第八回 山の神と海の神
日本は自然に恵まれた場所だ。
気候は温暖で、四季があり、穀物や果実がよく育つ。海からは魚がとれる。
山と海。これが重要だ。
ただ太陽があるだけでは、砂漠のような不毛な場所にしかならない。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、砂漠で生まれた宗教だ。砂漠には、太陽の他には何もない。だから神は唯一神で、絶対的な存在となる。
居丈高で、理屈っぽく、強引に信仰を迫る。
日本の神々は、のんびりしている。アマテラスといえども、絶対的な存在ではない。緑豊かな山と、青い海の輝きがある。広大で豊かな存在がぼくたちを取り巻いている。海の水が蒸発して雨となり、雨が谷や川や扇状地などの豊かな地形を造っていく。
山と海。これを太陽が照らすから、豊かな実りが得られるのだ。
太陽神アマテラスの孫のニニギ(邇邇藝)は、国津神である山の神、海の神の娘たちと婚姻をすることによって、地上の支配者としての道程を進んでいく。
山は、たくさんある。
山の一つ一つ、小さな峰の一つ一つに、神が宿っている。
険しい山の頂上には、必ず神社がある。
山は、神さまなのだ。
だから山の神もたくさんいる。
のちに仏教が入ってきて、本地垂迹などというアイデアで、日本の神さまはすべて、仏さまの仲間の如来や菩薩なのだということになった。
一枚のタペストリーに仏や菩薩がぎっしり並べて描かれた胎蔵界曼陀羅という図像があるけれども、あれは日本人にとっては親しみやすいイメージだ。
どこに行っても、山がいっぱいある。その山の一つ一つが、仏や菩薩だと考えれば、それだけであらたかな感じがする。
とはいえ山は山脈をなしている。すべての山は地続きだといってもいい。
そこで山の神さまの総合的なキャラクターとして、オオヤマツミ(大山祇)という神さまが考えられた。
その娘が、コノハナサクヤ(木花開耶)姫だ。
富士山の周囲には、富士宮側にも河口湖側にも、浅間神社がある。祀られているのはオオヤマツミとコノハナサクヤ姫だ。
とくにこの女神は、空を飛んで桜の花を咲かせる、といった感じの絵が描かれているので、多くの人々にとってなじみぶかいものになっている。
猿田彦の案内で、日向の高千穂の峰に降り立ったニニギは、コノハナサクヤ姫を妻に迎える。
天津神の女王の孫と、地上の山の神の娘が結ばれる。
これは西日本から畿内にかけての地域に広まっていた出雲系の住人と、のちに九州から畿内に進出していった日向系の住人との、神話のすりあわせと考えることもできる。
そのニニギとコノハナサクヤ姫との間に生まれたのが、海幸彦と山幸彦だ。
大国主が兄たちにイジメられたように、山幸彦も兄にイジメを受けて、なくした釣り針を探しに海の底に赴く。
そこにはワダツミ(綿津見)という海の神さまがいて、その娘のトヨタマ(豊玉)姫と結ばれる。
つまり天から降ってきた神は、山の神と海の神の双方とウケヒを結んで、いわば根回しをしたことになる。
海の神の宮殿は、竜宮城のようなところだ。飲めや歌えの宴会が毎日続く。そこで時を忘れて遊興にふけっていたのでは、浦島太郎になってしまうところだが、山幸彦は海の底に来た目的を思い出した。釣り針を探さなければならない。
ワダツミの配下の魚たちを集めて、喉に釣り針を引っかけたままになっている魚を発見する。
その釣り針をもって帰ろうとすると、トヨタマ姫もついてくる。それだけでなく、幼い妹のタマヨリ(玉依)姫までついてきてしまう。
豊玉姫が持参した塩盈玉と塩乾玉という魔法のアイテムの威力によって、兄との闘いに勝利した山幸彦は、トヨタマ姫と幸せに暮らした……ということなら、話はそこで終わってしまうのだが、そういうことにはならない。
妊娠したトヨタマ姫は、海岸に産屋を建てて、これから子を産む、というところで、夫の山幸彦に、このように言い渡す。
「わたくしが子を産むところは、けっして見ないでください」
こんなことを言われてしまっては、どうしても見たくなってしまう。
山幸彦はこっそりと産屋をのぞいてしまう。
そもそもこの産屋は、柱を建てたものの、あたりに茅などが生えていないので、茅葺きの屋根が作れない。そこでそのあたりに落ちていた鵜の羽根を茅の代わりにして屋根を葺こうとしたところ、完成する前に、トヨタマ姫は、ポンッと、子を産んでしまった。
