「女が築いた日本国」第二十四回 三田誠広

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第二十四回 堅塩媛と小姉君

 ぼくの話はすぐに横道に逸れる。
 話を本流に戻して、最初の女帝、推古女帝から歴代の女帝について語っていきたいと思っているのだが、その前に、欽明天皇の跡を継いだ天皇の母親について、話をしておきたいと思う。
 欽明天皇の後継者となった敏達天皇の母は、欽明の兄、宣化天皇の皇女の石姫だが、その次の用明天皇(聖徳太子の父)、さらにその次の崇峻天皇、そして推古女帝の母は、いずれも蘇我稲目の娘だった。
 天皇の母方の祖父を「外戚」と呼ぶ。
 外戚の地位を利用して大権力者になったのは、奈良時代の藤原不比等、平安時代の藤原道長などで、藤原一族の権勢はこの外戚システムによるものだ。
 天皇の即位は、父の天皇の死によってもたらされることが多い。ところが母親はまだ生きている。
 日本で一番偉い人……これが天皇なのだが、天皇は母を敬わなければならないし、その母は父を敬わなければならない。
 従って、天皇の母方の「おじいちゃん」が、日本で一番偉い人になってしまうのだ。
 おじいちゃんが亡くなっていると、天皇の母の兄が、その代わりとなる。
 このシステムの最初の利用者が、蘇我稲目であり、その子息の蘇我馬子だった。
 蘇我稲目には、堅塩媛と小姉君という二人の娘があった。読み方は「きたしひめ」と「おあねのきみ」とされている。
 用明と推古の母が堅塩媛、崇峻の母が小姉君だ。実際には稲目は亡くなっていたので、娘の兄にあたる蘇我馬子が大権力者になっていった。
 ところで、蘇我一族というのは、どこからやってきたのだろうか。
 蘇我氏の先祖は孝元天皇の曾孫武内宿禰に始まるとされている。これはもちろんインチキで、その孫にあたる蘇我満智という人物は、百済の高官だった林満智と同一人物だというのが通説になっている。何らかの事情で配下の兵とともに亡命した林満智が、越前の王の参謀となり、その子孫の蘇我稲目が、継体天皇とともにヤマトに乗り込んだ。
 そういうことではないか。蘇我稲目は満智の曾孫にあたる。祖父と父の名も、蘇我一族の系図に記されているのだが、その名前が、韓子、高麗ということになっていて、これはいかにもインチキ臭い。
 系図を作った人が、とにかく朝鮮半島から渡来した怪しい人物ということで、悪意をこめて適当な名前を考えたのだろうか。
 蘇我稲目にとっては、出自などどうでもよかったのだろう。
 継体天皇の側近として権力を掌握し、末っ子の欽明天皇にとっては、親がわりのような存在だったと考えられる。
 稲目は飛鳥の西方、軽(読みは「かる」)の地に居を定めた。ここは葛城山山麓の葛城の地に隣接したところで、どうやら葛城の女を妻にしていたらしい。
 神功皇后の側近として活躍した葛城襲津彦(読みは「かずらきのそつひこ」)は、応神天皇の重臣となり、一族の女を歴代の天皇に嫁がせている。
 従って葛城一族の女は、皇女と同等のステータスをもっていて、神宿る皇女と同じような霊力があると考えられていたようだ。
 そのことを察知して、稲目は葛城の女を妻としたのだろう。葛城襲津彦の父親は武内宿禰なので、蘇我氏のニセの系図も、そのあたりから生じたのだろう。
 稲目の妻からは跡継の馬子と弟の摩理勢が生まれた。
 それよりも重要なのは、堅塩媛、小姉君という二人の女児が誕生したことだ。跡継の子息よりも、娘が大事というのは、平安時代の藤原道長の例を見ればよくわかる。
 藤原道長は正妻が生んだ四人の娘を次々に天皇の妻として、その四人が太皇太后、皇太后、中宮、皇太子妃となるという、満塁ホームランのような状況となり、望月の歌を詠むことになった。
 権力者にとって、自分の娘を天皇に嫁がせ、次の代の天皇を産ませて、自らが外戚として君臨するというのが、権力の中枢に昇る最短の近道なのだ。
 二人の娘はまだ幼かったので、欽明天皇はまず兄の娘の石姫を妻として、敏達天皇が生まれた。続いて堅塩媛からは用明天皇、推古女帝。小姉君からは崇峻天皇が生まれた。
 推古女帝は敏達天皇の皇后になっている。日本史上最初の女帝の誕生は、皇后という地位から、神功皇后のように、王朝のピンチを救うために即位したものと考えられる。
 少しあとの時代になると、天皇の妻で皇后になれるのは、皇女に限るという慣例が確立されるのだが、蘇我の稲目の娘が生んだ推古女帝が皇后になったのは、母方が葛城一族で、皇女と同等の立場であったからだと考えられる。そのあたりも稲目は計算して、婿養子のような形で葛城一族と親交を結んだのだろう。
