第十回 なぜ日本は「日本」と呼ばれるのか
ぼくたちの国は、「日本」と呼ばれている。
いま文字で書いたから、何の違和感もなかったが、これをどう発音するのか。
「日本人」「日本語」「日本橋」……。これは「ニホン」と発音する。
それでもスポーツの国際試合で応援している人は、「ニッポン」と叫んでいる。
東京の日本橋は「ニホンバシ」だが、大阪の日本橋は「ニッポンバシ」だ。
どっちでもいい、ということなのだろうが、文字で書く場合はともかく、発音する時に迷うようでは困る。
「日」を「ニチ」と読むのは、呉音だ。
三国志の時代のことは、皆さんもよくご存じだろう。あのあとどうなったかというと、北方から異民族が入り込んできて、五胡十六国(「胡」は外国人を意味する)という、混乱した状態になった。
ただ三国のうち、南に位置していた呉の地域は、王朝は次々と変わって、国の名称も変わったのだが、地域は安定していて、隋の時代まで続いていた。
シルクロードの終点の長安や洛陽にあった仏教の本拠が、一時的に呉の地域に移動していて、そこから朝鮮半島を経て、日本にまで仏教が伝わった。
そこで漢字の発音が、南方の方言である「呉音」のままで伝わった。そのため、読経する時の発音が呉音になり、仏教用語は呉音を用いることになった。
しかし隋が北方にまで侵出して中国全土を統一し、そのあとを受けて大唐帝国が出現すると、伝統的な発音の「漢音」が伝わることになった。
たとえば「行」という文字は、修行、行者、勤行などの仏教用語は、「ぎょう」と発音する。これが呉音だ。
仏教用語以外の漢語は、行動、行為、旅行などのように、「こう」と発音する。こちらが漢音。
日宋貿易が盛んになった平安末期から鎌倉時代にかけては、新しく起こった禅宗を学ぶために、多くの僧が宋に渡った。
禅宗とともに、「宋音」の発音が入り込んできた。「あんどん(行燈)」、「あんか(行火)」、「あんぎゃ(行脚)」などで、「行」を「あん」と発音する。
これが現在の日本語をややこしいものにしている。「ちょうちん(提灯)」などというのも宋音だ。
で、日本の「日」は、呉音で「にち」と読む。大日如来、日光菩薩、日蓮などで、これが日曜、縁日、毎日など、一般の用語にも広がっている。
皆さんは鉛筆や棒やニンジンなど、長いものを数える時にどう発音するだろうか。
一本(いっぽん)、二本(にほん)、三本(さんぼん)……というふうに数えるだろう。「本」の発音が微妙に変化しているようだが、子どものころからそのように発音しているので、迷うことはない。
「いち」に、数の単位の「ほん」がつくと、「いちほん」といわずに、「いっぽん」になる。
これの類推でいえば、「にち」に「ほん」がつけば、「にっぽん」だ。
ではなぜ、「にほん」という読み方が生じたのか。
実は、促音を表すために小さく「っ」と書いたり、ハ行の文字にマルをつけて「パ」と発音したりという書き方の法則は、明治時代に広まった慣習なのだ。
江戸時代までは、小さい「っ」はなく、ハ行のマルもなかったので、「にっぽん」という発音を仮名で表記しようとしても、「にほん」と書くしかなかった。
「日本」という漢字を知っている人は、「にほん」という平仮名の表記を見ても、それで「にっぽん」と発音していた。
ただ江戸時代には寺子屋などが普及して、誰もが平仮名を読めるようになった。漢字の「日本」を知らない人が「にほん」という表記を見ると、そのまま「に・ほ・ん」と発音してしまう。
とくに江戸っ子は気が短いので、発音も簡略化して、「にほん」という発音が普及した、と考える人もいる。
日本語、日本人などは、「にほん」の方が言いやすい。日本画、日本人形、日本料理など、「にほん」が広まっていき、「赤い靴」の歌詞にも、「にほんの港に着いた時……」というふうに、「にほん」の方が優位になってきた。
でも、本当は、「にっぽん」が正しいのだ、とぼくは言いたいのではない。
どっちでもいいのだけれど、正しくは「ひのもと」だと、ぼく思っている。
ちなみに、「日」という文字は、漢音だと「じつ」だ。元日、祝日、期日など、「じつ」の方も広く普及している。
漢音では、「日本」は「じっぽん」になる。
これがアジア各地に広がっていたので、マルコポーロは「東方見聞録」に「ジパング」と表記したのだろう。
そこから英語のジャパン、フランス語のジャポンになるのだが、この「J」の文字は国によって発音が異なるので、ドイツでは「ヤーパン」、スペインでは「ハポン」と呼ばれる。まあ、外国の人がどう呼ぼうと、知ったことではない。
