「女が築いた日本国」第十一回 三田誠広

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第十一回 箸墓の御陵は卑弥呼の墓なのか

 いま東京から、奈良に行こうとすると、新幹線で京都まで行き、近鉄に乗り換えて南に向かうことになる。途中の大和西大寺駅(駅前で安倍元首相が襲撃されたことで知られる)で乗り換えて奈良に向かうのだが、そのまままっすぐに進むと、橿原神宮前駅が終点となる。
 ぼくは二度ほど明日香村で講演したことがあり、駅まで車で迎えに来て貰ったことがあるのだが、駅の近くにあるはずの橿原神宮には詣でたことがない。
 主神は神武天皇だから、神話のなかの人物だ。社殿の奥には、神武天皇陵と称する巨大な墳墓もある。
 これは明治時代になってから捏造されたもので、ほんまかいな、と思うしかない場所だ。
 すでに述べたように、神武天皇は、父親が人とワニのハーフ、母親がワニそのものという、ワニの血が4分の3を占める、ほぼワニといっていい人物なのだから。
 初めて国を統治した、すなわちハツクニシラス(御肇國)天皇と称された第十代崇神天皇から、歴史は始まったと考えるべきだろう。
 ここには崇神が四海道将軍を国土の四方に派遣して、国の統一を図った経緯や、詔勅を発して各地の地元の国津神を手厚く祀るようにと指示した(それゆえに崇神と呼ばれる)とか、具体的な記載があり、ヤマトの王朝が支配地を拡げていく過程が詳細に描かれている。
 さて、今回の主役は、その崇神天皇の時代を生きたと記録されている、ヤマトトトヒモモソ(倭迹迹日百襲)姫という女性だ(以下は「モモソ姫」と呼ぶ)。
 崇神天皇の時代に生きた女性だが、系図をたどると、崇神の祖父の妹ということになる。それでも年の離れた兄妹というものはよくあることなので、若き崇神の時代に、年輩の巫女として、この女性が女王のごとく君臨していたと考えられる。
 神事はモモソ姫が担当し、政務は崇神が担当した、ということだろう。
 彼女こそはまさに、日の神の巫女であった。
 重要なのは、この巫女が、三輪山の神と婚姻を結んだという記載があることだ。
 これはまさに、神と神とのウケヒ(誓約)というべきものだ。
 奈良盆地の東にある三輪山は、古代の人々にとっては揺るぎのない聖地だった。
 国譲りを強いられた出雲の大国主の怨念が飛来して、大物主という神となって宿っているといわれている。
 おそらく神武天皇の東征の物語は、何らかの史実をもとにして、そこに神話らしい脚色を加えたものだろう。
 日向系のヤマトの軍団が、出雲系の先住民のいる奈良盆地に侵入して、ヤマト王朝を打ち立てた。先住民にとって、侵略者の王朝の配下となるのは、異民族の支配を受けるに等しい屈辱であったのかもしれない。
 その屈折した気持の支えとなったのが、大国主の怨念といわれる三輪山の神だった。
 その三輪山の麓の、少し北に寄ったところに、箸墓はしはかという前方後円墳がある。
 そのあたりは、纒向まきむくと呼ばれた古代の王都のあった場所だとされ、実際に古墳の近くに巨大な宮殿の跡が発掘されている。
 その発掘調査から、魏志倭人伝の時代と重なる時期の遺蹟だとわかってきたので、卑弥呼の宮殿、卑弥呼の墓という声が上がるようになった。
 魏志倭人伝に記された邪馬台国というのが、九州なのか奈良なのかは、はっきりとしないのだが、崇神天皇の孫にあたり、日本武尊やまとたけるのみことの父としても知られるる景行天皇の遠征の記録に、周防や大分などに日の巫女がいたことが記されている。
 西日本から九州にかけての各地に、太陽神への信仰が広まっていたのかもしれない。太陽神を祀る巫女は、魏志倭人伝の卑弥呼だけでなく、各地に存在したと考えてもいいだろう。
 モモソ姫もその一人であったことはまちがいない。墓の巨大さからして、魏に遣いを送った卑弥呼そのものであったということも、充分に考えられる。
