第二十五回 推古女帝はなぜ天皇になったのか
江戸時代に始まった男尊女卑の思想は、敗戦を契機にいくぶんかは緩和されたのだが、学者の多くは戦前のままの、頑固な思い込みを棄てきれていない。
古代の女帝は緊急の場合のつなぎであったり、陰で政治を支配する男の権力者の傀儡(あやつり人形)にすぎなかった、という見解を述べる学者が、いまでもけっこう多いのではないか。
ぼくのこの連載は、神宿る女、というところから話を始めている。むしろこの国は女性によって支えられてきたのだ、という文脈で話を進めてきた。
推古女帝の場合も、聖徳太子の偉大さが強調される時期が長く続いたので、聖徳太子と蘇我馬子が陰の権力者で、推古女帝は見かけだけに利用された傀儡にすぎなかったという話が、まことしやかに語られていた。
ぼく自身、子どものころは百円札、小学生のころは千円札、さらに五千円札、そして一万円札と、最高額の紙幣はつねに聖徳太子という時代に生まれ育ったので、聖徳太子はとにかく偉い、という考え方を刷り込まれている。
その反動なのか、「聖徳太子はいなかった」という学説が話題になったりもした。聖徳太子の一万円札を知らない世代は、そんなこと、どうでもいいじゃないか、と思うはずだが、ぼくのような老人の場合、聖徳太子を全否定されるのは、気分のよいものではない。それではあの一万円札は何だったのか、と言いたくなる。
それはともかく、ぼくは、まあ、聖徳太子はいたのじゃないかと考えている。
十七条憲法、冠位十二階、三経義疏、四天王寺、法隆寺、夢殿……。
これらのものが、何人かの政治家や宗教家が、共同で考案したとか、共同で創ったといった話は、ぼくには信じがたい。こういう画期的なものは、一人の天才が出現して、何から何まで一人でアイデアを出したと考えた方が、むしろ現実性が高いのではないか。
聖徳太子は早熟の天才だった。そのためすぐには天皇になれなかった。
曾祖父の欽明天皇が即位したのが三十歳だった。これが古来の不文律だ。欽明天皇自身、三十歳になるまでの間は、二人の兄につなぎの天皇になってもらった。そのことからもわかるとおり、この三十歳という不文律は、かなり重いものだったようだ(持統女帝が十五歳の孫に即位させたことでこの不文律は破られる)。
父の用明天皇が崩御した時、聖徳太子はまだ十四歳。これでは天皇にはなれない。臨時に立てられた崇峻天皇が暗殺された時も、まだ十八歳の若者だった。
天皇の暗殺という、政局の大混乱のさなかに擁立されたのが、敏達天皇(欽明天皇の長男)の皇后だった推古女帝だった。
敏達には四人も皇子がいたのだが、母親が蘇我一族ではなかったために、皇嗣とはされなかった。
推古女帝は用明天皇の同母妹で、堅塩媛の子だから、馬子にとっては姪にあたる。聖徳太子にとっては叔母ということだから、親族の女性を擁立して、一種の傀儡政権にした、という推察は、説得力をもっているように見える。
しかし、敏達天皇薨去のあとの殯宮で、小姉君の男児で崇峻天皇の兄にあたる穴穂部皇子が、皇后をレイプしようとしたという事件があった。
皇后をレイプして自分の女にしてしまえば、政権を奪取することができる、と穴穂部さんは考えたようだ。子どもっぽい短絡的な考えのようにも思えるのだが、穴穂部皇子はそれなりの見識をもった野心家だった。
蘇我一族と対抗するために物部一族に近づくなど、けっこうクレバーな人物だった。レイプという乱暴な行為にも、それなりの勝算があったのではないか。皇后にはそれだけの権威があった。そこがポイントだ。
天皇は軍勢をもたない。群臣の豪族たちにかつがれたお神輿みたいなもので、巫女としての皇后や皇女が神事を司るのを、そばで見ている神主さん、それが天皇なのだ。
だとすれば、天皇が薨去しても、まだ皇后には宗教的な権威が残っていると考えるべきだろう。
だからこそ、穴穂部さんは皇后が宗教行事をしている殯の宮に乗り込んだのだし、その穴穂部さんの弟の崇峻天皇が暗殺されるという大事件の混乱状況のなかで、聖徳太子と蘇我馬子は、神宿る皇后の権威に頼るしかなかったのだ。
