
第三十三回 光明皇后と紫微中台
持統女帝と藤原不比等が夢に描いた藤原京は、唐の長安を模したといわれている理想の王都だ。幅の広い道路を碁盤の目のように縦横に走らせ、中央に新宮殿を建設するところまでは実施された。だが道路は通ったものの、王都としては機能しなかった。
旧都明日香から近すぎた。群臣の豪族たちが明日香の自宅から通ってくるだけで、王宮の前に割り当てられた土地に、新たな邸宅を建てようとしなかった。そのため開通した道路の左右は、雑草が生い茂る荒れ地となってしまった。
また旧都の明日香は盆地の南端で清流があり、水捌けもよかったのだが、藤原京は盆地の中央にあって、湿地が多く、水捌けがわるいので、王宮周囲の排水に苦労することになった。わき水などはなく、飲み水にも苦労した。
そこで持統女帝の跡を継いだ元明女帝と不比等は、盆地北部への遷都を決断する。
藤原京と同じように、道路を縦横に走らせてはいるが、山が迫っているので正方形にはなっていない。
内裏は東西の中央で、南北でいえば北端に位置している。大内裏と呼ばれる広大な敷地が皇居にあてられ、その東側に隣接して、藤原不比等の邸宅が建設された。大内裏とは地続きで、いつでも自由に移動できた。
不比等の邸宅には妻の三千代がいて、皇太子と皇太子妃が育てられているのだから、内裏の一部といってもいい。この不比等邸は、光明皇后の時代には、法華寺という尼寺となり、光明皇后の福祉活動の拠点となった。
光明皇后の社会活動や福祉活動については、伝説として多く語られているので、ここでは省略する。病人や貧民を救済するなど、すごい女性だったということは、誰もが知っている。
聖武天皇は病弱だった。天智天皇の怨霊を恐れて何度も皇居を移転したり、大仏造営の候補地を二転三転させたり、聖武天皇には優柔不断なところがあって、偉大な人物とは思えないところがある。
それに対して光明皇后は、こうと思ったらやりとげてしまう意志の強さが感じられる。この時代は皇后独裁と見ていいのではないか。このような独裁が可能だったのは、幸運もあった。
光明皇后は天智天皇や持統女帝のようなカリスマではない。ただ律令制度の確立で、地方豪族の勢力が弱くなっていた。光明皇后はやりたい放題で、自分に関する「美談」を世に弘めることができたのだが、政務に関しては補佐役が必要だった。
晩年の持統女帝や、後継者の元明女帝の場合は、藤原不比等という優秀な補佐役がいた。光明皇后の父にあたるのだが、すでに亡くなっていた。
四人の兄も長屋王一族を抹殺した直後に亡くなった。長屋王の呪いだといわれているが、伝染病のせいだろう。
光明皇后が頼ったのは、異父兄の橘諸兄だった。
母の橘三千代が、先夫の美努王との間に設けた子息だ。
末端の皇族として生まれたこの人物には、 それなりの学識と見識があり、有能だった。
しかし兄というものは、厄介なところがある。
独裁者となった光明皇后に対して、見識をもっている兄は、思いどおりにならない目障りな存在だった。
配下の官僚なら、独裁者の思いどおりに動いてくれる。東大寺の大仏造営や、新薬師寺という広大な寺院の建設に期待をかけている光明皇后にとって、そういう事業を推進してくれる、信頼できる配下が必要だった。
お手頃の人物が現れた。博識だが、計算高く、権力者にはゴマをすりながら、下級の役人はしっかり統率できる、有能な人物。
しかも若くてハンサム。寝たきりの夫に不満をもっている光明皇后を、優しく慰めてくれるホワイトナイト。
南家の藤原仲麻呂。光明皇后にとっては甥にあたる人物だ。
この藤原仲麻呂という人物は、単に藤原一族の歴史のなかだけではなく、日本国の歴史のなかでも、最大の独裁者だといっていいだろう。
仲麻呂について語る前に、藤原四家について説明しておく。
藤原不比等の邸宅は、光明皇后が相続して法華寺となったので、不比等の四兄弟は皇居の近くにそれぞれ自分の邸宅をもった。これが藤原四家だ。
長男と次男の邸宅は敷地が隣接していて、長男が南、次男が北に住んでいたので、南家、北家と呼ばれた。ちなみに平安時代の摂関家は北家で、紫式部や藤原定家など傍系の藤原一族もすべて北家から分かれている。