 さて、その崇神天皇の時代の記録として残っているのが、モモソ姫と三輪山の神の婚姻だ。巫女として、三輪山の神と交信しようとしたモモソ姫のもとに、貴公子が訪れる。最初はそれが誰かわからなかったのだが、やがてそれが三輪山の神であり、その正体が蛇であることが判明する。
 これは明らかに歴史というよりも神話に近い物語だ。神の正体が蛇であったことを知ったモモソ姫は、驚いて尻餅をつき、神事用の鉄の箸で陰部を突いて亡くなった伝えられている。墳墓が箸墓と呼ばれるのはそのためだ。
 ぼくは20年ほど前に、崇神天皇の話を小説(タイトルは『角王ツヌノオオキミ』)に書いたのだが、その時はこのモモソ姫が亡くなる場面を、もう少しドラマチックに書いた記憶がある。なぜ陰部に箸が刺さったのかを、より具体的に書いたのだが、もちろんそれは話をおもしろくするためのフィクションだ。
 モモソ姫は民衆からも慕われていたようで、多くの人々の手によって石材が運ばれ、「昼は人が墓を造り、夜は神が墓を造った」と語り伝えられるほどの、巨大な墓が完成した。
 その墓は、実際に纒向の地にいまもある。山や墳墓は動かない。それは特筆すべきことで、神話の世界の舞台背景が、いまもそのままに、ぼくたちの周囲に残っているのだ。
 日本というのは、何とすごい国だろうと思わずにはいられない。
『日本書紀』と『古事記』は、最も古い歴史書であり、国がまとめた記録でもあるので、とりあえず尊重しなければならないのだが、これまで見てきたように、冒頭の部分はリアリティーの乏しい神話にすぎず、一種のファンタジーとして受け取るしかない。
 とはいえ、まったく架空の話かというと、そうではなく、各地に伝えられた伝承をもとにしているし、その種の伝承は、実際の事蹟や、政治や、農業や、災害などの記憶が、人から人へ伝えられていくうちに、物語に転化していくといった道筋をたどったのだろう。
 だとすれば、いまある神話から、そのもととなった事蹟を推理することができる。
 架空の物語とはいえ、物語の背景の地形は、昔もいまも変わらない。生駒山や三輪山や箸墓古墳は、まったく形を変えずにそのままの姿でいまも存在している。実際にその地を訪れて、神話で語られた往事を偲ぶというのも、なかなかにいいものだと思う。
 箸墓古墳に代表される古墳や、神殿の痕跡などは、まぎれもない事実として、そこに何かがあったということを、現在のわれわれに伝えてくれる。
 日向系の日の神の巫女と、出雲系の三輪山の神との婚姻という物語は、実際に起こった日向と出雲の和睦という事蹟の象徴として、語り伝えられたものではないだろうか。
 その意味では、日の神の巫女としてのモモソ姫は、確かに実在したのだと見ることができるし、「昼は人が墓を造り、夜は神が墓を造った」と語り伝えられた箸墓古墳は、ぼくたちの目の前に実在しているのだ。
 崇神天皇から子息の垂仁天皇にかけての記録には、他にもいくつのヒントが書かれている。
 日向系の王朝が誕生したあとにも、周囲には出雲系の一族が点在していたようで、大和盆地の北東に居住する春日族、大阪湾の尾張族、近江の和珥わに族など、出雲系の一族と和睦していく過程が記録されている。
 さらには、丹波、吉備津、出雲への遠征や、東北の毛野けぬまで到達した記録も残されている。
 そして昔は「おおきみ(大王)」と呼ばれた天皇を頂点とした王朝を支えた近畿の豪族を「とものみやつこ(伴造)」、地方国の地元豪族の支配者を「くにのみやつこ(国造)」と呼ぶことも定められている。
 この「やつこ」というのは、「やっこ(奴)」などという言葉があるように、配下とか家来といった意味合いがある。
 地方豪族というのは、各地に巨大な古墳群を造るだけの財力をもった、地方国の王であったはずだが、それを「やっこ」と呼び、同盟を結びながらも、ゆるやかな中央集権の体制を構築しようとした歴史が、ここに記されていると見ていいのかもしれない。

三田誠広の歴史エッセー
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