行状況の説明や介助の指導を受けないと、実習教育とは呼べないですよね」
「そう言われれば、そうだな。私の時も同じようだったけど」
「それがですね、明け方になって看護師に起こされて分娩室へ急いで行ってみたら、もう生まれる直前だったのですよ」
「だったら、赤ちゃんが生まれ出るところは何とかとか見学できたのね」
「生まれるシーンは見ましたけど、ただそれだけです。これでは、最近多い父親が出産に立ち会うのとなんら変わらないじゃないですか」
「そう言われればそうだ」
「さっき言いましたように、産科の神髄は出産経過の見極めと判断、それに介助方法の決定なのに、産科医がどのタイミングでどのようにしているのか、全く見ても教わってもいないのですよ」
「俺の時もそうだった」
「でしょう? 産科の研修医になって初めて全出産経過を自分で診ることができたというわけです。本来、学生の産泊実習で勉強しておくべきことだったのに」
「今から思えば、本当にその通りだね。日本の医学教育はなってないね」
「これは、産科だけでないかもしれませんよ」
「じゃあ、俺たち研修医は学生教育を受けているようなもんだね」
「アメリカの医学生は指導教員から診察だけでなく、医療機器を用いての検査や、薬の処方、さらには手術の一端も担当するようですよ」
「今からでもアメリカの医学部へ入ろうかな」
「でも、授業料が高いですよ」
「俺には、そんな金ないし、英語も今一だから無理かな」
「ところで、佐藤は、なんで『帝王切開』って呼ぶのかご存じですか」
「帝王、つまりカエサル、ジュリアス・シーザーがこの方法で生まれたからじゃないの?」
「医者でもそう思っている人は少なくないようですけど、違うみたいですよ」
「えっ、違うの?」
「まず、シーザーが帝王切開で生まれたというのはあり得ないようです。カエサルが長じて実母へ宛てた手紙が残っていますから」
「どういうこと?」
「当時の古代ローマ時代に妊婦のお腹を切り開いて胎児を取り出したら、妊婦はその後死亡してしまうので、カエサルがその方法で生まれたというのはあり得ないのですよ」
「なるほど」
「じゃあ、なんで帝王切開って言うの?」
「それが、いろいろな説があるのです。帝王切開はイギリス英語ではcaesaean section、アメリカ英語ではcesarean section、ドイツ語ではKaiserschnittと言うのですが、元はラテン語のsectio caesareaから来たようです」
「医学用語はほとんどがラテン語由来だからね。日本の医学部ではドイツ語で言う教員が多いからカイザー切開、それでカイザーが帝王だからで帝王切開と呼ぶわけね」
「ですけど、caesareanというという語はなかなかの曲者なのです。ハサミはscissorsで日本語ではシザーと発音しますけど、これがシーザーつまり帝王と誤読されたという説まであるのですよ」
「ああ、それ知ってる。物知り顔でいう人いるよね。で、本当のところ、caesareanってどういう意味なの?」
「これが、実に奥深い話で、古代ローマ時代の法律に遡るんです」
「じゃあ、やっぱりカエサルが関係してるの?」
「そうなんですけど、caesarというのはcaesoとも言うのですけど、あのカエサルではなくて遺児の意味、つまり妊婦の腹部を切開して取り出した胎児をそう呼んだという説もあるようです」
「じゃあ、やっぱり今の帝王切開だ」
「それが、やや違うのです。紀元前7世紀頃にLex Caesareaという法律があり、その中に『遺児法』」という妊婦が死亡したら埋葬前に胎児を取り出すべしというのがあり、この腹部の切開によって取り出した遺児をcaesarというようです」
「なるほど。じゃあ、帝王切開では妊婦、胎児とも死んでしまうわけね」
「いえ、どうも胎児は皆死んでしまうわけでもないようです」
「えっ、そうなの?」
「ギリシャ神話だから真実かは分からないですけど、あの太陽王アポローンは恋人コローニスの不貞を知って彼女を殺害し、取り出した胎児が後に医者の神となったアスクレーピオスという話があるのです」
「なるほど。胎児は死亡しないこともあったわけだ」
「おそらく、そうだと思います」
「現代の帝王切開だと、妊婦も胎児も死亡しないよね」
「難産で急遽緊急帝王切開になった場合は、胎児が出生後死亡することもあるかと思います」
「その場合は帝王切開でなくても、死産か出生後に死亡することも多いよね」
「そうですね」
「帝王切開で妊婦が死亡することはどうなの?」
「今の日本では、麻酔技術も進んで、帝王切開そのものでの死亡率は低いですけど、普通分娩に比べれば1.5倍くらいですね。全世界だと2倍になりますけど」
「日本の分娩死亡率は低いよね。ところで、どんな場合に帝王切開になるの?」
「帝王切開には大きく二つありますね。緊急帝王切開と予定帝王切開です」
「緊急帝王切開になるのはどんな場合?」
「よくあるのは胎盤が妊娠中に剥離して、胎児への血流が途絶える常位胎盤早期剥離ですね」
「陣痛前に強い腹痛とか出血があったら胎盤早期剥離を疑えと習ったけど」
「そうですね。診察して剥離が広範囲で出血が多かったり続いたりして、血流が減って胎児が酸素不足で心拍数が低下するなど異常があれば、早急に帝王切開で胎児を取り出す必要があります」
「分娩中の臍帯脱出でも帝王切開になる場合がると習ったけど」
「そうですね。長い胎児の臍帯の一部が先に膣の外に出てしまい、中に残っている臍帯が参道で圧迫されて、やはり胎児への血流が途絶える危険がある場合ですね」
「手技で臍帯を胎児より後へ戻せない時ね。胎児に酸素欠乏が起こって心拍数が下がるようなら緊急に帝王切開に切り替えるわけだ」
「ほかにもあるの? 難産とか」
「そうですね。回旋異常、軟産道強靭、微弱陣痛などで分娩が遷延して胎児への影響が出始めた場合ですね。佐藤も知っているだろうけど、回旋異常というのは、胎児が頭を先頭に参道を通過する場合、最短直径である頭の左右を母体の参道の最短距離に一致するように頭と体を回旋させながら生まれ出てくることですけど、それがうまく行かない場合ですね」
「習った。サルにはない、進化で頭が大きくなった人類特有のお産だよね。じゃあ、予定帝王切開はどんな場合なの?」
「まず前置胎盤と言って、胎盤が子宮の側壁ではなくて内子宮口にできていて、胎児の出口を塞いでしまっている状態ですね」
「これは絶対的適用になるね」
「それに児頭胎盤不均衡といって、あらかじめ胎盤を測定して推測した参道の最短径より胎児の頭の最短径が大きい場合です」
