第四回 出雲系と日向系の融合
話を元に戻して、アマテラスすなわち天照大神の話を続ける。
稗田阿礼が女帝にゴマをすったために、日の神が女神になった、という話をしたのだが、これはぼくの思いつきで、エビデンスがあるわけではない。
多くの研究者が提唱している、もっともらしい仮説を、いくつかご紹介する。
あの有名な『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼のような、日の巫女の存在が、わが国の多くの地方に存在したことは確かで、占いや雨乞いなどの行事が、国を支配する権威につながって、女性による統治が広がっていた。
そこで必然的に、神話の方も、女神が支配する物語として継承されていった。
これが一つの仮説だ。
まあ、そういうことなのだろうとぼくも思う。
しかし別の仮説もある。そちらの方が重要だとぼくは思っている。
暴れ者のスサノオとウケヒ(誓約/婚姻)をするために、天界の最高位の神は、女神でなければならなかった……。
この仮説には説明が必要だ。
そもそも「ウケヒ」とは何なのか。
ウケヒというのは、神と神との契約のことで、人間の男女の婚姻のようなものだ。
スサノオはアマテラスの弟ということになっているのだが、どうやらこれは虚構のようだ。
虚構といえば神話はすべて虚構なのだが、長い年月にわたって人から人へ伝えられてきた神話には、それなりの真実が秘められている。
リアルな世界で起こった出来事や、その神話を伝えた人々の慣習、希望、怨念が、神話のストーリー展開に反映されていく。
そのように考えると、神話というのはまったくの作り話ではなく、読み解くことのできる謎を秘めたパズルようなものだ。
アマテラスは天界の女王で、弟のスサノオは大海原の担当ということで、ふだんは接触がないのだが、そのスサノオが姉に挨拶するために高天原に昇ってくることになった。
スサノオが暴れ者だという噂を聞いているアマテラスは、天界を乗っ取られるのではと警戒して、スサノオにウケヒを求める。ウケヒとは、神と神との婚姻なので、その結果、子が生まれることになる。
その前に、アマテラスは一種の占いをした。
ウケヒの結果もしも男児が生まれたら、スサノオに何らかの野心があり、女児ならば潔白である……そういう占いだ。
ウケヒの結果、生まれたのは、イツクシマ(市杵島)姫、タギツ(湍津)姫、タゴリ(田心)姫という女神たちだった。この女神たちについては別の機会に述べる。
とにかく男神のスサノオとウケヒをするという物語の展開なので、アマテラスは女神でなければならなかった。
これが太陽神が女神であることの最大の理由なのかもしれない。
では、なぜここでウケヒが必要だったのか。
『古事記』を一人で語りきった稗田阿礼も、『日本書紀』を編纂した中国語のできるエリートたちも、神話を構成するために、かなり無理をしている。
ぼくたちがいま読むことのできる神話には、出雲系の神話と、日向系の神話が混在している。これはもともと起源の異なる神話を、無理に一つの体系にまとめようとした、つぎはぎの痕跡なのだ。
なぜつぎはぎが必要だったかというと、かつて出雲には勢力の強い王国があり、近畿から尾張あたりまでの広大な地域を支配していた。そこに日向から新しい勢力が近畿に侵入して、大和朝廷を築いた。
初代天皇の神武東征の物語はまだ神話の領域だが、ここでも神武が出雲系のエビスさま(事代主)の娘を妻に迎えるという、婚姻によるウケヒが描かれている。
こういう物語が構築されたのは、リアルな歴史のなかで、出雲民族と日向民族との間に、和解が成立したからだろう。
戦争を終結させるためには、和平条約が必要だ。それこそが、神話で描かれるウケヒなのだ。
出雲民族も日向民族も、それぞれに神話をもっていた。リアルな歴史のなかで実現された和解という事実を、神話の世界に変換して、新たな物語が作られる。
八岐大蛇を退治した出雲神話の英雄と、万世一系の天皇の先祖が日向に降臨する物語とが、スサノオとアマテラスのウケヒというかたちで、神話そのものが一つの体系にまとまったのだ。
このようにパズルを解いていけば、なぜそうした神話が語られたのか、その神話の背景にどのようなリアルな歴史があったのかが、明らかになっていく。
いま残されている神話の冒頭は、天界から始まっている。
始めは姿も形もない神々がいた。やがて何かを生み出そうということになって、男神と女神が地上につかわされる。
男神のイザナギ(伊邪那岐)と女神のイザナミ(伊邪那美)だ。
そこから国産みの物語が始まり、国津神と呼ばれる地上の神々が誕生する。
やがて女神のイザナミは火の神を産んだために重症を負って、黄泉とも呼ばれる根の国に旅立った。亡き妻のことが忘れられない男神のイザナギは、根の国に入っていくのだが、そこで恐ろしい体験をして、逃げ帰ってくる。
根の国の出入口は、出雲の比良坂というところにある。八岐大蛇を退治したあと、スサノオが根の国の入口に、堅洲の宮を築いて、閻魔さまのような存在になっている。つまり黄泉の国の物語は、出雲の神話なのだ。
イザナミは死んで黄泉の国に赴いた。人が死ぬのと同じように、人の姿をした神は死ぬことがある。しかし死んだものが必ず黄泉の国に行くわけではない。
一切の怨念から解放されたピュアな人間は、黄泉の国に行かずに、もっとよいところに行くことになっている。
のちに伝わってくる仏教では、西方極楽浄土というものが設定されているけれども、昔の日本人は、似たような世界を夢想していた。
それが常世の国だ。
常世というのは永遠に続く世界で、そこは温暖であることがポイントだ。あこがれのハワイみたいなところだろう。
温暖だから、常緑樹の橘があって、黄金の果実が実っている。
これは「ときじくのかぐのみ(非時香果)」と呼ばれ、一口食べれば、不老長寿……ということになっている。まあ、ただのミカンなのだけど。
残念ながら、常世の国に行けるのは、ごく限られた人だけということになっているのだが、常世の国の象徴でもある橘は、日本人にとっては大事な樹木なのだ。
宮中の庭には、必ず、桜と橘が植えられている。桜は言うまでもなく、美しい花を咲かせるけれども、花の命は短い。冬には葉も落ちてしまう。これに対して、橘は不老長寿の果実を実らせ、つねに鮮やかな緑色の葉を茂らせている。
その黄泉の国と、常世の国の分岐点に、スサノオがいる。
スサノオというのは、まさに閻魔さまで、死の国の門番のような存在なのだ。
ともあれ、日向神話のアマテラスと、出雲神話のスサノオが、ウケヒをしたことによって、二系統の神話が一つの物語に合成された。
暴れ者のスサノオに対し、日の神は美しい女神として描かれることになった。こういう物語を完成させるためには、アマテラスは女神でなければならなかったのだ。また当初は、太陽神の巫女と考えられていたアマテラスは、いつしか太陽そのものを象徴する偉大な神であり、天界の女王だということになっていく。
