「女が築いた日本国」第二十七回 三田誠広

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第二十七回 間人皇女の謎

 大化改新と昔は呼んでいたが、いまは乙巳の変と呼ばれている。
 三韓の使節を迎える板葺宮という当時の皇居内で、若い皇子が大臣を斬り殺したという、恐るべきテロリズムであり、驚天動地のクーデターだった。
 殺した側から見れば「改新」だが、殺された側から見れば、「事変」だから、こういう名称の変更は当然かもしれない。
 大臣の蘇我入鹿を殺しただけでは単なるテロリズムだが、首謀者の中大兄(のちの天智天皇)と中臣鎌足は、周到な計画を立てていた。
 女帝に限らず、この時代の天皇は直属の軍勢をもたない。つまり無力だ。皇極女帝の権勢は、蘇我一族の私兵によって支えられていた。蘇我一族は継体天皇とともに越の国から来たのだろうし、実際に渡来人の兵を多く抱えていた。
 総帥の蘇我蝦夷(読みは「えみし」/毛人とも書く)は、皇居を見下ろす甘樫の丘という高台に豪邸を築き、丘の麓に配下の大軍団を駐屯させていた。しかし蝦夷自身は政界からは引退していて、政務は子息の入鹿に任せていた。
 古来、「とものみやつこ(伴造)」と呼ばれた近畿の豪族は、最大勢力の物部と中臣が、蘇我によって滅ぼされていた。それでも越前から継体天皇を連れてきた大伴金村の子孫の大伴一族など、ヤマト周辺の豪族は他にもあったので、それらを糾合すれば、蘇我に対抗できる。
 二人は板葺宮の近くの飛鳥寺に、蘇我の専横に不満をもつヤマト周辺の豪族たちを結集させていた。飛鳥寺は本堂だけでなく周囲の回廊も矢や火災に強い瓦葺きで、砦としての機能をもっていた。
 さらに二人は、蘇我一族の分断を計った。
 蝦夷の弟の倉麻呂の子息、蘇我石川麻呂を味方に引き入れた。クーデターで真っ先に殺された大臣の蘇我入鹿にとっては従弟にあたる。三韓の使節を迎える儀式で、石川麻呂は使節の上表文を読み上げる担当をつとめていた。声がふるえたので怪しまれたという記録が残っている。
 板葺宮というのは、女帝の御座所があるだけの小さな建物で、使節はその前の庭に控えている。御座所のそばに群臣が入るスペースはなく、大臣の入鹿と、中大兄、蘇我系の古人大兄ら、限られた人数がいるだけだった。だから読み上げ係の石川麻呂を引き込むことは重要だった。
 そのため中大兄は、石川麻呂の娘を妻として受け容れている。これが持統女帝の母親だ。従って、持統女帝には、蘇我の血が入っている。
 クーデターによって蘇我入鹿は惨殺され、蘇我一族の母をもつ古人大兄は頭を剃られて仏門に入り(のちに暗殺)、政界からは引退していた入鹿の父の蘇我蝦夷も自害して、蘇我一族は滅びた。石川麻呂ものちに討たれ、蘇我一族では末弟の蘇我赤兄だけが天智天皇の側近として生き残ることになる。
 さて、このクーデターはなぜ起こったのか。
 蘇我一族を倒すのが目的であったことは明らかだ。そのまま放置すれば、蘇我の血を引く古人大兄が皇位に就くことになる。
 しかし別の理由もあったのではないか。
 皇極天皇となった宝皇女は、神宿る皇女だった(ぼくの仮説です)。
 そして、宝皇女の産んだ、中大兄(天智天皇)の妹の間人皇女(読み方は「はしひとのひめみこ」です)は、これはほんまもんの神がかりの女性だった(仮説です)。
 ここでもぼくの大胆不敵な仮説を提示しておく。
 中大兄はハムレットのようなマザコンだった。母親を深く愛していた。しかし同時に、母親とそっくりの美貌だった同母の妹を溺愛していた。
 クーデターの原因は、若い大臣の蘇我入鹿が、神宿る女帝にあまりにも接近しすぎたからではないのか。これが母を溺愛する中大兄には許せなかった。
 クーデターのあと、女帝は皇位を剥奪される。
 天皇が崩御して、皇嗣が即位するというのが、通常の皇位継承だが、天皇が生存しているのに皇位から降ろされるというのは、異例の事態だ。
 代わって即位したのが、女帝の弟の孝徳天皇だった。この即位も、異例の事態といっていいだろう。
 舒明天皇の皇后だった宝皇女が夫の死後に女帝として即位するのは問題はないが、宝皇女も弟も、敏達天皇の三世孫(曾孫)だから、少し系譜がスッとんでいるように思える。