 堅塩媛が産んだ用明天皇が即位したことで、蘇我稲目は外戚の地位を確立した。その外戚という権益は、子息の馬子に引き継がれる。馬子は娘を崇峻天皇、聖徳太子、田村皇子(のちの舒明天皇)に嫁がせ、外戚となる布石を打っていく。
 残念ながら、その野望は、充分には果たされない。
 崇峻天皇は馬子自身によって放たれた刺客に暗殺され、聖徳太子は皇太子として、摂政という立場で政務を執ったものの、天皇にはなれなかった。舒明天皇の子息の古人大兄皇子も、大化改新で没落した(のちに暗殺)。
 蘇我氏の系譜は断たれたかに見えたのだが、かろうじて持統女帝に受け継がれることになる。大化改新のクーデターの直前に、中大兄皇子と呼ばれていたのちの天智天皇は、蘇我石川麻呂の娘を妻とした。そこで生まれたのが持統女帝だ。
 持統女帝は天武天皇の皇后だったので、そこから天武系の皇位継承が続いていくのだが、孝謙女帝と道鏡の乱脈が糾されたあとに、天智系の光仁天皇が擁立されために、持統の子孫の血脈もそこで断たれることになる。
 いずれにしても、有史時代に入って、蘇我稲目の娘たちが、用明天皇、崇峻天皇を産み、用明天皇の子息の聖徳太子が摂政となり、用明天皇の妹が敏達天皇の皇后となったあと、日本史上最初の正式な女帝、すなわち推古女帝として、歴史の表舞台を飾ることとなった。
 堅塩媛、小姉君という二人の女性の功績は大きい。
 この二人がどんな女性だったかについては、何の資料も残っていない。
 ただ二人の仲は、あまり良くなかったのではと言われている。
 というのも、堅塩媛系の用明天皇、聖徳太子、推古女帝と、小姉君系の崇峻天皇や、その兄の穴穂部皇子とは、犬猿の仲だったようだ。穴穂部皇子は、敏達天皇の没後、殯宮にいた皇后(のちの推古女帝)をレイプしようとして討たれているし、崇峻天皇も馬子によって暗殺されてしまった。
 それは聖徳太子と推古女帝を擁立した蘇我馬子が、堅塩媛の側についたということもあるし、穴穂部皇子が皇位を狙って、蘇我のライバルの物部一族に接近したということもある。
 よく知られているように、馬子は聖徳太子を味方につけて、物部一族を武力で滅ぼした。そのおり、聖徳太子が自らの手で木彫りの四天王像を作り、戦勝祈願をしたという伝説が残っている。その四天王を祀った四天王寺は、いまも大阪にある。
 このように、堅塩媛の系譜と小姉君の系譜が、国を二分するほどの戦さを起こしたのも、この姉妹がもともと、あまり仲がよくなかったのではないかと推察したくなる。
 一説によると、この二人は同母の姉妹ではなく、別々の場所に住んでいて、あまり交流がなかったという学説もある。
 いずれにしても、蘇我稲目、馬子が、娘を皇族に嫁がせて、外戚の地位を狙っていたことは明らかで、平安末期まで続いた外戚というシステムを最初に実践したのは、蘇我稲目だった。
 このシステムには、娘が天皇を産むということが欠かせない。
 女が築いた日本国というこの連載でも、天皇の母という存在の重要性がクローズアップされることになる。
 天皇の母は、国母と呼ばれる。
 天皇は直属の軍勢をもたないという話はすでにしたが、だからこそ、天皇の母や、母方の祖父が権威をもつと、天皇という存在はまったく無力になってしまう。
 蘇我一族の隆盛はそこから始まる。
 おそらく越の国から乗り込んできた田舎のおじさんにすぎない継体天皇が権力者になれたのも、配下の蘇我一族の軍事力があったからだ。
 軍事力のある蘇我一族が、外戚という地位を得る。
 それで名実ともに蘇我一族は、日本国を支配する権威を掌握することになった。
 話を先取りすることになるが、この外戚というシステムが壊れるのは、実は藤原道長の娘にある。
 道長の長女の彰子は、後一条天皇と後朱雀天皇を産み、孫の後冷泉天皇の時代まで健在だった。上東門院という院号を受けて、子や孫の天皇に対して、大きな権威をもっていた。この時代、日本で一番偉いのは、天皇ではなく、すでに亡くなった道長でもなく、上東門院彰子であったと考えられるのだ。
 彰子の母親の倫子は、左大臣源雅信の娘で、皇族の家系だ。臣籍降下した源一族は、藤原摂関家に対する抵抗勢力だった。従って倫子は夫の道長に対して批判的で、その母親の影響を受けた彰子も、父の道長の独裁体制には批判的だった。
 弟の頼通は、関白の地位にありながら、姉の言いなりになるしかなかった。頼通が宇治に平等院を建立して、そこに引きこもってしまったのは、姉の上東門院が独裁的な地位にいたからだと考えることができる。

三田誠広の歴史エッセー
「女が築いた日本国」 三田誠広数多の歴史小説を発表されている作家の三田誠広さんによる歴史エッセー「女が築いた日本国」が始まりました。第二十四回 堅塩媛と小姉君第二十三回 女系天皇の可能性第二十二回 田舎のおじさんの登場第二十一回 飯豊青皇女...