第二十三回 女系天皇の可能性
手白香皇女の子息(養子であってもわが子として育てている)の欽明天皇は、おそらく太古からの慣例で、三十歳になるまで即位できなかった。
そのため、二人の兄(継体天皇の長男と次男)が中継ぎとして皇位に就く。これは応神天皇の五世孫という怪しい出自の継体天皇の権威を認めたことになるが、ヤマトの群臣たちの間には、いずれ手白香皇女が養子にした欽明天皇が皇位に就くという、暗黙の諒解があったのだろう。
神宿る皇女の子息が皇位に就く。
このことによって、万世一系の系譜が守られたと、ヤマトの人々は考えたのではないか。
現代の研究者たちのような、男系、女系のこだわりは、当時の社会にはなかった。
江戸時代になって、徳川幕府の体制を維持するために、にわかに儒学(とくに朱子学という儒学の新たな潮流)が奨励された結果、男尊女卑という世界観が急速に広がることになる。
その直前の時代には、淀どのという女傑が、徳川家康と対立していた。
この家康を助けたのが、豊臣秀吉の正妻、寧々(お寧ともいう)だった。
関ヶ原の合戦に臨むにあたって、家康の直属の国衆たちは、後継者の秀忠に率いられて中仙道を進み、真田昌幸と幸村のいる信州上田城で足止めされていた。
そのため関ヶ原の合戦で家康の配下にいたのは、秀吉恩顧の若手武将ばかりだった。その恩顧の武将らに、寧々は手紙を書いて、家康に味方するように諭したといわれている。
従って、関ヶ原の合戦を、石田三成の西軍と、家康の東軍との戦いではなく、淀どのと寧々の闘いと見ることも可能なのだ。
つまり、戦国末期までは、女性が強かった、ということだ。
江戸時代に入って、朱子学の影響がにわかに広まった。
明治の閣僚たちも、その影響を受けていて、男尊女卑の考え方が、皇室のルールにも適用されている。その結果、天皇は男子に限るという、江戸時代にもなかった暴虐ともいえるシステムが作られ、現代の研究者も、万世一系の天皇家の系譜は、男系天皇でつながってきた、といった暴論を唱えるようになった。
ぼくは、欽明天皇は明らかに女系天皇であると考えている。
もう一例、天皇の詔勅によって、女系天皇の可能性が示唆された実例がある。
それは平城京遷都を実現した元明女帝の詔勅だ。
元明女帝は、天智天皇の皇女で、持統女帝の妹にあたる。異母妹ではあるが、母親同士が姉妹であり、持統女帝の母親が早くに亡くなったので、二人は同母姉妹といってよい親しい間柄だった。
持統には実子は一人しかいない。草壁皇子という。父親の天武天皇によって、皇位継承者の筆頭に据えられていたのだが、三十歳になる前に亡くなった。幸いなことに跡継がいた。のちに元明女帝となる阿閇皇女が草壁の妻となり、珂瑠皇子を産んでいた。
持統女帝はこの珂瑠皇子が十五歳になった時に、これまでの慣例を破って文武天皇として即位させたのだが、この文武天皇も跡継の男児を残して早々と亡くなってしまった。この男児がのちの聖武天皇だが、まだ幼児で、しかも病気がちな子どもだった。
そこで文武天皇の母親(阿閇皇女)が、女帝となった。これが元明女帝だ。
元明天皇には三人の子があった。
長女は長屋王の妻となった。
この長屋王についても説明しておく。
天武天皇の長男の高市皇子は、母親が九州宗像水軍の娘なので、早くから皇位継承の望みを断たれていた。臣下として活躍し、持統女帝の時代には太政大臣として女帝を支えた。元明女帝の姉が、この高市皇子に嫁いで、長屋王を産んでいる。
従って長屋王とその妻は、父方は従兄弟で母方は姉妹という、強い血縁で結ばれていた。その長屋王には何人も男児がいた。
平城遷都を実現した元明女帝にとって、最後に残された憂いは、孫が病弱だということだった。
その聖武天皇は即位するまで生きながらえたものの、ずっと病弱で、そのため信仰心が篤く、大仏建立という大事業にすがるだけで、政務の方は妻の光明皇后と、皇后の兄の藤原四兄弟(藤原不比等の子息)に任せきりだった。
病弱な孫に万一のことがあった場合に備えて、元明女帝は詔勅を発した。
女帝である自分の子ども三人には、等しく皇位継承権がある。これがその詔勅だ。
男児の文武天皇は即位したもののすでに亡くなっている。姉妹の妹はのちに元明女帝の跡を継いで元正女帝となる。
問題は、長屋王に嫁いだ娘にも皇位継承権があり、その権利は子どもたちにも継承されるとした点だ。
ズバリ言って、長屋王の子息たちにも皇位継承権があるということ。
長屋王自身は、天武天皇の孫ではあっても、父親は太政大臣で、天皇ではなかった。従って皇子でもなく、皇位とは無縁だ。長屋王の「王」というのは、親王でも皇子でもない皇族というくらいの意味だ。
しかし子息に皇位継承の可能性があるとなると、俄然、政界での権威が高まることになる。
人々は長屋王ではなく、「長屋親王」と呼んだ、という記録も残っている。
もしも聖武天皇が若くして病没し、長屋王の子息が即位していたら、彼らの父は天皇ではなく、母方から天皇の血筋を引いて、即位が認められたことになる。
すなわち女系天皇が誕生していたことになる。
しかし女系天皇は実現しなかった。
光明皇后の兄の藤原四兄弟が、長屋王の邸宅を攻めて、一族を皆殺しにしてしまった。
そこから藤原一族の隆盛が始まることになる。
さらに光明皇后は女児と男児を産んだものの、男児が夭逝したので、女児を皇太子にするしかなかった。
古代最後の女帝の孝謙女帝(重祚して称徳女帝)だ。
持統女帝から、妹の元明女帝、その娘の元正女帝、さらに光明皇后の執政を経て、娘の孝謙女帝へ……。
飛鳥時代の末期と、奈良時代のほぼすべてが、女帝の時代であったということができる。
このあたりの経緯は、この連載の少しあとの方で詳述するつもりだ。
ここで言っておきたかったのは、奈良遷都を実現した元明女帝の詔勅によって、女系天皇の可能性が確かにあったということだ。
ぼくは現代の天皇について、何かを言おうとしているのではない。
今上天皇には女児しかおらず、いまの皇室典範では、天皇は男子と定められている。この皇室典範を改めない限り、女帝の誕生もないし、女系天皇もありえない。
ただこのルールは、世界的に見ても、前近代的なものではないだろうか。
王政を敷いている国は、ヨーロッパにいくつもあって、そこでは女帝がふつうに存在している。血筋によって王位を継承する場合に、第一子(長男または長女の早い方)に継承させるというルールを確立している国もある。
先進国のなかで、日本だけが、男尊女卑の慣習を、外交の表舞台ともいえる王室の基本ルールとしているのだ。
これはまずいでしょう、というくらいのことは、言っておきたい。
くりかえすけれども、ぼくはいまの天皇制度について、何かを提言しようとしているのではない。
ただ遠い将来、天皇家の子孫に、皇位を継承できそうな子どもが女児だけになったら、女帝になっていただいてもいいのではないか。そしてその子どもが、次の天皇になってもいいのではないか……。
イギリスのエリザベス女王の場合は、女王の産んだ皇太子が王位を継承した。そのように、日本の女帝の子が(男児であれ女児であれ)、皇位を継承するということも、ごく自然な流れとして認めていいのではとぼくは考えている。