「それは難産になるなあ。男がお尻の大きい女性を好むのは、このためかなあ」
「それは、昔の話でしょ。今はそうとも限らないと思いますよ。女性の要因なら、高齢、子宮筋腫や重症妊娠中毒症とか、心臓や腎臓のなどの重い持病があるとかですね」
「胎児の要因とかはあるの?」
「多胎の場合に帝王切開を選択することはありますね。以前はそうではなかったけど、今ではほとんど帝王切開となるのが逆子ですね」
「そうなんだ。足やお尻が下になっている骨盤位のことね」
「そうです。以前は骨盤位分娩と言って多くは自然分娩だったけど、難産で母子への障害が大きく、特に胎児が死産になったり、脳性麻痺なったりすることも多かったのですよ。なので、アメリカでは骨盤位はほぼすべて予定帝王切開で、日本でもそれに倣って、以前は1割以下だったのに全分娩の2割が帝王切開になっています」
「5人に1人が帝王切開かあ」
「帝王切開の場合は、次回もほぼすべて予定帝王切開になることもあります。」
「なんか、お産も大変だなあ」
「でも、帝王切開はだいたい30分から1時間で終わります。回復から胎児摘出はほんの数分ですし」
「じゃあ、数時間はかかるふつうの自然分娩よりずっと短いんだ。それも悪くないかな」
「悪くないって、佐藤が分娩するわけじゃないでしょう」
「まあ、そうだけど。学生実習では無かったので、今度帝王切開手術見てみたいなあ。ところで、助川は相変わらず何にでも醤油かけてビタビタだなあ」
「そうですか」
「そうだよ。父親が高血圧なら塩分控えないと将来高血圧間違いないよ」
「高血圧って遺伝と塩分摂取が関係しているとは聞いてはいますが」
「その通り。ダーウィン進化論の典型だね」
「進化論ってどういうことですか?」
「大昔、塩は手に入り難く貴重だったでしょ。なので、少ない塩分摂取でも血圧が十分高く保てるヒトが適者生存で生き延び、そうでないヒトは血圧が低すぎて自然淘汰されたんだ、っていう説。塩分節約説とも言うよ」
「なるほどね。でも、それがどうして高血圧と関係しているんですか?」
「つまり、少ない塩分で血圧がそこそこ上がる遺伝子を持ったヒトが多く残ったんだけど、近世になると塩が手に入りやすくなり、調味料として塩がたくさん使われるようになったため、その遺伝子を持つ人が必要量以上の塩分を摂取して過剰な塩分が血圧を高めたというわけ」
「なるほど、遺伝子と塩分摂取の相互作用ですね」
「助川にはその両方があるから、将来高血圧間違いなしというわけ」
「困ったなあ」
「だから醤油ビタビタはやめないと」
「そうは言われても、子どものころからの長年の食習慣だからなかなか難しいですね。それはそうと、今度帝王切開施術の機会があったら連絡しますね」
「是非よろしく。ところで、助川、今日も首を右に傾けてるけど、一人で考え事をしているわけでもないのに、どうしたの?」
「あっ、悪い、もう行かないと。ごめん、お先に失礼します。」
第五節 「割腹出胎児術」
泰三は、これまでには見たことのない館にいる自分を発見した。多くの書物が整然と積み重ねられており、書斎のようだった。
廊下と座敷を隔てている障子に向って大きな茶色の座卓があり、その左隅には行灯が燈っている。少し前まで人が座って机に向かっていたような雰囲気が漂うが、人影は見えない。
積み重なっている書物を手に取ってみる。ポンぺ内科書というオランダ語と思しき本があり、最後にポンぺのサインがある。ポンぺから譲り受けたものであろうか。「外科書」、「小児全書」という訳本もあり、「和田文庫」の蔵書印がある。他にも講義本として使用しているらしい翻訳書が数冊見られたが、泰三は胎児の子宮内での体位と、鉗子分娩の図の模写のある本に目を引かれた。オランダの産科書からの墨による詳細な模写で、泰三は思わず自身でも産科で真似てみたい衝動にかられた。
卓上に目をやると、達筆で「順天堂経験」と書かれた表紙の分厚い書物が目に入った。あまりに立派な表紙で罪悪感を覚えたが、好奇心には勝てず表紙を捲ると関寛斎という記名があった。以前順天堂大学の佐倉順天堂資料室のガラスケース内に展示されているのを見たことのある佐藤泰然の弟子が残した「順天堂経験」そのものに違いないと確信したが、大変貴重な書物に今自ら直接手を触れているという怖れから、思わずページを閉じて書物から手を離した。しばらくじっと表紙を眺めていたが、ひょっとすると、割腹出胎児術例の詳細が書かれているかもしれないと脳裏に閃いた。それと同時に、泰三の手は衝動的に書物のページを捲り始めた。
達筆の字は読みにくく、素早く文意を掴むことは難しかったが、目は「療治定」にあった「割腹出胎児術」をひたすら追い求めた。やっと書物の中程にその字を見つけた泰三は、食い入るように字を追った。
「嘉永五年四月二十三日、秩父郡農夫常七妻三十三歳産室に入り、二十四日午後に至り未だ分娩せず。胎児頭大にして、左方の手足と臍帯と共に産門に臨む。岡部子、翻(車専)術を以って之を動するに、堅牢確乎として抜くべからず。尚一二他術を施すといえども寸効なし、遂に余を招く」
どうやら同業医岡部子の分娩介助がうまくいかず関寛斎に診察と処置の要請があったようだ。泰三は急いで読み進めた。
「二十五日辰の下刻病家に到る。岡部子に相会して之を診するに其言の如し。胎児既に腹中に死せり、共に議して脳骨を砕き交交手術を施し尚未だ分娩せず、午後に至り術究し病婦亦疲る、親族を会し諭して曰く、我輩此の如く心力を盡すと雖も分娩せず、恐らくは命旦夕にあり、若し時を移し胎児を寸断して之を出さば即ち生或は得べかんか、然れども婦既に疲労斯くの如し、能く之を行ふに堪うべきや、宜しく子宮を開截して之を出すの徢徑術を行うべし。是れ即ち西医の経験する所なり。空しく手を束ねを以て其死を待たんよりは寧ろ此の術を行うを以て僥倖の死を免れんには如かず、衆議一決して其術を施さんことを乞う」
胎児はすでに死亡、このままでは妊婦の生命も危ういので西洋医学の帝王切開やむなしと判断したようだ。泰三は急いで先へと目を走らせた。
「刀を執り左方の臍傍を縦截すること五寸余、諸膜断して子宮を開くこと三寸、胎児胞衣と共に悉く之れを出し、子宮の汚物を除き、腹皮を縫合し、繃帯を以て之を維持す、僅かに半時にして事全て終われり。纈草剤を段し散夫藍浸を與え、患者を安静にして退く」
帝王切開は無事予定通り進み、産婦の命は救われたと知り、泰三はほっとするとともに感心した。
「其夜岡部子方に宿し翌二十六日之れを診するに、脈沈静にして力なく神気漸く穏やかなるを覚ふ、唯飲食を思わず、心下苦悶大便不利の候あり、由て水銃を施し、処方を調し、岡部子に託して黄昏家に帰る」