南家は漢学者の家系としてかろうじて子孫を残した。三男は式部卿だったので式家、四男は京職の長官だったので京家と呼ばれたが、後継者はほとんど残っていない。つまり藤原一族といえば北家を指すことになり、南家の藤原仲麻呂の子孫をほとんど残っていないことになる。逆賊として討たれたのだから、直系の子孫はそこで断たれたのだ。
藤原仲麻呂は四兄弟の長男、藤原武智麻呂の次男だったが、兄が出世意欲のない堅物の漢学者だったので、にわかに台頭して、官僚として実績を残していった。
病床にあった聖武天皇にも認められ、光明皇后の公認の側近となった。
夫が長く病床にあることを考慮すれば、愛人だと考えてもいい。
聖武天皇が崩御すると、皇太子に立てられていた阿倍皇女が即位して孝謙天皇となる。母親の光明皇后は健在だから、皇太后となった光明皇后による独裁政権が続いていく。
左大臣の橘諸兄も健在で、光明皇后と藤原仲麻呂の懇ろな関係に批判的だったのだが、仲麻呂は武官として軍事を掌握していたため、やがては左大臣を無視して、藤原仲麻呂による独裁体制が構築されていく。
これに対して諸兄の子息の橘奈良麻呂が反乱を起こすのだが、朝廷の軍勢を支配している仲麻呂は、たちまち鎮圧してしまう。この結果、諸兄は失脚することになった。
藤原仲麻呂は皇太后となった光明皇后の独立した行政機関として、紫微中台という役所を設立して自ら長官となった。当初は紫微令と呼ばれていたのだが、さらに紫微内相に格上げして、この皇太后の行政機関が国を支配することとなる。
それまでなかった役所を創って、そこを最高機関としたので、仲麻呂は何でもやりたい放題の独裁者となってしまった。
即位した孝謙女帝は、まったくの無力だった。数え年十六歳だからまだ中学生くらいだ。しかも母親の光明皇后は長く政務を独裁する女傑であったから、母親に反抗することもできない。
いまからぼくが指摘することは、女性差別と受け止められかもしれないが、ぼくはある時期から、仲麻呂は女帝と情を通じていたのではと考えている。これは邪推だろうか。母と娘の双方の愛人となって、実質的にこの国を支配した。
それが藤原仲麻呂なのだ。
母と娘をともに愛人とする。そういう人は、いまの世でもいないわけではないだろうが、何しろ相手が皇太后と女帝なのだから、この二人を愛人として自らの独裁政権を築いた藤原仲麻呂は、すごい人物であったというしかない。
平安時代の「望月の歌」を詠んだ藤原道長も、二人の妻の他には愛人はいなかったし(紫式部は別として)、本妻の源倫子には生涯、頭が上がらなかった(道長は左大臣家の婿養子だった)。それに比べれば、藤原仲麻呂の権力は圧倒的だった。
天皇の臣下でありながら、これほど圧倒的な権力を掌握した人物は、他にはいない。
仲麻呂の独裁を許したのが、光明皇后だった。
これを見ていた孝謙女帝が、やがて道鏡禅師を愛人として、独裁政権を築いていく。
奈良時代はまさに、女が支配した日本国とでもいうべき状態だった。
光明皇后は貧民と病人の救済で、偉大な皇后として歴史に名を刻んでいる。さらに聖武天皇の遺品を収蔵する正倉院を建てたことでも知られている。持統女帝に匹敵する女傑であったといってもいいだろう。
で、藤原仲麻呂って誰?
この名前は、歴史の教科書でも習わないのではないか。
いや、仲麻呂でしょ、知ってるよ……という人がいるかもしれない。そういう人は同じ「仲麻呂」でも、阿倍仲麻呂と勘違いしているのではないだろうか。
〽あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
(天空を見上げれば月がある、あの月は奈良の三笠山の月と同じだね)
小倉百人一首にも収録されているこの歌を詠んだ阿倍仲麻呂さんは遣唐留学生で、中国で官僚として出世したのでついに日本に帰ってこなかった人だ。だから日本の歴史にはほとんど痕跡を残していない。ただ歌だけが残っているという珍しい人物だ。


