「女が築いた日本国」 第二回 三田誠広

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第二回 神宿る女――持統女帝は史上最高の独裁者

 日本の歴史は、『古事記』と『日本書紀』によって始まる。
 両書は、ほぼ同じ時期にまとめられた。
 同じ時期にまとめられたのに、なぜ二種あるのか。
 この点について確認しておきたい。
 太古の時代には、わが国には文字がなかった。何やら怪しい記号みたいなものはあったようだが、やがて渡来人によって、漢文が伝えられたので、公式の記録などは、漢文で記述されるようになった。
 土師はじという一族がいる。
 埴土はにつち埴輪はにわを作るところから、土師という名称になったのだろうが、ただ埴輪を作るだけではなく、葬儀の全般を取り仕切る役目をになっていた。
 皇族や大豪族など、貴人の葬儀にあたっては、その人物の生前の業績などが読み上げられる。漢文が読めるというだけでなく、ふだんから貴人の業績を記録するような仕事もやっていたのだろう。
 そのため、土師一族は、漢文の読解では他の追随を許さなかった。
 この一族は、垂仁すいにん天皇陵の近くの菅原すがわらの地に居住していたが、分家がいまの京都の西にある大江(大枝)に移り住んでいた。
 平安京が築かれる以前の京都は、葛野かどのと呼ばれるひなびた土地で、渡来人のはた一族が、大陸から伝わった最新の技術で養蚕や酒の醸造などを手がけていた。
 秦一族は朝廷でも重要な地位をしめていたので、土師の分家を配下として、漢籍の解読や記録の整理にあたらせていたのだろう。
 平安京遷都を実現した桓武かんむ天皇は、母方の祖母が大江の土師だった(母方の祖父は渡来人)。
 この「土師」という一族の名称に、「葬儀」のイメージがつきまとうことから、桓武天皇は大江だけでなく、大和の菅原の土師にまで、改姓を命じた。
 彼らは地名をとって、大江、菅原と名乗った。菅原道真すがわらのみちざね大江匡房おおえのまさふさなど、高名な漢学者を輩出することになる。
 話が長くなったが、一般庶民がまだ文字に親しんでいなかった時代から、一部のインテリは、中国語を学び、漢文で公式文書などを作成していた。
 ところが、神話に関しては、ヤマトコトバで語られるばかりだった。語り部と呼ばれる人々が、記憶力を頼りに口承で神話を伝えていたのだ。文字に頼る習慣のなかった古代の人々は、記憶力が優れていたはずで、長大な伝承をしっかりと記憶して、後世に伝えてきたのだろう。
 皇族や、大和の群臣の多くは、神さまの末裔であることを誇りとしていた。そのため、語り部によって一族の出自の尊さを、確実に伝える必要があった。
 また神社には、その起源を伝える物語がある。これも神社としては大事なことなので、神社に所属する語り部が神話を口承で伝えてきた。
『古事記』を編纂するにあたり、こうした各地の語り部が集められた。稗田阿礼ひえだのあれはそうした語り部たちの話を聞いて、それらを頭のなかでまとめ、それから一人で神話の体系をすべて語り始めた……ということになっている。
 まだ仮名はなかったので、ヤマトコトバの一音ずつを、漢字を表音文字として記述した。従って、『古事記』は漢字で書かれていても、中味はヤマトコトバで語られている。
 語り部の語りであるから、ヤマトコトバの響きを用いながら、ごく素朴に語られたのが、『古事記』だ。
 これに対して『日本書紀』は、さまざまな伝承を役人たちがいったん漢文として記録し、これを渡来人、または漢文上級者のエリートたちがまとめたものだ。
 従って、日本の歴史ではあっても、中国語で書かれている。
 天武てんむ天皇は、中国と外交するにあたり、日本が一流国であることを示すために、中国語による歴史書が必要だと考えた。そのためヤマトコトバによる『古事記』だけでなく、どうしても中国語による歴史書が必要だった。