 この即位が可能だったのは、中大兄の妹の間人皇女が皇后に立てられたからだった。
 政変が起こったあとは、神宿る皇女がカリスマとなって政権を支える。古来、くりかえされてきたことが、ここでも踏襲された。
 この時の間人皇女は、ほぼ女帝といっていい立場だったと思われる。女帝からその娘への皇位継承。神宿る皇女から、同じく神宿る皇女へ。これなら誰も文句は言えない。
 孝徳天皇も自分の立場が弱いことは承知していた。それで飛鳥から離れることを決意して、難波宮に遷都したのだが、以前から親交があり内臣として政権を支えてくれた中臣鎌足の他には、誰も従わなかった。
 遷都の時には難波宮に移った皇后の間人皇女も、すぐに飛鳥に戻ってしまった。中大兄と間人皇女は、相思相愛の仲だったのだ。この二人は同母の兄妹だから、これは禁断の恋というべきだろう。何ともスリリングな展開だ。
 古代の慣習では、異母の兄妹の場合は、婚姻が可能だ。むしろ奨励されてさえいた。聖徳太子の父の用明は堅塩媛の子だが、母は小姉君の子で、異母の兄と妹の婚姻だった。推古女帝も異母兄の敏達天皇に嫁いでいる。
 平安時代の皇居では妻妾同居が当たり前だったが、古代においては、母が異なれば別の場所で生まれ育つ。だから兄と妹という実感がないので、婚姻も可能だったのだ。
 中大兄と間人は、同母の兄と妹だ。この関係は禁忌であり、婚姻はおろか「まぐわい」も許されない。
 ところが、孝徳天皇がこんな和歌を残している。
  〽金木着け吾が飼う駒は引き出せず吾が飼う駒を人見つらむか
 (固い木につないで飼っていた駒に乗ることができない、誰かのせいで……)
 もちろん飼っていた駒とは皇后間人のことで、その間人と親しくしていたのは、兄の中大兄ということだろう。
 孝徳天皇が失意のなかで病没したあとは、中大兄による独裁が始まる。
 だが、天智天皇としてただちに即位したわけではない。
 まだ三十歳になっていないから、即位はできないのだ。本当は妹を女帝に立てたかったのかもしれないが、もちろん妹もまだ若い。
 そこで中大兄が擁立したのが、退位したはずの母親だった。これはまさに苦肉の策だろう。践祚して斉明女帝。一人で天皇を二回やるという空前(絶後ではない)の事態は、このようにして実現したのだった。
 むろん女帝はかなりの年齢に達していたので、神宿る皇女としての神秘性は失われていたはずだが、マザコンの中大兄にとっては、愛する母親だった。
「母さん、お願いだ、もういっぺん、天皇になって……」
 そんな息子の頼みを、女帝も断れなかったのだろう。
 愛人の大臣が息子によって殺されるという、稀有な体験をした女帝は、それでも息子のために、女帝という重責を担うことになった。
 そして白村江の戦いという、とんでもない戦争を起こした時も、権力の座にあったのは斉明女帝だった。
 ただ体調はよくなかったようで、飛鳥から九州の行宮に移動する時に、途中の道後温泉で長く逗留していた。その長い逗留のあとで出発する時に、宮廷歌人の額田女王が詠んだ和歌が残されている。
  〽熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
  (温泉近くの港で潮の流れが変わる合図の月の出を待っていた。さあ、出発だ)
 もちろんこれは宮廷歌人が女帝の代理として詠んだものだ。
 九州に着いたものの、斉明女帝はそこで亡くなった。
 葬儀は飛鳥で実施されたのだが、何と戦さが始まる直前だというのに、中大兄は母の遺骸とともに飛鳥に帰ってしまった。
 最後まで中大兄はマザコンだったのだ。
 戦さのリーダーである皇太子が、いなくなってしまった。
 これでは兵たちの士気は上がらない。
 敵の新羅が大唐帝国と同盟を結び、援軍として唐の軍船が待ち受けていたので、日本軍は大敗することになるのだが、そのころ中大兄は、母親を亡くした悲しみで、引きこもり状態になっていたのだった。

三田誠広の歴史エッセー
「女が築いた日本国」 三田誠広数多の歴史小説を発表されている作家の三田誠広さんによる歴史エッセー「女が築いた日本国」が始まりました。第二十七回 間人皇女の謎第二十六回 皇極・斉明女帝の謎第二十五回 推古女帝はなぜ天皇になったのか第二十四回 ...