第二十回 任那とは何か
ぼくが小学生だったころ、というと、70年くらい前のことになってしまうが、社会科の教科書には、任那日本府という記述があった。
小学生のぼくも、そんなものかと思っていたのだが、そのうち教科書の記述が二転三転するようなことがあった。
この任那日本府というものが、本当にあったのか、あったにしてもどの程度のものだったのか、諸説があって、結局のところ、いまもってよくわからない。
戦前に日本が朝鮮半島を支配していたことが、終戦後に罪悪として語られ、この任那日本府というのも、日本の軍部が歴史を捏造したもので、そんなものはなかったとする学説が広まっていた。
任那という国などそもそもなかったと言い出す人もあった。
一方、新羅と百済の山岳地帯に、どちらにも属さない小国がいくつかあって、加羅諸国と呼ばれており、任那はその一部だったとする説もあった。
加羅という言葉は、日本国内に広まっており、そこから外国のことを「から」と呼ぶようになったという通説もある。確かに「韓」という文字を「から」と呼び、「韓人」を「からひと」と呼ぶことがある。
いまは乙巳の変と呼ばれる「大化改新」で、飛鳥板葺宮で皇極女帝が三韓の使節を迎えた公式行事の席上で、中大兄(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が蘇我入鹿を討ち果たした時、現場から逃げた人が、「からひとが大臣を殺した」と語ったようだ。
これだと天智天皇が渡来人ということになってしまうが、これは中臣鎌足のことかもしれないし、三韓の使節を迎える公式行事の席上で事件が起こったので、三韓の使節の誰かが犯行に及んだと誤解したのかもしれない。
しかし「韓」だけでなく、「漢」も「唐」も、「から」と訓じる。
『伊勢物語』に出てくる在原業平が、「かきつばた」の五文字を語頭に据えて詠んだ歌にも、「から」が出てくる。
〽からごろも着つつ慣れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
(唐衣を着た親しい恋人がいたのだけれどもうずいぶん遠くまで来てしまったよ)
この「からごろも」は当時の皇族や貴族のファッションで、唐風の衣装のことをそのように呼んでいた。この「から」は明らかに「唐」だ。
いまサツマイモと呼ばれている芋は、薩摩から伝わったからそのように呼ばれているのだが、薩摩では「からいも」と呼んでいたそうだ。この「から」も「唐」だろう。
要するに外国のことを「から」と呼んでいたのだが、その語源が、「加羅諸国」にあるのではという説があるのだ。
この小国は、新羅と百済という大国に挟まれていたため、つねに双方から侵略される危機をかかえていた。そのため加羅諸国から多くの難民が、日本に押し寄せていたとも考えられる。
そこで日本語の不自由な渡来人を「からひと」と呼ぶようになった。
加羅という国があったわけではない。いくつかの小国のなかに、「伽耶」と「安羅」という国があり、そこから一文字ずつを採って、小国の総称として「加羅」が用いられたのではないか。その小国のなかに、任那があったのだが、そこに日本府があったので、加羅諸国の全体を、任那と呼ぶようになったとも考えられる。
ところで、ハツクニシラススメラミコト(御肇國天皇)と称された第十代崇神天皇の和風の名称が、「御間城入彦」だということは、前回で述べた。
この「御間城」というのは、「任那の城」ということではないか。
だとすれば、第十代崇神天皇は、任那の出身ということになる。
この時期には多くの渡来人の記述があって、そこに「ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)」という人物も出てくる。加羅諸国の王子ということになっている。
このヘンテコな名前は、人名とは思えないので「角がある人」という俗称を当て字で書いたのだろう。
この人物が渡来した地名が、「角がある人が来た港」という意味で、「つぬが(角賀)」と呼ばれた。それがいまの敦賀だといわれている。