術後は脈を観察して必要な処置を施し一日ほど患者の経過を診ているが、佐倉順天堂には現代では必須の血圧計はなかったらしい、それに水銃とはまさか水鉄砲ではないし、チューブで胃に水を流し込み排便を促したのだろうかと泰三は推し測った。手術後の記録に岡部子医師に関する敬意と帝王切開への感慨と決意があった。
「抑も岡部氏は變世医を業とし且つ産科を以て近隣に名あり、余も之に刻苦すること三十年、未だ此の如き難産を見ざるなり。窮まりて之れを救ふの術なき慙死と思えども、幸い西医の試むる所の奇術を以て之れを救うこと得たり。西洋の医、難産に臨み此の術を施し母児両全を得せしむなり、余死胎に臨み之れを施す。未だ全救を見ずと雖も既に死地を脱することを得たり。嗚呼實に西医の賜なり。自今の若し此の如き難産に遇ひて母子両全を得むことを欲せば、速やかに此の術を施すに如かず」
岡部氏は産科医として近隣では有名らしかったが、余りの難産に寛斎に助っ人を依頼したのだった。その寛斎もこれまで30年間に経験したことのない母子の命を救えないと思うほどの難産ではあったが、西洋のお腹を割いて母児双方の命を救う術を、児はすでに死亡している産婦に施し、何とか産婦の命を救うことができた。西洋のこの帝王切開の素晴らしさに目を開かされ、今後は難産で死に瀕した母子共に救うために施すことを誓うほどその感激に酔い痴れたようだ。
泰三は、朝食時に産科研修医の助川から聞いた現代の帝王切開とのあまりの違いに、読み終えた記録を頭に焼き付けた。
第六節 産科麻酔
「おはよう、佐藤。今日も眠そうな顔していますね」
「ああ、また当直で明け方に起こされた」
「大変ですね」
「産科だって夜中や明け方に緊急手術となることはあるでしょ」
「そうですね。他の科よりはずっと多いですね」
「ああ、そうそう。この前の帝王切開の話の続きなんだけど、産科麻酔はどうするの?」
「場合によりけりですね。無痛分娩か、予定帝王切開か、緊急帝王切開かによって違いますよ」
「無痛分娩か。どうして麻酔してまで無痛分娩を選ぶんだろうね。確か陣痛って医学用語では子宮収縮のことで、英語でもContractionsで、痛みを意味する言葉ではないよね」
「英語でも一般用語ではLabor painsとも言いますけど、確かに医者から見れば痛みのことではなくて子宮収縮ことですね。でも、妊婦にしてみれば痛いから陣痛は痛みと解釈して無痛分娩を選ぶのでしょうね」
「産科医はあまり無痛分娩を勧めないけど、妊婦が希望するというわけね」
「そうですね。麻酔の影響で陣痛も弱まり分娩時間が長くなるし、そのため陣痛促進剤を使用したり、場合によっては吸引分娩や鉗子分娩になることもあるし、麻酔の手間もかかりますよね」
「じゃあ、理由としては、妊婦の要望に応えなくてはという、医師患者関係の面が大きいわけね」
「そうでしょうね。妊婦側の理由としては、痛みを避けたいが大部分で、痛みが無いか軽ければ体力の消耗は少なくて、産後の回復が早いというのもあります」
「じゃあ、全身麻酔による無痛分娩はないわけね」
「そうですね。無痛分娩では腰椎に針を刺して、脊髄のあるくも膜下腔かその外の硬膜外腔に麻酔薬を注入して脊髄の神経を麻痺させる局所麻酔ですね。近年は後者の硬膜外麻酔が多いです」
「腹部以下の神経が麻痺するだけだから、産婦さんの意識はあるし、生まれた赤ちゃんの泣き声も聞けて手で触れることもできるよね。だとしたら、どんな場合に全身麻酔になるの?」
「緊急帝王切開の場合ですね。大量出血があったり、胎児の状態が急変して分娩を急ぐ必要のある場合は、麻酔の効果が速く出る全身麻酔をしますね。予定帝王切開では通常局所麻酔ですけれど、妊婦に血液凝固障害があって腰椎穿刺の出血が止まりにくいとか、その部位や全身に感染あって広げてします恐れがあるとか、心臓病などの基礎疾患があり全身管理が必要な場合などでは予定帝王切開でも全身麻酔になります」
「全身麻酔だと、赤ちゃんが生まれた瞬間も分からないし、その後もしばらく意識はないよね。赤ちゃんには麻酔がかからないのかなあ」
「吸入や点滴の麻酔薬が胎児にも回るけど、急いで取り出せば深い麻酔はかからないから赤ちゃんはすぐに泣きますね。時に麻酔が効いてしばらく呼吸が弱くややぐったりしているスリーピングベイビーにもなりますけど」
「それはヤバいね」
「いや、程度によるけど、赤ちゃんの呼吸管理で数分で元に戻るし、産婦もふつう数分で意識は戻りますよ」
「ところで、全く麻酔なしで帝王切開することあるの?」
「どうしてそんなこと聞くのですか。ありませんよ」
「いや、江戸時代ならあるかなと思って」
「全身麻酔が可能になる前ならみなそうでしたでしょうけど、日本では江戸末期に花岡青洲が全身麻酔薬を開発したから、それ以降なら帝王切開も全身麻酔をしたでしょうね」
「いや、それ以降でも麻酔なしで帝王切開が行われていたみたいですよ。確か、『通仙散』と呼ばれるチョウセンアサガオ、トリカブト、その他の生薬を混合生成した麻酔薬を開発して、花岡青洲がこれで全身麻酔をかけて乳癌の手術に成功したのは西暦1804年の文化元年だったよね」
「そうですね。欧州のエーテルによる全身麻酔例より40年も前で、世界初でしょうね」
「我らが母校とも言うべき佐倉順天堂ができたのもこの40年後のことだよね」
「そうですけれど、それとどんな関係があるのですか?」
「いや、佐倉順天堂でも全身麻酔をして帝王切開をしていたのかなと思って」
「花岡青洲の全身麻酔が佐倉順天堂ができる40年前だとしたら、佐倉順天堂の医師もそれを知っているはずですよね」
「そのはず」
「そうだとしたら、帝王切開でも全身麻酔をしていたでしょうね。麻酔なしに帝王切開でお腹と子宮を割く時の痛みといったら、陣痛とは比べものにならないですよ」
「俺もそう思うから産科研修医の助川に聞いたんだけど」
「麻酔なしに帝王切開するなんて想像もつきません」
「そうだよね。でも助川にも分からないことがあるんだ。ところで、今日は醤油ビタビタではないね」
「佐藤からこの前話を聞いて、塩分摂取量を少しでも減らそう思って」
「厚生労働省は、高血圧の人は一日の塩分摂取量を6g以下にするよう勧告してるね。日本人の平均は約9gだけど、日本食で6g以下はかなり難しいね。WHOは4g以下を推奨しているけど」
「うわー、どうすればいいんだろう」
「今度教えてあげるよ」
「帝王切開手術見学のお礼、それでお願いしますね」
「ところで、助川、今日も首を右に傾けてるけど、どうしたの」
