「女が築いた日本国」第二十八回 三田誠広

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第二十八回 額田女王の謎

 今回は額田女王の話をしよう。
 額田女王(読み方は「ぬかたのおおきみ/額田王とも表記」)は謎の女性だ。鏡王の娘ということになっているが、鏡王という皇族はどの記録にも出て来ない。つまり出自がまったくわからないのだ。
 この額田女王とは別に、鏡王女という女性が存在し、和歌も遺している。さらにこの女性は中臣鎌足の妻だとされ、晩年に「藤原」という氏姓を賜った鎌足の菩提を弔って藤原一族の氏寺を建立した。これが興福寺の起源となっている。
 この連載の「第三回/小倉百人一首の一番歌」でも、このことは述べたので、詳述はしないが、「鏡王女」というのは固有名ではなく、「鏡王の息女」という意味なので、額田女王と同一人物だろうとぼくは思っている(姉妹だというのが定説だが)。
 で、鏡王って誰なの? ということになるのだが、謎というしかない。
 彼女はどこで生まれ、どのようにして宮廷歌人になったのか。
 古代の人の幼名は、育った土地に関するものが多い。皇族の多くは、乳母の実家など、宮廷ではないところで育ち、その土地の名で呼ばれる。
 法隆寺の近くに額田部という地名がある。
 注目すべきなのは、推古女帝の幼名だ。
 額田部皇女(読み方は「ぬかたべのひめみこ」)というのがその名だ。
 額田というのは、ぬかるんだ田ということだろうから、どこにでもあるような地名だが、奈良盆地の中央のあたりは、湿地帯が多く、水田などもあったと思われる。
 おそらく額田女王も大和で生まれ育ったのだろう。
 斉明女帝が休養していた道後温泉(熱田津)を出発する時の和歌を額田女王が詠んでいることから、宮廷歌人であることは明らかだが、朝廷との最初の関わりは、大海人(天武天皇)の妻となったことだろう。
 額田女王の和歌でよく知られているのは、近江の蒲生野の遊猟のおりに詠んだ、大海人との相聞歌だろう。
 白村江での大敗のあと、天智天皇は大唐帝国が追撃してくることを恐れ、王都を大和の飛鳥から、近江の大津宮に遷した。大和を流れる大和川は、生駒山と信貴山の間を通って難波の海に到達する。滝も早瀬もないので、小舟なら遡ることができる。
 唐軍が難波まで来ると、そこから小舟で一気に攻め上ってくるおそれがあった。
 琵琶湖の水も淀川を通じて難波まで流れているのだが、宇治のあたりが早瀬になっていて、船では遡れない。
 しかし唐の使節が来訪して、九州北岸の防護壁や、瀬戸内の小島に築かれた城砦を見て、進撃を諦めたようで、近江大津では平穏な日々が続いた。
 そこで琵琶湖を見下ろす丘の上で、男たちは狩猟に興じたのだが、女たちは紫野という皇室領で宴席を開いていた。
 その女人禁制の宴席に、大海人が近づいてきたので、額田はこんな歌を詠んだ。
  〽あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
  (紫草の生えた神聖な領域であなたが袖を振る、番人が見ていますよ)
 標野というのは皇室領を示す立入禁止の標識が立った領域のこと。ここでは女ばかりの宴会なので、男子禁制の標識が出ていますよと、冗談で言っているのだ。
 そこに男が入ってきて、袖をふって誘惑しようとする。
 そんなことをすると、番人が見ていますよ、という警告の歌だ。
 番人というのはもちろん、いまは額田女王の夫となっている天智天皇を指している。
 これに対して、大海人はこのような歌を返した。
  〽紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我恋ひめやも
  (紫草のような香り高い人を好きだから、危険を侵して人妻のもとに来たのだよ)
 二人はかつて夫婦だった。しかし別れてから長い年月が経過している。二人の間にできた娘の十市皇女は、天智天皇の長男の大友皇子の妃となり、葛野王という子息も生まれている。
 額田女王は宮廷歌人であると同時に、天智の愛人として宮中で暮らしている。そこは後宮と呼ばれる男子禁制の場所だから、大海人も容易には近づけない。
 だがその日は、野外での遊興の催しで、男たちが狩猟に出ている間、女たちだけで宴を開いていた。そこに大海人は現れたのだ。
 相聞歌に見えるこの歌のやりとりは、宴席での座興だといわれている。果たしてそうか。大海人には、かなり未練があったのではないだろうか。
 額田女王が鏡王女と同一人物だとしたら、この直後に、孕んだ額田は藤原鎌足の妻となり、興福寺の元となった寺を建てることになる。その子は藤原一族の祖となる不比等だ。
 額田女王は夫の死後も宮中に仕えていたようで、そうすると娘の十市皇女の悲劇を目の当たりにしたはずだ。