われわれだって、「イギリス」とか「ドイツ」とか「べいこく」とか、その国の人が聞いたらびっくりするような呼び方をしているのだから。
神武天皇は日出ずる土地を目指して、東征を開始した。瀬戸内海というワームホールを通って、少しずつ東に進んだ。瀬戸内海は東西に伸びる水路だ。だから船の上で夜明を迎えると、太陽はいつも海から昇ってくる。
だんだん大阪の方に近づいてくると、どう見ても、太陽は大阪から昇ってくる。
ぼくは大阪出身なのだが、残念なが、古代には大阪はなかった。大阪平野の全体が水没していて、かろうじて大阪城や天王寺のある上町台地だけが水面から顔をのぞかせていた。そこには「なにわのつ(浪速津)」という港があったのだが、生駒山の麓まで湿地帯が続いていたので、そこまで船で行けた。
生駒山の麓に、草香の津という港があった。少しずつ東に進んでいった神武天皇は、その草香の津こそが、太陽が昇ってくるところ、すなわち「日の下」の地だと思ったに違いない。
草香は「日の下の草香」と呼ばれていた。いま「日下」と書いて「くさか」と読む名字があるのはそのためだ。
だが、草香の津に着いてみると、太陽は、生駒山の向こうから昇ってくる。
山の向こうの奈良盆地こそが、太陽が昇ってくるところ、すなわち「日の本」なのだと、神武天皇は考えたのだろう。
そこで「日の下の草香」ではなく、「日の本のヤマト」という呼び方が生じた。
「日本」と書いて「やまと」と読む。
そのヤマトが、日本国の全域を支配するようになったので、国の全体がヤマトと呼ばれるようになった。
中国人が日本のことを「倭」と呼んでいたので、この文字を「ヤマト」と訓じるようになり、「倭」が差別的であることに気づいて、「和」の文字に差し替えた。
いま「大和」という文字が用いられるのは、律令制の時代に、地方国はすべて二文字にすることになったからだ。「ひ(肥)」「こし(越)」「とよ(豊)」などは地域が広大なので、「肥前」「越中」「豊後」などと二文字にするのは簡単だったが、「き(紀)」は「紀伊」に、「いづみ(泉)」は「和泉」に、そして「やまと(和)」は「大和」と、無用な文字を追加したのだ。
東国でも、「ふさ(総)」が「上総」と「下総」に分けられた。困ったのは「けぬ(毛野)」という国で、広大なので「上・下」を付けることになったのだが、それでは三文字になってしまう。
そこで「かみつけぬ(上毛野)」「しもつけぬ(下毛野)」から「毛」の文字を省略したのだが、読みの方は「け」を活かして「ぬ」を省略したので、「こうづけ(上野)」、「しもつけ(下野)」と、難読の地方名になってしまった。
話を元に戻して、そもそも「ヤマト」という呼称はどこから生じたのか。
「山の戸」とか、「山の扉」「山の門」などが、語源と考えられている。
扇状地などの平野の果てに山がある。その山際を、「山の戸」と呼んだのではないか。
ニニギが高千穂の峰に降りたって、平野に降りてくる。おそらくその山際に、砦のようなものを造って、「ヤマト」と呼んだのではないか。
魏志倭人伝には、卑弥呼という巫女の名とともに、「邪馬台国」という記述がある。
倭と呼ばれる広い領域のなかに、小さな地方国として「邪馬台国」があるということだが、この邪馬台といのは、中国ふうの差別的な表現で、「よこしま(邪)」などという文字をわざとあてている。
台という文字は、古代には「たい」だけでなく、「と」と読むこともあった。だから「ヤマト」という小国の名称を、中国人が「邪馬台」と表記したのだろう。
志賀島で発見された金印には「漢の倭の奴の国王」という文字が彫られていた。ワという広い地域のなかの、ナという小国の王さまのハンコという意味だ。
おそらくナ国の使者が貢ぎ物をもって漢に出向き、漢の属国となることを認めて、その地方の支配権を保証してもらった。そのことを認めるハンコとして、金印を貰い受けたのだ。同じようにヤマト国も、倭国の一部として、魏志倭人伝に記されたと見ていいだろう。
そのヤマト国がもともとは九州にあって、神武天皇の東征によって、奈良盆地に新たなヤマト国が開かれた。
そんなふうに考えてみても、魏の時代の邪馬台国(ヤマト国)が九州にあったのか、奈良盆地にあったのかは、依然として判明しない。
しかし奈良県の箸墓古墳のそばに広大な宮殿跡が発見されたので、最近は、奈良の方が優勢になっている。