実際に推古女帝は、雨乞いなどの神事を、自らが巫女となって実施している。神事を実施できるというのが、神宿る皇女の、権威の支えとなっていた。
ただ聖徳太子は早熟の天才だったので、推古女帝もこの若者を頼りにしていたことは確かだ。
聖徳太子の三経義疏は、推古女帝の要請によって、太子が女帝に仏教の基礎をレクチャーした、講義録だとされている。
ただの傀儡政権の操り人形に、仏教をレクチャーする必要はない。むしろ女帝の方に権威があって、太子にレクチャーを命令し、太子がそれに応えたのだろう。
三経義疏とは、三つの経典の解説書ということで、講義のためにセレクトされた経典は、法華経、勝鬘経、維摩経の三つだ。この三つを選んだのは聖徳太子だろう。
法華経というのは、仏教の教義の総合デパートのようなもので、入門書にふさわしい基本テキストだ。
勝鬘経はお釈迦さまの時代のガンジス河上流域にあったコーサラ国の王女で、隣国の王に嫁いだ勝鬘夫人の、仏弟子としての卒業資格を試す口頭試問の見事な解答を経典にしたもので、皇女で皇后でもあった女帝には、まことにふさわしいものだ。
維摩経は大乗仏教の奥深い原理を説きながら、小乗仏教(初期の上座部仏教)に対するユーモアたっぷりの批判を折り込んだ経典で、ここでは大乗仏教のスターの一人の文殊菩薩がツッコミ役、小乗仏教の代表者の舎利弗(舎利子)がボケ役に徹して、マンザイのようなやりとりが展開される。
たとえばこんなやりとりがある。釈迦の十大弟子の筆頭の舎利弗は、プライドをもっている。だが人間の弟子なので、空を飛ぶなどの超能力をもった菩薩たちには敵わない。とても丈の高い椅子に、菩薩たちはひょいと空中に飛び上がって座るのに、舎利弗はどうやっても座れない。
悔しい思いをしているところに、天女が舞い降りてきた。天女も神なので空を飛ぶことができる。悔しがった舎利弗は、とんでもない発言をする。
「あんたは神なのに、どうして女なのかね」
昔のインドにも、男尊女卑の風潮はあったようだ。仏教が起こる前に人々が信仰していたバラモン教では、バラモン僧になれるのは男だけとされていた。その点で、尼僧のいる仏教教団は画期的だった。しかし弟子の筆頭の舎利弗は、バラモン階級の出身だったので、女性を低いものと見ていたのだ。
すると天女は、何やら呪文を唱える。天女も神だから神通力をもっている。気がつくと舎利弗の姿が、女に変わってしまっている。
そこで天女が問いかける。
「舎利弗さん。あなたはどうして女なのですか」
舎利弗は困惑して答える。
「わかりません。気がついたら女になっていました」
そう答えてようやく、舎利弗は自分が差別意識をもっていたことに気づく。
こういう話を聖徳太子がレクチャーすると、女帝は大いに喜んだはずだし、仏教というものの優れたところを、即座に理解したのではと思われる。
聖徳太子は三十歳を過ぎても、天皇にはならなかった。それどころか、斑鳩に法隆寺と夢殿を作って、そこに引きこもってしまった。
蘇我馬子の独裁体制が進んだということもあるが、政務は女帝に任せておけばいいと考えたのかもしれない。
推古女帝の母は蘇我一族の堅塩媛だが、女帝は蘇我一族に対しても距離をとっていた。
そのことが晩年に大きな意味をもつことになる。
女帝には竹田皇子という男児があったが、病没していた。皇嗣の候補者としては、聖徳太子の子息の山背皇子、それに敏達天皇の孫にあたる田村皇子がいた。死を控えた女帝は、後継者の候補とされていた二人の皇族を招いた。
山背皇子の母は蘇我馬子の娘。蘇我の血が流れている。
田村皇子の母は敏達天皇の皇女で、蘇我一族とは無縁だ。
女帝は自らの意向を二人に伝え、群臣たちにも田村皇子を支持することを伝えた。
その結果、女帝の没後に、田村皇子が即位して舒明天皇となった。
さらに女帝は、すでに別の皇族に嫁いでいた宝皇女という、敏達天皇の曾孫を、離縁させた上で田村皇子の妻(のちに舒明天皇の皇后となる)とするように指示を出していたとされる。
田村皇子にも馬子の娘が嫁いでいたので、その子が皇嗣になるのはアブナイと推古女帝は未来を見すえていたのだ。この女帝の判断がなければ、蘇我の天下はもっと長く続いていたことだろう。




