第六回 神々の婚姻――ウケヒとは何か
ところで、せっかく姉のアマテラスとウケヒをして、天界に昇ることを許されたスサノオが、なぜ根の国に赴くことになったのか。
そもそも大海原の神であったスサノオが、天界に昇っていくことになったのは、自分はこれから根の国に赴くと、姉に挨拶をするためだった。
なぜ根の国に行くのか。これには、母親のイザナミを慕っているから、という説明がついている。
これは不可解だ。
なぜなら、アマテラスもスサノオも、浄めの水のしずくから生まれた、いわば単性生殖で誕生した神だから、母親とは関係がない。
というような科学的な論証を試みても意味がない。
神話というのは、荒唐無稽なものだ。
稗田阿礼もかなり苦労をして、話のつじつまを合わせようとしている。
スサノオはウケヒをして天界に昇ることを許されるのだが、そこで大暴れをして、結局は追放されることになる。
その暴れ方の詳細が書かれているのだが、田畑を作って農耕したり、馬に乗ったりという、稲作を伝えた渡来人たちが大切にしているものを、スサノオがぶっこわしてしまう。この暴れ方には、渡来人と先住民との対立のようすが、色濃く反映されているように思われる。
ということは、出雲系は土着の先住民で、日向系が農耕を推進する渡来人、というふうにイメージすることも可能ではないか。縄文人と弥生人の対立、と考えるのは飛躍があるかもしれないが、どうも天皇の先祖は、目の細いモンゴル系の人ではないかという気がする。
いずれにしても、何らかの民族的対立のようなものが、スサノオの暴力性に秘められているようだ。
さて、スサノオの大暴れに、身の危険を感じたアマテラスは、天の岩戸と呼ばれる扉のある洞窟に身を隠してしまう。
アマテラスは太陽神なので、日食が起こって世界は闇に閉ざされる。
このあたりはよく知られた物語だが、ここで鏡が登場するというところを、記憶にとどめておいていただきたい。
日の神が姿を隠してあたりがまっ暗になってしまったので、天界の神々は相談をして、岩戸の前でドンチャン騒ぎをする。
アメノウズメ(天鈿女)という女神がストリップを演じ、神々がはやしたてる。その賑やかさに驚いてアマテラスが岩戸に隙間をあけてのぞいたところ、そこには八咫鏡があった。
鏡に映った輝かしく美しい女神の姿を見たアマテラスは、もっとよく見ようと岩戸をさらに開けたところを、タヂカラオ(手力雄)という剛腕の神が岩戸をすっかり開いたので、世界はまた明るくなった。この故事から、鏡がアマテラスの分身となり、伊勢神宮の御神体となった。
のちにスサノオはアマテラスと和解をするために、八岐大蛇の体内から取り出した天叢雲剣をプレゼントする。また、八咫鏡の近くには、玉も飾られていたという記述もあるので、鏡、剣、玉という三種の神器がここで揃うことになる。
出雲の十種の神宝は、鏡二種、剣一種、玉四種、比礼三種という十点セットだったが、日向系のアイテムは、ごくシンプルに、鏡、剣、玉の三点セットになっている。
このうち、八尺瓊勾玉は王権のシンボルとして代々の天皇が所有し、鏡は伊勢神宮のご神体になっている。剣も伊勢神宮にあったのだが、日本武尊が東国への旅に携えて、焼津のあたりで草を薙いだことから草薙剣と名をかえて、いまは熱田神宮に収蔵されている。
皇居にある三種の神器のうち、鏡と剣は、レプリカにすぎない。
三種の神器の剣が、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んで失われたということになっているが、もともとレプリカなので大騒ぎするほどのことではないのだ。
ただ異母弟の後鳥羽天皇が即位する時に、剣のレプリカの製造が間に合わなかったので、三種の神器なき即位ということで、権威に陰りがつきまとうことになる。
壇ノ浦といえば、ウケヒによって生まれた三女神を祀った宗像神社も近いのだが、広島には平清盛が造営した厳島神社もある。これは宗像神社に祀られている市杵島姫神と同じ神さまで、漢字の表記が違っているだけだ。
平清盛は伊勢平氏の出身で、配下に水軍をもっていた。清盛は瀬戸内海の海賊を征圧して、水軍を拡大し、安芸守などを歴任して出世を遂げた。
やがて日宋貿易の利権を独占して、音戸の瀬戸と呼ばれる瀬戸内海の難所を開削し、いまの神戸の近くに港を開いて、宋の商船が直接入港できるようにした。
そのことで大きな利益を得た平家一門は、藤原摂関家を抑えて国家権力の中枢に昇っていく。
その支えとなったのが、海戦と海運の守り神、すなわち天界の女王と根の国の神のウケヒによって生まれた女神なのだから、神話の世界はのちの世まで、大きな影響力をもっていたことになる。
ここまでは、アマテラスについて語ってきたのだが、この太陽を象徴する神は、最初の神ではないし、最初の女神でもない。
世界の始まりは渾沌とした状態であったが、澄みきった軽いものと、濁った重いものとが分かれて、天と地ができた。
そこに天之御中主神などの神々が生じたとされる。これらの神々には、姿や形がなかった。抽象的な存在であったということだ。
天と地はあったが、地はどろどろの状態で、固い陸地はなかった。
本州や九州、四国、その他の島々は、どうやって出現したのか。
そこから「国産み」の物語が展開していく。
姿のない神の誕生から何代かを経て、神々は「国産み」の必要性を感じた。国だけでなく、国津神と呼ばれる地上の神も必要だ。
それらのものを産むためには、女神による出産が必要で、そうなると男神もいなければならない。
そこでイザナギ(伊邪那岐)とイザナミ(伊邪那美)の夫婦神が誕生した。
何かを産む、ということになると、これは女性の役目だ。
まあ、世界に目を転じれば、ギリシャ神話のディオニーソスは、ゼウスの太腿から生まれたことになっている。アマテラスは水のしずくから生まれるので、必ずしも母親が必要というわけではないのだが、これは例外で、たいていのものは母親が産むということになる。
万物の母は、イザナミなのだ。
姿も形もない神さまだけがいたころは、いかなる生物もいなかった(鳥はいたかもしれない)。そもそも国土というか、地面というものがまったくなかった。
とりあえずは、国土を生産しなければならない。
そこで姿も形もない神が、姿も形もある男神と女神を創造した。
イザナギとイザナミは、はじめはどうしていいかわからなかったのだが、鳥がつがっているのを見て、ノウハウを察知した、と日本書紀の一書に書かれている。
イザナミは本州や、九州、四国などを産んだということになっている。
本州なんて巨大なものを、いったいどうやって産んだのか、いささか疑問が残るところなのだが、これは神話の領域なので、何でもできてしまうということだろう。
国土の次は、さまざまな神さまを産むことになる。姿や形があるだけでなく、それぞれに役割や機能をもった神さまは、すべてイザナミが産んだことになっている。
最後に、イザナミは、カグツチという火の神を産んだのだが、これは困った神さまだった。火の神なので、全身が燃えながら生まれてきたのだ。
イザナミは下腹部に大やけどをして、死んでしまう。
神さまも死ねば、黄泉の国に旅立つことになる。
そこからまた、新たな物語が続いていく。
