生田修平 「離職」(2,763字)

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離職

生田修平

 大下は娯楽サービスの会社で人事を担当している。従業員20人程度の小さな会社である。業績はまあまあだが、若手の人材不足が深刻だ。50代以上過多、20~30代過少の偏った年齢構成。初任給を上げるなどして、毎年、何とか新卒を採用しているのだが、いかんせん定着しない。入社2、3年でさっと辞めてしまうケースが少なくない(註)。これでは、穴が開いているようなもので、いくら採用しても、若手の割合が増えないのだ。
 今の若者はドライでポーカーフェイス。昨日まで楽しそうに仕事をしていたのに、突然、退職を申し出る。辞められて後任がなかなか決まらず、業務が滞ったり、他の従業員にしわ寄せがくることが、しばしばだ。補充が遅れ負荷が過重になった若手が退職してしまう悪循環が起こることもあった。
 何とか予兆を察知できないものか――。退職を検討していることが、事前に分かれば、説得したり、条件を引き上げたり手が打てるし、辞めるのを阻止できなくても、後任補充のための採用にも着手できるのだ。
 大下は雇用のコンサルタントに相談したり、関連本を読んで勉強したが、気配について「休みがち」や「愚痴」「優秀なほど要注意」など月並みのことしか、見つけられなかった。そうこうしているうちに、昨年入社した矢野君から突然、退職の意向を伝えられた。新人ながら、歯に衣着せぬ物言いで、期待のホープ。本人の歯も衣が要らないくらい、ピカピカだ。昼食後、会社のトイレでガツガツ歯を磨いているのを何度か見かけたことがあった。その矢野君が辞めるのはとてもショックだった。大下は辞めぬよう全力で説得を試みたが、時すでに遅し。給料アップや休みの改善を提示するも、「そんな好条件があるならもっと早く言ってほしかった」と返され、1カ月後辞めてしまった。
 大下は頭を抱えた。何とか予兆をとらえ、先手を打たないと、この会社の継続が難しくなる。年齢構成だけの問題ではない。娯楽業にとって流行の最先端を行く若手の力はぜひとも必要なのだ。  しかし、予兆を見つける手段は一向に見つからない。完全に行き詰ってしまった。大下は出社するのが辛くさえなっていた。
 そんな時、ドラッグストアで買い物をしていると、食器用の洗剤を買おうとしている親子がこんな会話をしていた。
 母「大きいサイズがこんなに安い。これにしよう」
 娘「いやいや。来月引っ越しするのだから、小さいのでいいよ。使い途中の洗剤を引っ越しの荷物で持っていきたくないでしょう」
 母「それもそうね」
 大下はハッとした――。この前、退職した矢野君が昼食後、会社のトイレで歯磨きをする光景が目に浮かんだ。手にしていた歯磨き粉はとても小さかった。おそらく矢野君は会社用の歯磨き粉を購入する際、サイズをどうするかという問題に直面したはずだ。その時、「この会社にいるのはどうせ長くないから、ミニサイズでいいや」と考えたのではないか。この段階ですでに退職が念頭にあったからこそ、割高な〝極小〟を手にしたに違いない。
 中高年と違い、若手は昼食後、会社でも歯磨きをする傾向にある。大下は、昼食後、トイレに赴き、若手の歯磨き作業を覗くことが日常になった。若手が手にする歯磨き粉を見に行くためだ。サイズが小さければ「黄信号」である。こうして、若手が辞める前に色々と手を打てるようになり、攻めの人事ができるようになった。
 大下の作戦は的を得たようだ。少しずつだが、若手の割合も増え、業績も好転していった。大下はワクワクしながら会社に行くようになった。
 大下自身、昼食後、会社で歯を磨くようになっていた。会社の歯磨き粉が切れたので、ドラッグストアに行った。大下は特大サイズを手にした。

註)厚生労働省の「新規学卒就職者の離職状況」(2024年10月発表)によると、2021年3月卒業者(大学)の3年以内の離職率は34.9%。統計開始の1987年卒業者の28.4%から6.5ポイントも上昇している。1995年の卒業者から3年以内の離職率は30%を突破し、以降、21年を除き30%超が続く。大下の会社(従業員20人、娯楽業)はどうか。21年3月卒業者のデータによると、事業所規模5~29人は52.7%、生活関連サービス、娯楽業は61.0%と全体平均の34.9%を大きく上回っている。

以上

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