「女が築いた日本国」 第一回 三田誠広

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第一回 神宿る女――天照大神はなぜ女神か

 女が築いた日本国、というタイトルでこの原稿を書き始めたのだが、タイトルを書いた途端に気になった。
「女」というのは差別語ではないか。
 近ごろは、男と女を区別すること自体が差別的なのだと考える人もいるようなので、少しだけ弁解をしておく。
 ぼくは古代のことを語ろうとしている。これは昔の話なのだ。
 従って、タイトルに掲げた「女」というのは、「昔の女」というふうにとらえていただきたい。
 さらに、これからお話しすることになるのだが、ぼくが「女」という言葉で示しているのは、より厳密にいえば、「神宿る女」というような意味だ。
 神は、女に宿る……。
 これが大前提だ。
 もちろん、男にだって宿ることはある。そういうことで言えば、大きな石に宿ることもあるし、山や、川や、滝や、何にでも、神は宿ってしまう。
 日本の神さまは、どこにでもいる。
 街角に、小さな稲荷神社の祠があったりする。会社のビルの屋上に、鳥居が立っていたりする。新しいビルの建設が始まる前には、必ず地鎮祭をやる。これはもともとその土地にいる地霊に、怨まないでくださいとお願いする、霊鎮たましずめの儀式だ。
 神社なんかに行けば、大きな樹木に、シメ縄や、幣束へいそくがかかっていたりする。あれも神さまなのだ。
 ぼくは関西出身だが、流しに熱いお湯を流すと母親に叱られた。
「流しの神さんが、やけどしはる」
 というのがその理由。
 とにかく、日本の神さまは、どこにでもいる。
 それでも、神さまのお告げを語ったり、雨乞いをしたりするのは、女の役目だと昔の人は考えていた。
 神は女に宿る。
 女の人は、神がかりになりやすい。
 一種のヒステリーなのかもしれない。
 またあわてて註釈をつけることにするけれども、ぼくは女の方がヒステリーになりやすいと言っているわけではない(そうかもしれないとは思っているけれど)。
 歴史的に見て、女性は、神がかりになりやすいと、古代の人は考えていた。
 これは確かなことだ。
 そして、神のお告げを、女性に求めた。
 神社には昔から、巫女みこと呼ばれる女性がいた。
 恐山のイタコとか、沖縄のノロとか、神がかりになる女性が、いまも存在している。
 皇女や皇后が、雨乞いの神事をしたという記録も残っている。
 そもそも八百万やおよろずの神といわれるほど、あまたある神さまのなかで、最上位にランクされているのは、天界の女王、天照大神あまてらすおおみかみだ。
 つまり、女の神さまが、いちばん偉い、ということになっているのだ。
 それはなぜか。
 この第一回は、そこから話を始めることにしよう。
 神話のはじめの方には、「ひるめ」という言葉が出てくる。「昼の女」ということだろうが、これは「太陽の妻」または「太陽の娘」というものを想定して、その女性が、太陽を自在にコントロールできると考え、こういう呼び方をしたのだろう。
 太陽を自在に操ることのできる女……。
 つまり日の神の巫女。
 すなわち「卑弥呼ひみこ」だ。
魏志倭人伝ぎしわじんでん』に出てくる卑弥呼は、倭国の女王として、鬼道きどう/まじないによって国を安定させた、と記されている。
 そもそも「倭人伝」の「倭」というのは、「わが国」の「わ」みたいなもので、とくに国の名称として用いられたものではないはずだが、中国人が国の名だと考え、こんな文字をあててしまった。
「倭」という文字には、「萎縮いしゅく」の「萎」や、「矮小わいしょう」の「矮」と同じように、「委」という文字そのものに、「小さな」といったニュアンスがある。
 にんべんがついているから、「小さな人」といった意味になり、明らかに差別的な表現だ。
 そのことに気づいたわが国では、やがて「倭」ではなく、「和」の文字をあてて、とりあえずは国の名としていた時期もあった。
 いまでも「和食」「和服」「和英辞典」など、わが国のものを「和」で示すことは少なくないが、「倭」が用いられることはなくなった。
「卑弥呼」という文字も当て字で、「卑」は明らかに蔑視的な表現だ。
 これは「日の巫女」ということだろう。
 魏は漢のあとを受けた国で、中国四千年の歴史の半分以上が経過していた。歴史の古い中国では、歴代の王は男性と限られていたので、女の巫女がまじないによって国を支配するなどというのは、野蛮な国と感じられたはずだ。
 のちのことになるが、推古女帝の時代に隋に親書を出した時も、女帝が支配していると伝えると見下されるという配慮から、聖徳太子が代理で「日出ずるところの天子」と自称して親書を送ったほどだ。
 だが、中国にどう思われようと、わが国には、女性の支配者がいた。
 古来、わが国では、太陽を大事にしていた。
 稲作をするようになって、米の生育には真夏の日照が必要であり、田植えの時期には雨が欲しい。とにかく、太陽のごきげんをとるしかないということで、必然的に太陽信仰が生じた。
 その太陽を支配する巫女。
 これが日の巫女だ。
 神宿る女が、国を支配する。
 これは統一される前の日本各地に(少なくとも西日本の地域に)広まっていた慣例であったと考えられる。
 ともあれ、日本は巫女がことほぐ国であったことは確かなのだが、天照大神が女神だということになったのは、別の理由があるのかもしれない。
 これはぼくの私見ではあるのだが……。
 稗田阿礼ひえだのあれ持統じとう女帝にゴマをすった。
 これがぼくの考えだ。
 稗田阿礼は、『古事記』を一人で語りきったとされる語り部だ。
 その『古事記』の編纂を企画したのは、天武てんむ天皇だが、天武が亡くなったあとは、皇后の持統が女帝となった。
 皇位を継承するはずの実子の草壁皇子くさかべのみこが亡くなり、孫が成人するまではと頑張って、長く女帝の地位を守り抜いた。
 当時は三十歳にならないと天皇になれないという不文律があった。そのため聖徳太子も天智天皇も、長く皇太子のままで政権に参画していたのだが、持統は孫が十五歳になったのを機に前例を無視して、文武もんむ天皇を擁立し、自らは上皇として君臨した。
 いまから振り返れば、空前絶後の大権力者だった。
 阿礼さんが、権力者の女帝をたたえて、一番偉い神さまを、女神にした。
 そういうことではないか。
 このことについては、次回、さらに詳しく語ることにする。

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