「女が築いた日本国」第十九回 三田誠広

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第十九回 いよいよ神宮皇后が登場する

 ようやく、神宮皇后の話をする時が来た。
 日本の歴史上、最高クラスのヒロインであることは確かだ。
 日本の歴史には、すごい女性がいっぱいいる。持統女帝、紫式部、北条政子……挙げていけばキリがないほどだ。ぼくは多くの女性をヒロインにして作品を書いてきた。だが日本史上の最高の女傑だと思われる神宮皇后の話は、残念ながら書き始めた直後に企画がボツになって、途中で止まってしまった(死ぬまでに完成させたいと思っている)。
 持統天皇は日本国を独裁した。紫式部はすごい文学作品を書いた。北条政子は天皇と貴族の世をひっくり返して武士の世を築き上げた。まあ、すごいことだとは思う。
 神宮皇后は、もっとすごい。
 何がすごいといって、朝鮮半島に進撃して、三韓を征圧したというのだから、こんな女性は他にはいない。というか、天智天皇も、豊臣秀吉も、半島に攻めていって、大敗北を喫している。それよりも遙かに前の時代に、神功皇后は朝鮮半島を征圧したのだ。
 最初の標的は新羅だった。
 神功皇后が船出すると、風が追い風になり、潮流が船を加速し、海の魚までが盛り上がって船を一気に朝鮮半島まで到達さたということだ。その魚の盛り上がりが船を持ち上げているのを見て、新羅の王はたちまち降伏を申し出た……というような、ほんまかいなというようなエピソードが日本書紀に記されている。
 日本書紀は、歴代の天皇に一章を当てているのだが、神功皇后は特別に、皇后にもかかわらず独立した一章を設けて記述されている。
 要するに、天皇に等しいということで、実際に、常陸風土記、播磨風土記、摂津風土記には、「神功天皇」という表記が見られる。
 神功皇后は、オキナガノタラシヒメ(息長足姫)という名で、ヤマトタケルの子息の仲哀天皇の皇后だった。仲哀天皇が亡くなったあと、のちの応神天皇を胎内に孕んだままで半島に渡った。
 赤子がいまにも生まれそうだったので、二つの大きな石を帯で腹に巻き付けて、出産を防止したと伝えられる。
 二年ほど経って、九州北岸に戻ってきた時に帯を解いたら応神天皇が生まれたわけだが、腹に巻いた石は、そのあたりに置いたままになっていた。
 その二個の石は、いまでも大事に保存されている。鎮懐石八幡宮(福岡県糸島市)というところで、その石を詠った山上憶良の歌碑などもあるらしい。
 石が残っているくらいだから、腹に石を巻きつけて出産を遅らせたという話も、本当かもしれない(ほんまかいな)。
 生まれた応神天皇がまたすごい人だったので、神功皇后は、応神天皇の母としても尊ばれている。
 応神天皇は全国を制覇した。そして各地に落胤を遺した。
 その落胤の一粒が、のちのち大きな意味をもつことになる。万世一系の天皇の系譜があわや途切れそうになった時に、応神天皇の五世孫という人物が現れて、日本国を救うことになるのだが、これはまた別の話。
 応神天皇といえば、八幡さまだ。
 全国各地にある八幡神社。そこに祀られている主神が応神天皇。必ずその母の神宮皇后も祀られている。
 でも、八幡さまって、何だろうか。
 源頼朝の何代か前に、八幡太郎義家という武将が、東国を制覇したという伝承がある。その少し前くらいから、臣籍降下して武将になった源一族は、八幡さまを氏神としていた。
 つまり、戦さの神さま、というニュアンスがある。
 八幡さまの元締めは、九州北部にある宇佐八幡宮だが、東大寺の大仏造営のおりに、八幡さまの分霊を東大寺境内に勧請したのが、八幡さまの中央進出のきっかけになった。