「あっ、いや、今日はもう行かないといけないので、今度お話します」
第七節 割腹出胎児術見参
泰三は、今やすっかり慣れ親しんだ佐倉順天堂へ向かって今日は何が見られるのかとわくわくしながら歩を進めた。その大きな建物が目に入ったところで、数人の男がそれぞれ大きな荷物を背に建物から出てくる姿が目に飛び込んできた。これまで何度も見たことのある着衣からどうやら佐倉順天堂の医者らしいと分かったが、足にはわらじ、外套を羽織っており、旅路を急いでいるようでもあった。泰三は佐倉順天堂へ向かう踝を返し、その男たちの後を追った。
夜を徹して丸一日歩き、朝方になって江戸の北西、秩父の山々を望む地に着いた時には泰三は疲れ果てていた。6人の医者たちは疲れを物ともせず、辰の刻に大きな一軒家へと入っていった。部屋がいくつかあり、医療器具が並んでいて、どうも診療所らしかった。
「関寛斎殿、使いによる急な願い出にも拘わらず遠路ご足労いただき、誠にかたじけない」
ベッドに女性が横たわる大きな部屋から、こちらも医者と思しき姿をした中年を過ぎた男が、6人の医者の一行の一人に声をかけ、礼を述べた。
泰三は関寛斎という名を耳にし、かつて佐倉順天堂で目にした関寛斎の肖像画を脳裏に浮かべた。
「岡部子殿、礼には及ばん。貴殿のお役に立てるのであれば本懐にして、妊婦を救えるのでれば、医者としての冥利に尽きる。して患者はいかがなものか」
医者の名は岡部子と言うらしい。その二人の応答と態度から、この地方の名医に違いないと泰三は推し測った。
「おととい、陣痛があり、33になるおかあが、こちらに運ばれて来た。けんど、まる一日経ったきのふの昼過ぎになるも、生まれてこなんだ」
「三人目の子にしては、お産が長過ぎるのう」
「さようでござる。左右の手足と臍帯が産門に見えるが、頭も大きく、なかなかお産が進まんのじゃ。あれこれ手を変えわしの術の限りを尽くして引っ張り出そうとしたが、いずれもうまく行かんかった」
「どれどれ、拝見いたそう」
「よろしうお頼み申す」
寛斎は、ベッドに苦悶の表情を浮かべ大きく脚を開いて仰向けに横たわる妊婦の足元から、産道を注意深く見つめた。
「臍帯が脱出しておる。産道で圧迫されて血流が途絶えておるようじゃ」
脱出した臍帯を握りながら寛斎はそう呟いた。
「胎児の足が外へ娩出しているが、全く動いていないのう」
そう言いながら、胎児の両脚を両手で強く握り引っ張り出そうとしたが叶わず、右手を産道に差し込み胎児の口へ人差し指と中指を挿入して頭を引っ張り出そうとしばらく試みた。
「頭が恥骨の間に引っかかって娩出は叶わん」
寛斎は独り言のようにそう呟くと、妊婦の大きく膨らんだ下腹部へ耳を当てた。
「胎児の心音が全く聞こえん。すでに命が絶えておるようじゃ」
「さようでごじゃるか。いかが致そうぞ」
諦めた表情を浮かべた岡部氏が納得したように尋ねた。
「とにかく、早く胎児を出さねばならぬ。頭の骨を砕いて引っ張り出すのみぞ」
「では、さよう致そう」
そう言うと、岡部氏は大きなハサミのような器具を別室から運んできた。
「では、始めようぞ」
寛斎はそう言い、足と臍帯の間から器具を産道に差し込み、胎児の頭骨を砕き始めた。
「足と臍帯が邪魔をしておる。下顎と鼻は砕けたが、肝心の頭はままならん」
2時間ほど手を盡したが、頭骨を細かく砕くことは叶わず、寛斎に諦めの表情が浮かんできた。横たわる女は苦悶の表情で痛みを耐え忍んでいたが、今や息も絶え絶え、今にも気絶しそうであった。
「これ以上続けるわけにもいかん。別の手を打たねば」
「別の手とは?」
「西洋から伝わった徢徑術じゃ」
「と、申すと?」
「子宮を開截して、胎児を取り出す術じゃ。西洋では胎児が死すれば、妊婦の命を救うために行っておる」
「さようであるか。わしには初めて耳にする術、貴殿にお願いしたい」
「では、親族を呼んでいただきたい。その説明と許諾を得ねばならぬ」
岡部氏は別室に控えていた夫とその両親、妊婦の親兄弟を呼び入れた。
「お初にお目にかかる。拙者は関寛斎と申す」
「うちのかみ様がお世話になります。よろしうお頼み申します」
「あれこれ手を尽くしたが、生まれて来ん。先ほど診たところ児はすでに死亡しておる。このままではお内儀の命も危ない」
「うちのかみ様の命だけでもなんとかならぬものか、お頼み申します」
「お内儀の命を助ける唯一の方法がある。西洋では広く行われている、お腹を割いて胎児を取り出す術じゃ」
「お腹を割くなんて! なんと恐ろしく危うきな、くわばら、くわばら」
「されど、九死に一生を得る唯一の残された方法じゃ。これから拙者が行うがよろしいな」
「お腹を割く前に、痛み止めの麻薬は使うてくださるのでしょうな」
「麻薬を使うての麻酔はせん。世に聞く全身麻酔は生命の危険が大き過ぎる」
「寛斎殿、全身麻酔とは花岡青洲の開発した麻薬による麻酔術のことかのう」
「そうじゃ。岡部氏師はいかがお考えで」
「寛斎殿がそう申されるのなら、拙者もそうするのがよいかと。お内儀には聞かんがよいな?」
「お二方がそう思われてるのであれば、その術をお願い申しあげる」
「では、早速取り掛かることにしようぞ」
そう寛斎が言うと、家族を部屋の外に退避させ、一緒に連れてきた5人の医者をベッドに呼び寄せた。
衆議一決したこのやり取りを聞いていた泰三は、この時代の佐倉順天堂では、家族への説明と同意を得る、今でいうインフォームド・コンセントが行われていたことに驚きを覚えた。
「さればこれより始むるぞ」
そう寛斎はベッドを取り囲む弟子たちに声をかけた。
「あい、承知いたした」
弟子たちはそう声を合わせたが、その声は緊張に震えているのが分かった。テーブルの脇には、手術道具と思われる様々な器具が並べられていたが、その声を機に寛斎はメスを右手に取り、患者の腹部に先端を差し込んだ。石鹸の匂いがしたので腹部はあらかじめ洗浄してあったようだが、研修で経験した手術室に漂う消毒薬の匂いは全くしない。アルコールなどの消毒薬も全く使っていないようだ。
「ひしーと抑へよ!」
メスの先端が臍の下に差し込まれ、下腹部に向かって縦に動いた瞬間、妊婦は大きな叫び声を上げた。テーブルを囲んで両脇と足元に立つ屈強な5人の男は、叫び声をあげて横たわる女の脚、腕、胸を一層力を込めて押さえつける。泰三は周辺の空気を引き裂くような叫び声に、これまでの傍観者から術者の立場に意識が変わった。
麻酔は全くしていないのか。僕なら全身麻酔か局所麻酔くらいはしないと手術なんかできないのに。いや帝王切開での麻酔そのものがまだないのかもしれない。泰三は目の前で腹が割かれるのを目の当たりにしながら心の中でそう呟いた。