 前回、天照大神あまてらすおおみかみが女神とされたのは、稗田阿礼が持統女帝にゴマをすったからだ、と書いたが、アマテラスを女神だとしているのは、『古事記』だけではない。
 中国語が堪能なエリートたちが集団で編纂した『日本書紀』でも、アマテラスは女神だとされている。
 ゴマをすったのは稗田阿礼だけではなく、エリートたちも、持統女帝の独裁ぶりを見て、そこに天界の女王の姿と重ね合わせたのか。
 ここで、持統女帝がどれほどの独裁者であったかを、簡単に述べておく。
 吉野に隠遁していた天武天皇が、壬申じんしんの乱と呼ばれる反乱を起こすために吉野を脱出した時、妻の持統も同行した。
 妻の存在が重要だった。
 なぜかというと、のちに即位して天武天皇となる大海人皇子おおあまのみこは、天智天皇の「皇太弟すめいろど」と称されてはいたが、その天智は亡くなる前に、不改常典あらためまじきつねののりという詔勅を発して、皇位は直系相続に限ると定めていた。
 そのため、皇位継承者は長男の大友皇子ということになった。大友皇子は明治になってから弘文こうぶん天皇という諡号しごうを贈られたのだが、実際には即位の儀式はなく、ただ太政大臣に任じられただけだった。
 この皇子の母親は伊賀の豪族の娘で、皇后でも妃でもなかった。そのため、皇太子にも定められていなかった。
 天皇の地位は万世一系といわれているが、母親も皇族か、または神宿る家系の葛城一族に限るという不文律があったようだ。にわかに権力の座に台頭した蘇我一族の祖の蘇我稲目も、葛城一族の娘を妻とすることで、生まれた娘を天皇に嫁がせることができた。
 そこから用明天皇、崇峻すしゅん天皇、推古天皇や、聖徳太子が生まれている。
 つまり皇位継承者になるためには、母親も神宿る家系でなければならない。その点では、大友皇子は失格なのだ。
 では次善の候補者は誰か。
 天智天皇の皇女であり、母方は蘇我一族という、持統こそが、最もふさわしい皇位継承者だと、群臣の多くが考えていた。
 それ以前に、すでに推古女帝、皇極女帝(二度目の即位では斉明女帝)の実例があるので、群臣の多くは、女帝の出現を期待していたのだ。
 壬申の乱という内乱で天武が勝利できたのも、天智天皇の血をひく持統を妻としていたからで、もし持統がいなかったら、皇位継承の資格もなく反乱を企てた逆賊になってしまう。
 そのため、夫の天武天皇が健在であったころから、皇后の持統がすでに政務の半ばをになっていた。
 そして天武亡きあとは、持統が女帝として、独裁者となった。
 ただ持統には計算違いがあった。自分の実子の草壁皇子くさかべのみこが皇位を継承すれば、天智と天武の血筋が合わさって、揺るぎのない政権を確立できると考えていたのだが、その草壁が病没してしまった。
 幸い、孫がいた。とはいえ、まだ数え年七歳の少年にすぎない。
 古来の不文律で、天皇として即位するのは三十歳になってからとされていた。
 持統女帝はこの慣例を無視して、孫が十五歳になった時に、文武もんむ天皇として擁立し、その後も上皇として君臨を続けた。上皇が独裁者になるという、平安末期の白河上皇、後白河上皇の政権は、持統上皇を先例としている。
 そして、藤原京への遷都という一大事業を成し遂げる。
 稗田阿礼を始めとする、歴史書の編纂にあたった人々は、持統女帝に天界の女王のイメージを重ね合わせた。
 最後に、持統女帝の姿を詠んだとされる柿本人麻呂の和歌を記しておく。
 〽大君は神にしませば天雲のいかづちの上にいほらせるかも
  (持統女帝は神であられるので雷雲の上にお住まいなのでしょう)

「女が築いた日本国」 第一回 三田誠広
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