 白村江の戦さのために、まだ中大兄と呼ばれていた天智天皇は、母の斉明女帝とともに、九州の那大津(福岡)の行宮に移った。途中で長く道後温泉に逗留した時も、九州に移ってからも、皇族の子どもたちは狭い建物でともに暮らしていた。
 十市皇女は、大海人の長男の高市皇子と、相思相愛の仲になった。二人とも大海人の子だが、母が異なれば婚姻も可能だった。
 十市と高市。似合いの夫婦にも見えたのだが、天智は長男の大友に十市を嫁がせた。壬申の乱で、高市は大海人の軍勢の将軍として大津宮を攻め、大友を討った。
 十市としては、愛する人が自分の夫を殺したことになる。しかし十市の愛は冷めなかった。十市と高市は再び愛し合うことになる。
 これを見て危機感を覚えたのが、のちの持統女帝だ。
 持統には実子の草壁皇子がいる。壬申の乱で活躍した高市に比べて、病弱な草壁は戦さに加わることができなかった。群臣たちは高市を評価している。
 高市は長男だが、母親は宗像水軍を率いる九州の豪族の娘だ。だから皇位継承権をもたないと見られていた。しかし皇后に等しい立場(夫の大友皇子が弘文天皇となったのは明治になってからだが、天智の皇嗣として政務を執っていた)にあった十市を妻に迎えたとしたら……。
 すでに天武天皇の世になっているから十市は皇女だ。母の額田女王も、皇族とされている。しかも斉明女帝に代わって出陣の和歌を詠むほどの宮廷歌人だ。日本は言霊のさきわう国と言われた。祝詞と同じように、和歌で用いられる言葉には、神秘的な霊能があると考えられていた。従って宮廷歌人の額田女王には、「神宿る皇女」と同じような、神秘性があったはずだ。
 十市は皇女であり、先の皇后だという認識を群臣たちはもっていた。その十市を妻とすれば、高市の評価が高まることは確実だ。
 そのことを、持統は恐れた。
 持統としては、この二人の結婚を、何としてでも阻止せねばならなかった。
 おそらくは持統の指示で、十市は伊勢斎宮に指定される。卜定という一種の「うらない」で選ばれたことになっているが、明らかに持統の意思が反映されている。
 ヤマト盆地のなかに禊のための祭場が設営され、しばらくそこにこもってから、十市は伊勢に向かうことになっていた。
 十市が祭場にこもった翌日、天武と持統が視察のために祭場に赴くと、そこには自害した十市の遺骸が残されていた。
 そのありさまを、宮廷歌人の額田女王は、持統のそばで見ていたはずなのだ。
 天武や持統の時代になると、宮廷歌人としては柿本人麻呂が台頭していた。晩年の額田女王は女官として持統に仕えていたのではと思われる。
 ところで中臣(藤原)鎌足には定恵という長男がいる。孝徳天皇から下げ渡された安見児という女官が産んだ男児で、生まれるとすぐに仏門に入り、さらに留学僧として唐に渡った。
 孝徳天皇には有間皇子という嫡子がいたのだが、蘇我一族に殺されている。定恵にも落胤という噂があったはずで、政争のタネになることを恐れて、唐に派遣したのだろう。ところがこの定恵は、帰国して怪しい動きを見せるようになった。その結果、何ものかに抹殺されてしまった。
 こういう先例があったので、次男の不比等が生まれた時も、父の鎌足は用心して、渡来人の漢学者田辺大隅に預けることにした。自分の跡継の武人にするのではなく、学者として生きるということにしておけば、安全だと考えたのだ。
 不比等という名前も、師の田辺大隅が「ふひと(史)」という姓(かばね/身分を表す呼称で、氏族の固有名の「氏」と合わせて「氏姓」という)をもっていたので、そこから名づけられた。
 父の藤原鎌足が没した時、不比等は11歳にすぎなかった。幼い時に父親が亡くなってしまうと、後見するものがなく、出世のチャンスを失ってしまうところなのだが、不比等は持統の実子の草壁皇子の側近という、重要な仕事を任された。これは持統が、不比等を自分の弟だと認めていたからではないか。
 やがて跡継の珂瑠皇子(のちの文武天皇)が生まれると、不比等は自分の娘の宮子を嫁がせる。持統女帝、元明女帝、元正女帝という女帝の時代に、権力者として台頭していく。
 さらに文武天皇の乳母であった三千代という女を後妻として、生まれた安宿媛(光明子)を文武の子息の首皇子に嫁がせる。すなわち光明皇后と聖武天皇だ。
 このような不比等の出世の陰には、額田女王の尽力があったと考えられる。
 藤原不比等の異例の出世を見ると、天智の落胤説というのも、藤原一族のただの願望ともいえないのではと思えてくる。

三田誠広の歴史エッセー
「女が築いた日本国」 三田誠広数多の歴史小説を発表されている作家の三田誠広さんによる歴史エッセー「女が築いた日本国」が始まりました。第二十八回 額田女王の謎第二十七回 間人皇女の謎第二十六回 皇極・斉明女帝の謎第二十五回 推古女帝はなぜ天皇...