「腹を開くが、止血をしっかりせよ」
寛斎が前に立つ手術助手に叱咤する。緊張している助手は、それに応えるように切断されて出血している血管を鉗子のような器具を用いて挟み止血に余念がない。
恥骨まで左右に大きく開かれた腹部から、バルーンのように丸く大きく膨らんだ赤茶色の薄い子宮壁が泰三の目に入る。すかさず寛斎が助手に声をかける。
「子宮を開くぞ」
そう声をかけ子宮の中央にメスを入れ、切れ目から覗いた児の頭を間髪を入れずにしっかり両手で掴み、素早く児を子宮から引っ張り出した。胸、腹、片足に続いて、もう一方の脚と胎児の臍に連なる臍帯が取り出された。
取り出された赤ちゃんは体が弛緩してぐったりとしている。泣き声は聞こえない。呼吸もしていないようだが、足裏を叩いて呼吸を促したり、口から空気を吹き込む蘇生を施す気配もない。思わず手を出しそうになった泰三だが、胎児が死亡したからの帝王切開術なのでそうかと納得した。
通常なら臍帯を臍の近くで裁断するはずだが、寛斎はそうすることもなく、そのまま子宮壁に張り付いている胎盤を剥がして取り出し、お盆のような大きな器に移した。
時に大きな叫び声を上げ、ひたすら痛みに耐え、ベッドの上で手足体を押さえつけられてていた産婦は、生まれた赤ちゃんを見せてくれるよう言葉を発することもなかったことに泰三は釈然としなかった。
「赤ちゃんは救えなんだが、お内儀の命はなんとかとりとめた」
夫と親族の待つ部屋に入って来るなり、寛斎はそう告げた。無事にやり遂げたという安堵の表情はあったが、誇らしげに満足しているという片鱗は見せなかった。
腹部を割いて胎児と胎盤と付属物を取り出す帝王切開、児が死亡していたとはいえ、現代と同じく1時間もかからず意外と短い時間で終わるものだと、一部始終を目の当たりにした泰三は感心した。
現代の外科医が手術を終えた夜、予期せぬ事態へ対処するためそのまま病院へ一夜泊まるのと同じく、寛斎も翌日産婦の容態を診察、意識、食欲、呼吸や脈、便通を確認し、排便を促す処置と処方を終え夕刻になってから帰途についたことに、泰三は外科医の哲学がかなり前から脈々と流れているのだと感心した。
泰三は耳元の大きな電話の音に目を覚ました。あっ、夢だったのか。でも、以前どこかで見聞きしたことのある光景だったような気がした。
第八節 関寛斎
「関寛斎という名前知ってる?」
泰三は、朝の食堂で助川に聞いた。
「聞いたことはあります。司馬遼太郎の『胡蝶の夢』という小説に出てくる医者ですよね」
「そう、佐倉順天堂創設者の佐藤泰然の高弟の一人。医術だけでなく、『医は仁術』という倫理思想も教えられて、それを忠実に実践した」
「『医は仁術』って順天堂大学医学部の学是、スローガンでもありますよね」
「そうだね。佐倉順天堂の名残とも言えるね。で、この関寛斎、記録魔だったの」
「記録魔?」
「そう、何でも記録しまっくたんだ。毎日日記を付け、佐倉順天堂での座学や手術例、その後の長崎留学での講義録の編集と管理も。今でも「長崎在学日記」、「朋百(ポンぺ)氏治療記事」、「ポンぺ講義筆記」として残っているそうだよ」
「西洋医学の生き証人と言えますね」
「医学だけじゃないんだ。『長崎日記』には、留学を終えての送別会での西洋料理のフルコースメニューの15品目について、それらの食材だけでなく、調理法まで細かく記録してある」
「うわー、私だったら記録することに気をとられて、おいしい料理を味わう余裕と時間もないかも知れません。きっと記憶力も抜群だったのでしょうね」
「実践の記録と言えば、傷病兵の治療記録もすごいよ」
「佐倉藩って、傷病兵が出るほどの戦をしたことありました?」
「いや、明治新政府と旧幕府軍が戦った戊辰戦争の傷病兵」
「佐倉藩は、どちらにも属してないですよね」
「そこがよかったのか、西洋医学特に外科に習熟していたからか、はたまた『医は仁』からか、上野や奥州での数藩複雑に入り乱れての戦での野戦病院設置と治療を官軍の大村藩士から依頼されて、門人とともに赴いて、それこそ敵味方なく治療した」
「まるで、ナイチンゲールですね」
「あれ、助川知らないの。ナイチンゲールが敵味方なく治療したというのはでっち上げだよ。むしろ、彼女は国際赤十字を設立したスイスのアンリ・デュナンが主張した敵味方ない治療に否定的だったんだ」
「そうだったのですか。全く知りませんでした」
「助川も明治時代からのでっち上げ満載の修身教育の犠牲者だね。野口英世の話も肝腎なところはでっち上げばかり。野口英世と言えば黄熱病だけど、それに関する業績は全くゼロだし」
「私も野口英世の活動に感銘受けて、中学生のころ、将来は医者になってもいいかなと思ったことはありましたけど」
「だから、修身教育はもう無かったろうけど、助川は修身教育のおこぼれの犠牲者だって。そうそう、関寛斎の話だったっけ」
「傷病兵の敵味方ない治療です」
「野戦病院設置の依頼は官軍からだったけど、その治療記録を見ると、新政府軍兵士だけでなく、旧幕府軍の兵士も同列に藩名、氏名、傷病内容、治療内容、生死含む予後などが詳細に記されているんだ」
「すごいですね。私も読んでみたいですね。どこで読めるのですか」
「そのうち、教えてあげる。その代わり、今日はこの前約束した塩分一日6g以下にする秘訣ね」
「そうでした」
「味噌汁は一日1杯まで。しょっぱい漬物は控える。醤油は助川のするように掛けないで、付ける。あるいはスプレーを使う」
「なるほど、スプレーで吹きかけるのですね」
「ラーメンやソバ、うどんの汁を飲み干すのは以ての外。ソーセージ、ハムなどの塩蔵品はほどほどに。味付けはお酢などを利用する」
「しょっぱいものを控えるのですね」
「いや、それだけではだめ。しょっぱくないものにも結構塩分は入ってるよ。厚い食パンには塩分は1~2g入っているし、蒲鉾にも結構入ってる」
「しょっぱいものだけ避けるだけではだめなのですね。難しいなあ」
「今度、ネットで普段取る食品中の塩分量調べなよ。大きな居酒屋ではメニューにカロリーでだけでなく塩分量も書いてあるし」
「佐藤ありがとう。そうします」。
「是非。ところで、この前今度話してくれると言った、首がいつも右へ傾いている理由って
何?」
「あっ、それ実は帝王切開と関係があるのですよ」
「助川は帝王切開で生まれたの?」
「いいえ、帝王切開ではなく逆子だったのです。今なら逆子は予定帝王切開になりますけど、私が生まれたころは、まだ自然分娩にしていました」
「逆子が自然分娩になると、将来首が曲がるの?」