この角というのは、朝鮮半島における男子の正装の冠の先が尖っていたことから、角のように見えたというのが通説になっている。
しかし本当に額から角が生えていたとした方が、話がおもしろくなる。
ぼくはこの記述をヒントにして、この角のある英雄が日本国を支配して崇神天皇と呼ばれるようになる『角王』という小説を書いた。
日本書紀の記述では、ツヌガアラシトが日本にいる間に、任那(御間城)は新羅に滅ぼされた。そこで任那の再興を図るために朝鮮半島に帰還したということになっている。
同じころに、天日矛という人物も渡来している。これは新羅の王子ということになっているのだが、ぼくの見るところ、「角がある人」と同一人物の別バージョンのように感じられる。
そこにはこんな伝説が書きとめられている。
天日矛がある男から霊力のある赤い玉を貰い受け、自宅に置いておくと、赤い玉は少女に変身した。天日矛はそのアカル(阿加流)という名の少女と結婚したのだが、のちに彼女は天日矛のもとから逃げ出して、日本の難波の津に到達した。天日矛はアカルを追って日本に来たのだが、但馬の「イヅシ(出石)」というところに定住した。
実は「角がある人」にもまったく同じようなエピソードがあるので、ぼくの小説では、「角のある人」すなわち
崇神天皇が携えてきた矛の名称が天日矛で、崇神天皇が御間城再興のために帰還した時に、分霊が矛に宿って出石に住んだということにした。
その出石の天日矛の末裔に、神功皇后が誕生する。
新羅に滅ぼされた任那から渡来した崇神天皇の、故郷への思いが、何代もの時間を経過して、天日矛の子孫の神功皇后によって、任那再興という「角がある人」が果たせなかった夢が実現した。
そう考えると、ここには長大な物語が展開されていることになる。
神功皇后は天日矛の五世孫にあたる。夫の仲哀天皇は崇神天皇の四世孫、応神天皇は五世孫にあたる。
神功皇后が三韓を征圧して任那を再興したという話には、ここまで述べてきたような前段階の物語があった。
アカルは大阪市平野区の赤留比売命神社に祀られている。
天日矛は兵庫県豊岡市の出石神社に祀られている。
神社に祀られていることから見ると、ただの伝説ではなく、実在の人物であったと考えることも可能だ。
学者のなかには、古代の日本は辺境の小国にすぎず、任那日本府などいったものを設営する武力はなかったとする人もいる。
しかし現在は中国領になっている吉林省通化市集安市で発見された、古代の高句麗王の業績を讃えた好太王碑の碑文によれば、倭国の侵略によって新羅と百済が占領されたために、好太王が軍を派遣して奪還した、といったことが誇らしげに書かれている。
これを見ると、たとえわずかな期間だとしても、和国が朝鮮半島を征圧していたことは事実のようだ。
聖徳太子の時代にも、新羅と百済の双方から、援軍の要請があった。
大化改新で三韓の使節が来ていたのも、新羅、百済、高句麗の三国が、日本を大国だと考え、礼を尽くそうとしていたことがうかがえる。
確かに日本が朝鮮半島の全域を制覇して長期間征圧するというのは、難しかったかもしれないが、三国のいずれかと同盟を結べば、その連合軍が半島の全域を支配することが、可能だったのではないか。
三韓の対立が、日本にとっては、自国の存在感をアピールする絶好のチャンスだったといえるかもしれない。
残念ながら、天智天皇が百済を支援して軍勢を派遣した試みは、大失敗に終わった。新羅の王、金春秋の方が一枚上手で、先手を打って唐と同盟を結び、大唐帝国の軍勢を半島に招くことに成功して、日本軍は大敗を喫することになった。
そのため唐の追撃を恐れた天智天皇は、王都を近江に遷すことになり、それが大和の豪族の反感を招いて、長男の大友皇子が滅ぼされることになった。
いずれにしても、朝鮮半島の動向は、日本の国内政治にも、つねに大きな影響力をもっていたと考えられる。
神功皇后の物語が、日本書紀にも古事記にも詳しく書かれているのは、そのことを如実に示しているといっていいだろう。