 大仏の鋳造は、わが国始まって以来の大事業だった。始めはなかなかうまくいかなかった。巨大な鋳型を造って青銅を流し込む。灼熱の青銅がこぼれたりすると、大惨事になる。実際に多くの死者が出た。
 大仏の鋳造にあたった工人は、朝鮮半島からの渡来人だった。死者が多く出たため、工人たちの要請で、八幡さまの勧請ということになった。
 ということは、八幡さまって、渡来人の守り神ではないのか。
 それがいつの間にか、応神天皇にすりかわった。
 いや、冷静に考えてみれば、神宮皇后が石を腹に巻いて出産の時期を遅らせたという話も、何だか怪しい。
 仲哀天皇の死から、応神天皇の誕生までの間に、かなりのタイムラグがある。
 ということは……。
 その先のことを書くと、戦前なら不敬罪になる。だから読者の皆さんの想像にお任せするしかないが、神宮皇后と応神天皇は、朝鮮半島と深いつながりをもっていることは確かな事実と思われる。
 だから渡来人の工人たちも、八幡さまを信心したのだろう。
 そして青銅の鋳造技術が、やがて刀鍛冶に受け継がれ、それが八幡さまを武士の守り神へと押し上げたのだろう。
 神功皇后の活躍に比べて、夫の仲哀天皇は、影がうすい。
 父親(ヤマトタケル)と妻が偉すぎて、仲哀天皇の存在が、かすんでしまった。
 そもそも名前が寂しい。
 神武とか、天智とか、天武とか、そういう名称は、漢風諡号と呼ばれる。天皇が亡くなったあとで、生前の業績を偲んで、漢学者によって諡号が贈られる。
 明治以後は、天皇の治世と年号とがシンクロしているので、新たに諡号が贈られることはなくなった。明治時代の天皇は明治天皇と呼ばれる。昭和時代の天皇は昭和天皇だ。在位の期間は、ただの天皇、あるいは今上天皇と呼ばれるのだが、元号が諡号のかわりになっているのだ。
 太古の時代には、漢風諡号などというものもなかった。
 日本書紀がまとめられた時に、淡海三船という漢学者が、古代天皇の諡号をまとめて考案したとされている。
 だから仲哀と名づけたのも淡海三船だ。
 大した業績もないが、リリーフとして即位して、妻に政権を引き継いだ、ちょっと哀しい天皇。淡海三船はそんなふうに感じたのではないか。
 神功皇后という名称も、諡号として淡海三船が贈ったものだ。皇后に諡号が贈られたのはこの一例だけで、天皇に等しい皇后であったことが、ここからもわかる。
 ちなみに諡号のなかに「神」の文字が入っているのは、初代の神武天皇と、崇神天皇、神功皇后、子息の応神天皇と、四例しかない。
 天皇というものは、天津神の末裔であるとされ、もともと神さまとは深い関係があるのだが、ことさらに「神」の文字が入っているのは、よほど神さまと深い関係があったのだろう。
 初代神武は特別の存在だが、神功と応神の母子の他にもう一人、崇神天皇という人物がいる。この人物の和風の名称が、「御間城入彦」というのだが、そのまま読むと、「ミマという王城からヤマトに入ってきた勇者」ということになる。
 その「ミマキ」って、どこにあるの?
 かつて半島の百済と新羅の間に、加羅諸国という小国の連合体があった。
 その中に、「ミマナ(任那)」という国があり、任那日本府というものが置かれていたと、小学校のころに習った記憶がある。
 すると崇神天皇がやってきたのは、「ミマナの城」ではないのか、という疑問が出てくる。
 その任那はやがて新羅に滅ぼされることになるのだが、神功皇后はその新羅に攻め込んで、敵の王を降伏させた。
 神功皇后が天皇と同等の偉大な人物として語られるのは、新羅を屈服させ、任那を再興した功績があったからだと考えることもできる。
 次回はその「任那」について考えてみたい。

三田誠広の歴史エッセー
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