「そういうこともよくありました」
「どうして?」
「あっ、今日はもう行かないといけないので、それはまた今度にします」
第九節 「麻酔」
泰三は再び「順天堂経験」に向き合っている。
前後に行きつ戻りつ何度も読み返しながら割腹出胎児術を読み終えると、今度は麻酔に関する記載がないかを探すこととにした。花岡青洲が開発した全身麻酔は、当時麻酔ではなく麻薬を用いるとされていたので、「麻薬」という字を探し求めた。あった。寛斎が症例として記した「膀胱穿刺術」の記載中にまさに「麻薬」という字を見つける。
「余始めて此手術に臨む。予て思惟せし如く苦痛出血共に意外に軽微なるを熟見して、花岡者流の大毒性なる麻薬を用ふるの愚をさとる。」 続けて「術終わるの後三時間安眠し覚めて飯を喫すること常に異ならず」とある。
「余始めて」とあるが、この手術は佐倉順天堂で泰然に師事してから4年目にして単なる手伝い仕事から、その修行が師の泰然に認められて初めて手術助手を務めたものということを意味していると泰三は理解した。「愚をさとる」というのは、なるほど師の言われていた通りで、命の危険を冒してまで花岡流麻薬を施しての全身麻酔手術はすべきではなく、患者のためを思えばこそ患者はその痛みに耐えよ、術者は患者の悲鳴に怯むことなく悠然と行なえという、泰然の教えの正しいことを自らの体験で確認したという感慨を書き残したかったに違いない。泰然は花岡青洲の全身麻酔の評は度々耳にしていたが、死亡者も出たことから、江戸時代の和田塾のころからずっと手術はすべて麻酔をせずに行うよう指導してきていた。
「苦痛意外に軽微なる」とあるが、「膀胱穿刺術」では膀胱を皮膚の上から穿刺してその傷口から尿閉で溜まった尿を流し出す治療なので、穿刺する際の短時間の痛みと、穿刺された傷口から出てくる尿の皮膚への刺激による痛みなので軽微なのだろう。「割腹出胎児術」では大きく腹部の皮膚や皮下組織、筋肉や腹膜に加えて子宮も切り裂くので、軽微であるはずなく相当痛かっただろうと、泰三はその手術の痛みを耐えていた女性を思いやった。
「療治定」では「膀胱穿刺術」が三百疋、「割腹出胎児術」が十両とあったが、手術の困難さ、手術時間、痛みなどをそれなりに反映しているかなとも思ったが、それしても十両は貧しい農民には大変な負担額、あの女性は支払うことができたのだろうかと、一命はとりとめたものの、泰三は同情を禁じ得なかった。
第十節 無麻酔手術
「おはよう、佐藤。今日も髪がクシャクシャで眠そうな顔していますね」
「ああ、また当直で明け方に起こされた」
「相変わらず大変ですね」
「ところで、麻酔なしの帝王切開のことだけど、やはり佐倉順天堂ではそうしていたみたい」
「そうなんですか。信じられませんね」
「なぜ花岡青洲によって開発されていた全身麻酔をしないのか、ようやく分かったんだ」
「えっ、どうして分かったのですか」
「いや、ちょっとあってね。麻酔しない理由を記録してある書物を見つけたんだ」
「医学雑誌に論文でもあったのですか?」
「いや、実物を見たんだ。『順天堂経験』という記録」
「実物? どこで見つけたのですか? 順天堂大学の図書館?」
「いや、図書館に展示されているのは見たことあるけど、その時は表紙だけ。だってガラスケースに入っているし」
「では、どうして麻酔しない理由の記録が読めたのですか?」
「まあ、それはともかく、分かったんだ。そのことはまたいつか話すよ」
「それで、治療は麻酔なしですよね」
「そうそう、麻酔なんだけど、佐倉順天堂では、すべての手術で麻酔はしてなかったんだ」
「日本ではすでに花岡青洲が薬草を用いた全身麻酔で乳癌の手術をしていますよね」
「そう、そのことも十分知っていてね。記録魔の関寛斎の『順天堂経験』の中に、花岡青洲の全身麻酔をしない理由が書かれているのよ」
「そうなんですか。帝王切開でですか?」
「いや、関寛斎が初めて手術助手として膀胱穿刺術を行った手術の記録の中なんだけどね」
「なんて書いてあったのですか?」
「初めて自分はこの手術に臨んだが、予想した通り苦痛や出血は軽微で、花岡青洲流の麻薬を用いた麻酔が愚かな方法であることを実地で確認したとね」
「愚かとは、よくそこまで言いますね」
「花岡青洲の麻薬は大毒性とも決めつけているんだ。開発に十数年かかり、その間多くの患者が死亡したんだ。多分薬草の調合の不具合と麻酔の深さの調整が難しかったんだろうね」
「当時の日本では臨床試験はしてないでしょうね」
「青洲自身、開発後の臨床応用には相当慎重だったらしいよ。全身麻酔で意識を失うと舌が気道を塞いで窒息死する恐れがあるから」
「そうですね。現代の全身麻酔では気道挿管などして呼吸管理が徹底していますよね。でも、結局青洲は麻酔下での乳癌手術を沢山したのでしょう?」
「うん、自身の診療所では143例も行ったと言われてる。それで術後の生存期間が最短8日~最長41年で平均3年半だったから、乳癌手術では麻酔による死亡は少なかったと言えるね。数年での死亡は多分癌を完全に取り切れなかったか、リンパ節や肺や肝臓など他の臓器へ転移しての死亡だろうね」
「それにしても全身麻酔は乳癌手術に偏ってますね」
「麻酔時の管理の難しさもあって、比較的浅い麻酔で済む乳癌に適用したんだね、きっと」
「だったら、佐倉順天堂でも乳癌より軽い手術も多く行われたから、花岡流麻酔をしてもいいと思いますけど」
「それがね、詳しい調合や処方量などは、信頼できる弟子以外には部外秘としていたんだよ」
「それで、広くは普及しなかったから、佐倉順天度でも使えるほど知識はなかったのかもしれませんね」
「まあ、特許や産業秘密というものでもないだろうけど、麻酔下の管理が疎かな診療所でむやみに使用されて死亡者が増えるのは意にそぐわなかっただろうし、評判を落とすのも避けたかったのかも。でも他の手術ではあまり使用されなかった別の理由もあるんだ」
「どんな理由ですか?」
「花岡流麻酔は麻酔が十分効くまでに数時間かかるんだ。だから、戦いによる傷害や緊急手術には不向きだね」
「なるほど。関寛斎の戦地病院での手術や、当時はほとんどが緊急だった帝王切開には向かないわけですね」
「そういうことになるね。だから、佐倉順天堂が麻酔なしの手術をしていたのも責められないね」
「麻酔なしにしても、当時とすれば帝王切開って結構大変な手術ですよね。お金もかかるでしょうね」
「なんか当時の額で十両だったらしい」
「佐藤、よくそんなこと知っていますね」
「あっ、まあちょっとしたことがあってね。鉗子分娩も行っていたけどこちらは二百疋だった」