あっというまの安産であった。
その産屋があった場所は、いまは鵜戸神宮という聖地になっていて、トヨタマ姫の土鈴が安産のお守りとして売られている。
生まれた子どもは男児で、「鵜の羽を茅の代わりにして屋根を葺こうとしたが葺き終わる前に産まれた」という意味の、ウガヤフキアエズ(鵜葺草葺不合)という名前になった。
ヘンな名前ではあるが、この男児が、神武天皇の父親となる。
安産だったのはよかったのだが、そこには理由があった。海の神さまの娘のトヨタマ姫は、神の霊力によって人の姿をしていたのだが、子を産む時には霊力が破れて、正体を顕していた。
トヨタマ姫の正体は、ワニだったのだ。
ワニといっても、クロコダイルやアリゲーターではない。大きな鮫のことを、昔の人はワニと呼んでいた。
夫に正体を知られたトヨタマ姫は、恥じて海の底の宮殿に帰ってしまった。
ただ妹のタマヨリ姫が残っていたので、ウガヤフキアエズは、タマヨリ姫に育てられる。
世話をしてくれたので母親だと思っていたウガヤフキアエズは、やがてタマヨリ姫が母の妹、つまり叔母さんだということがわかる。いまの法律では叔母さんとは結婚できないのだが、太古にはそんな規制はなかった。
成長したウガヤフキアエズは、タマヨリ姫を妻に迎える。
そして、生まれたのが、神武天皇だ。
さて、皆さん、よく考えてみてほしい。
神武天皇の父親のウガヤフキアエズは、父の山幸彦が人(神の末裔ではあるがいちおう人間だと考えておく)、母のトヨタマ姫はワニだった。すなわちウガヤフキアエズは、人とワニとのハーフだということになる。
神武天皇の母親のタマヨリ姫は、ワニだったトヨタマ姫の妹だから、やっぱりワニだ。ワニそのものだといってよい。
すると神武天皇は、人とワニのハーフ(父親)と、ワニそのもの(母親)との間の子だから、4分の3がワニということになり、ほぼワニだといってもいいような人物なのだ。
これがぼくたちの、初代天皇ということになる。
ぼくは万世一系の天皇制に、ケチをつけようとしているのではない。
あくまでもこれは神話だ。
神話のなかでは、何が起きても不思議ではない。
4分の3がワニで、ほぼワニだという人物が東征して、大和に王朝を築き、万世一系の初代の天皇となる。
そういうこともあるだろう。何しろ神話なのだから。
神武天皇は、漢風の諡号の神武、和風諡号のカムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)の他に、ハツクニシラススメラミコト(始馭天下之天皇)という称号がある。
文字どおり、「初めて国を統治した天皇」という意味だ。
だが奇妙なことに、同じ称号をもった天皇がもう一人、存在する。
第十代の崇神天皇だ。表記が少し違うのだが、この人物もハツクニシラススメラミコト(御肇國天皇)と称されている。
この国を初めて統治した王者は、いったいどちらなのか。
興味深いことに、第二代から第九代までの天皇は、名前だけがあって、事蹟が一切記されていない。
そのためこの期間は、「欠史八代」と呼ばれている。
名前があるのに、なぜ事蹟がないのか。
稗田阿礼は、さまざまな語り部から話を聞いて、それを一つにまとめて語ったと伝えられる。事蹟がないのは、この八人の天皇については、誰も何も語らなかったということだろう。
そこで多くの学者は、こんなふうに考えている。
イザナギとイザナギが国土と神々を産み、アマテラスが孫のニニギを地上に派遣し、その曾孫にあたる神武天皇が国を起こした。
ここまでは神話で、何らかの史的なモデルはあったのかもしれないが、ほぼフィクションと考えていい。一方、欠史八代を挟んだ第十代の崇神天皇からは、史実に近い伝説の領域が始まっていく。
欠史八代は、稗田阿礼か、または編纂した誰かが、とりあえず名前だけ書いておこう、ということで、こういう形の歴史が編まれたのではないか。
そこでこのあたりで神話のお話は終わりにして、歴史の時代に話を移したいのだが、その前に、「日本」とは何なのか、ということを改めて考えておきたい。これはとても重要なことなので、次回に語ることにする。