「『ひき』って初めて聞く貨幣単位ですけど、いくらくらいなんですか?」
「俺もその文字を見つけた時は読みも分からなかったので調べたんだ。1疋が25文、1両が7000文くらいだから、約300疋が1両になるかな。だとすれば、対価としての価値算定は難しいけど、おおざっぱに1両が数千円と仮定すれば、鉗子分娩が数千円、帝王切開が数万円になるね」
「意外と安いですね」
「俺もそう思ったんだけど、どうなんだろうね。この手の推定にはかなり幅をみないといけないだろうから、鉗子分娩が1万円、帝王切開が10万円になるのかなあ」
「そうだとすれば、どちらも今の数分の1くらいですね。それでも安いですよね」
「とは言っても、当時は貧富の差もあって、現金のない貧しい農民が大半だろうしね。大変ではあるよ」
「でも、いくら安くても麻酔なしの帝王切開なんてやりたくないですね。将来、結婚相手が逆子で帝王切開となるにしても私の方からお断りですね。そうそう佐藤にご報告です。食品中の塩分量調べてみました。でも、一日6g以下は私には無理ですね。将来の高血圧は確定ですかね」
「まあ、そう弱気になるなよ。助川らしくもない。ところで、逆子なのに帝王切開でなかったから今でも首が右に傾いている理由ってなに?」
「普通の頭が下の頭位分娩だと、胎児の中で径が一番大きい頭が産道を大きく押し開いてお産を進みやすくしています。大きく押し広げられた産道内を体躯やお尻、足はやすやすと進めるようになります」
「そうだよね。逆子の足が先頭の足位やお尻が先頭の殿位分娩だと産道は大きく広がらないから、最後の頭は進みにくいよね。なので、分娩が進みにくい難産になりやすい」
「そうです。ですから帝王切開が必要になります」
「でも、足位や殿位分娩だと、なんで、生まれてから首が曲がったままになるんだろう」
「あっ、今日ももう行かないと。それは今度またお話します」
第十一節 佐倉順天堂門人
泰三は、大きな女の叫び声のする部屋の方へと急いだ。扉の中へ入ると、石鹸の匂いが鼻を突き、ベッドの上に女性が横たわり、6人の男が取り囲んでいる光景が目に入ってきた。ベッドの横の机の上には医療器具が整然と並べられており、手術をしているようだ。男たちの背中越しに見える女性の腹部は大きく膨らんでおり、前に一度目にした帝王切開が始まるところのようだ。
「なしてできねえ、ほんでね! こうだ」
産婦の左腕を抑えている一人が、右腕を抑えている若い男を叱咤した。岩手弁のようだ。
「はしと行くがよ」
若い男がそう答える。こちらは鹿児島弁だ。
「しゃーね、しょうしいのー」
そう言うと、左脚を抑えていた男が、右腕を抑えに回った。今度は新潟弁だ。
「おめーら、おっぱらかすな」
上州弁で、右足を抑えていた男が戒めるように言い放つ。
「おいよー」
執刀者の前に立っている手術助手が、紀州弁で産婦を抑えている4人を執り成した。
「しかと抑えよ。いざ、始めようぞ」
地方なまりのない執刀者はそう言うと、メスを腹部に当てた。以前見たことのある佐藤泰然だ。
そうだ、以前見た麻酔なしの帝王切開が行われようとしているのだと、泰三は確信した。胎児は生きているのだろうかと気にはなったが、以前一度観た手術だったので、泰三は歩を先の部屋へと進めた。なぜ、男たちはそれぞれが、それぞれ方言を話すのかを知りたい欲望が勝っていた。
泰三は、手術器具などが並べれている部屋を通り越し、オランダ語や日本語の医学書を陳列してある部屋の先、資料が積まれている室へと歩を進めた。
資料室に入ると、書状、日記や日誌、証文、奥州出張記録、肖像画などさまざまなものが目に入ったが、泰三の目は人名が記されているものを追っていた。
すると、あった。表紙に「順天塾姓名録」とあり、中を開くと、上に出身藩名、その下に漢字姓名が達筆でびっしりと横に列記されている。泰三がひとりずつ数えてみると、なんと89名。下総佐倉藩が7名と最も多く、越前福井藩が4名、2名の藩が9あり、他はすべて1名である。北は北海道松前から南は鹿児島まで、日本全国ほぼすべての地方、藩から参集している。泰三に馴染みのある藩名もあった。奥州会津藩、越後長岡藩、上州舘林藩、肥前佐賀藩、肥後熊本藩、紀州熊野藩、丹後田辺藩、伊予松前藩、いずれも今のどの地方かが容易に分かる。
泰三は、藩名を脇にあった日本地図で自分なりに照合してみた。すると、県名の判明したものが34県、見当たらないのは今の青森県、秋田県、富山県、石川県、奈良県、徳島県、山口県、鳥取県、徳島県、高知県、福岡県、長崎県、大分県、沖縄県のみ。長崎県から1名も来ていないのは何となく納得がいくようでもある。
交通や情報が今ほど普及していない江戸時代、これほど全国から医学を学びに参集していたことに、泰三は改めて佐倉順天堂の偉大さ敬意を覚えた。今の日本の医学部には、これほど日本全国から学生が入学している大学はないはずだ。まさに「佐倉の華」と言える。
意外ではなかったが、女性の名前と思しき氏名が全く見当たらないことに、今更ながら時代の差を感じた。泰三の同級生の約半数は女子学生であった。シーボルトの娘イネが日本人女性初めての産科医となったが、ハーフではあり純粋の日本人ではなかった。医師国家試験に合格した最初の女医は明治18年の荻野吟子であったが、女性であるがためという理由で開業もままならず、その人生は
艱難の連続であった。その後、何人かの女医は誕生したものの、女性の医学部への進学者が増えたのはこの2、30年で、それまでは合格に性差別がまかり通っていた。
日本は随分理不尽だったのだなと半ば女性への同情を覚えながら横の資料に目を向けると、「門人名簿」というのがあった。表紙を捲ると、階級と氏名が載っていた。筆頭には「塾監」として2名の氏名、次いで「第一級」に2名、以下「第二級」7名、「第三級」18名、「第四級」7名、そして「無級」4名、「翻訳生」1名とある。研修医師の位で、最後は原書を翻訳する塾生だろう。現代の大学病院なら教授、助教授、講師、医局員、研修生、学生といったところだろうか。そうか、自分は「第四級」か、先は長いなと目は遠くを見た。
泰三は、この「門人名簿」と先の「塾生名簿」の氏名を照合してみた。すると「門人名簿」40名のうち、9割近くは「順天塾姓名録」にも載っていた。逆に言えば、「塾生名簿」の6割近くの人は「門人名簿」には載っていなかった。
この違いはどこにあるのだろうと読み進めると、「門人名簿」の最後には、なんと、この階級を定める基準が記されていた。「塾法は治療をよくなさんとて原書を読むことなれば」とあり、主にオランダ語の医学書を読めることが重要なようだが、次いで「原書の力のみにて等級を定むへからす」とある。さらに「療術たくみなる時は恥さらまし」とあり、医術の技量も考慮することも強調されていて、さらに「原書によりてそのみちを探らさる時は妙処にはいたりかたかるへくなん覚えぬ」とある。原書を読んで最新の医学情報を得、医学の技量の精進が必要なのは現代と全く変わらないのだなと泰三は半ば納得した。とすれば、「門人名簿」にない塾生は道半ばということだろうか。
ところで、全国から馳せ参じている塾生、それにかかる費用はどうなっているのか、高額な学費がかかる私立医科大学卒業の泰三は気になった。資料を探してみると、あった。塾生は全寮制で、食事含む宿舎代と学費合わせて年六両である。中間(ちゅうげん)と呼ばれる武家の中間クラスの奉公人の給金が年三両~五両だから、1~2年間の年収に相当する。今の国立大学の学費は年間百数十万、加えて食事、アパート、生活費が百数十万だから年約300万円、これが私立大学だと学費が年300万円~600万円で普通の家庭の1~2年の年収に相当するお金がかかる。奇しくも佐倉順天堂の生活費含む学費は私立大学医学部と同額レベルなのに妙に納得がいった。
泰三の学費は全額親が負担してくれたが、順天堂の塾生はどうだったのだろう。塾生は藩医やその子孫、あるいは将来を嘱望された藩士が多く、藩が負担し派遣された塾生が多かったと推測されるが、関寛斎の場合は藩からの援助はなく、実家と養家が半々を負担したようだ。勉学に人一倍熱心だったのは、このことにもよるのかもしれないと、奨学金ももらっていなかった泰三は自らを複雑な思いで振り返った。
時代を超えて、医者として原書を読みかつ技量を磨くことは大切だが、加えて現代ではインフォームド・コンセントを含む患者とその家族とのコミュニケーションも極めて重要となっており、その辺はどうだったのだろうかと、泰三は改めてこれまで見たことに思いを巡らした。
ここではたと我に返り、泰三は元の部屋の方へと急いだ。産婦の脚や腕を抑えていた男たちはベッドから離れており、ベッドに横たわる女性のうめき声は消えていた。その女性の傍らには、赤ちゃんが布にくるまれて大きな声で泣き叫んでいた。
第十二節 インフォームド・コンセント
「おはよう、助川」
「佐藤、おはよう。この前言ってた、佐倉順天堂から見習えることってなんですか」
「ああ、そうそう。佐倉順天堂では手術承諾書を取っていたんだ」
「そんな時代から施術承諾書があったのですね。どんな内容だったのですか?」
「うん。手術を受ける本人だけでなく、家族、親類も連盟で署名していてね、その前に患者の住所と署名年月日があって、最後に執刀医の宛名、この場合は関寛斎とあるよ」
「今の承諾書は、インフォームド・コンセント、説明と合意ですけど、どんな手術を行うのかも事前に説明していたのですか?」
「症状や病態と受診経緯、そして手術をお願いする理由は詳細に書かれているけど、手術そのものの内容は書かれていないし、その説明を受けたとも書かれてはいないよ。署名の前に口頭で説明したかは定かでないけど」
「手術内容は素人である患者には専門的で書けないからか、そこまで説明する必要がないと考えていたのかも」
「その辺は、今とは違うかもしれませんね。今では、代替療法含む手術が必要な理由や手術方法、成功率や死亡率、後遺症の内容や頻度など詳細な説明と患者からの質問への回答など多岐に渡りますから」
「でも、手術同意書とも言うけど今の手術承諾書にはその説明内容などは記載されていないね。ただ、面白い記載があった」
「どんな記載ですか?」
「万が一手術が失敗して死亡したとしても恨んだり,責めたりしないとあった」
「その時代なら、そういう承諾は取っていておかしくはないですね。ただ、当時、今のような医療裁判があったかはどうかは分かりませんけれど。これに関しては、佐倉順天堂から見習うべきものではないですね」
「いや、見習ったかどうかは分からないが、少し前までの手術承諾書には似たようなものがあったよ。『いかなる結果についても一切異議申し立てをしない』という文言」
「ええっ、そんな承諾書があったのですか。信じられない!」
「まあ、今そういう承諾書を取っている病院はまずないだろうけど」
「そういう承諾って全く意味ないですよね。患者側が訴える民事裁判になれば、そういう承諾があるからといって、免責されるということにはならないでしょう」
「ならないね。医療側に過失があれば、そういう承諾の有無にかかわらず裁判所は患者側の訴えを認めるだろうから」
「なんか、そういう承諾を得ていたことを知って、佐倉順天堂に心酔する気が失せそうな気になってしまいますね」
「いや、いや、新しい医療技術や手技が開発された時には、それが確立する過程で多くの患者がこれまでにも死亡したから、そういう承諾を取るのもやむを得ないかもよ。」
「多分、佐倉順天堂でも治療や手術で多くの患者が死亡したのでしょうね。そういう視点からの記録は残っているのかな」
「いや、俺が見聞きして知る限りでは、そういう記録はないね」
「いつ、どこで、どうやって見聞きしたのですか?」
「あっ、いや、そんな気がするだけだけど。それより、さっきから醤油スプレー使ってるじゃん」
「いつも食事の時に持ち歩くことにしたんです」
「そう来なくっちゃ。そうそう、助川の首がいつも右側に傾いてる理由なんだけど、逆子が原因? 学生時代に骨盤位分娩には斜頸が多いと習ってはいたけど。」
「私の場合は多分そうです。前にも言いましたけど、頭位分娩でないと産道が狭いままなので、最後の頭が通過するのに顎が産道で引っかかって首の筋肉に過大な力がかかり損傷してしまいます。」
「耳の後ろの乳様突起から鎖骨を経て胸骨に至る胸鎖乳突筋ね。首を左右に回すと浮き出て見えてくる筋肉だよね」
「そうです。その損傷で筋肉組織が断裂してその治癒過程で拘縮して少し短くなってしまいます。それで損傷側へ首が傾きます。生まれる時に起こるので先天性筋性斜頸と言います」
「一生、続いてしまうの?」
「軽症ならほぼ元に戻る人もいますけど、私のように残る人もいます」
「なるほど。こういうのを防ぐために、逆子の場合、今ではほとんど帝王切開にするんだ」
「そうです。私が産科を志したのは、産婦人科医院を継いでほしいという父親の暗黙の要望に応えるというより、私のような人を一人でも減らしたいからです」
「それは知らなかった。助川見直したよ」
(第二章 「帝王挙子」 了)
(文字数26,412字)