「女が築いた日本国」第十三回 三田誠広

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第十三回 伊勢物語の謎

 話が横道に逸れることになるのだが、斎宮の起源について語ったついでに、最も有名で謎めいた斎宮について、ここに記しておくことにする。
 それは言うまでもないことだが、『伊勢物語』に出てくる斎宮の物語だ。
 タイトルには「伊勢」と掲げられているのだが、伊勢神宮のエピソードが出てくるのは、全体のごく一部にすぎない。
 読者のなかには、伊勢の話なんてあっただろうか、と疑問に思う方がおられるかもしれない。
 この「歌物語」のスタイルをした作品は、在原業平と二条后こと藤原高子(「たかいこ」と読むことが明らかになっている)の悲恋を中心にまとめられているのだが、業平とは関係のない歌やエピソードまでがつめこまれているので、通読すると雑多な歌集という印象が強い。
 しかし業平と高子に関するエピソードだけを採り出して読むと、それなりに一貫したラブストーリーが展開されている。
 不遇な男がいる。平安京を開いた桓武天皇の後継者の平城天皇の孫、桓武天皇からたどると曾孫だが、ほぼ直系といえる高貴な出自だ。
 しかし平城天皇が藤原薬子という女官にたぶらかされて評判を落とし、帰国したばかりの空海の呪法で病となって、弟の嵯峨天皇に譲位して引退することになった。その後、薬子が奈良で反乱を起こしたため、嵯峨天皇の子孫は没落することになる。
 皇太子だった高丘たかおか親王は、なぜか空海の弟子になり、インドを目指して旅に出た途上で、虎に食われて亡くなったとされる。日本の歴史上の人物で、虎に食われて死んだというのは、この人だけだろう。
 高丘親王とほぼ同じ年齢の阿保あぼ親王は、承和の変という政変に巻き込まれて、謎の死を遂げる。
 その阿保親王の子息が在原業平だ。相次ぐ不祥事のため、皇族から臣下に格下げされた。通常は桓武天皇の子孫は「平」、嵯峨天皇以降の天皇の子孫は「源」という氏姓をもらうのだが、業平と兄の行平は、在原という氏姓を名乗ることになった。「在野に降る」というような意味だろう。
 没落した家系なので出世することもできず、下級の蔵人(皇族の世話係)といった仕事を長く続けた。
 だが日本史上、最高クラスの美男子とされている。
 空海を抜擢して嵯峨天皇の即位に功績のあった藤原冬嗣の長男の長良は、出世意欲のない穏やかな人柄だったが、弟の良房は野心家で、娘の明子(「あきらけいこ」と読むらしい)を文徳天皇に嫁がせて清和天皇を産ませ、外戚(母方の祖父)となって権力の中枢に昇っていく。民間人で初めて摂政になったのがこの良房だ。
 だが、良房には一人娘の明子の他には、子がなかった。跡継の男児もなければ、次の代の清和天皇に嫁がせる娘もない。
 そこで目をつけたのが、兄の長良の嫡男の基経と、妹の高子だ。二人を養子と養女にすれば、自分の跡継もできるし、清和天皇に嫁がせる娘も確保できる。
 基経も野心家で、意欲のない父親に絶望していたので、養子になるのは大歓迎だったが、妹はそうではなかった。
 絶世の美男子の在原業平とすでに恋仲になっていたのだ。
 ここから物語が始まっていく。
 妹の入内を自らの出世につなげようと画策する基経(のちに初代関白となる)は、空き家となった屋敷に高子を幽閉していたのだが、業平は屏の破れ目から屋敷のなかに入り込み、高子とともに咲き誇る梅の花を眺めたりする。
 だが基経もそのことに気づいて、妹を別の屋敷に移す。結局、高子は清和天皇の中宮になって、陽成天皇を産むことになるのだが、翌年、高子とともに梅の花を見た屋敷に、再び忍び込んだ業平が詠んだ和歌が、涙を誘う。
 〽月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
 満月は月ごとにめぐってくるから、一年前の月ではない。いまは春で梅の花が咲いているけれども、去年の花とは違うし、去年の春と同じではない。わが恋人はいまは中宮になってしまった。すべてが変わってしまったのに、自分だけがもとの自分なのだね……、というような意味の歌だ。
 そして業平は、傷心の旅に出る。当時は草深い田舎だった東国に出向いて、隅田川の渡し船に乗り、たまたま飛んできた白い鳥の名を船頭に尋ねる。すると船頭の答えは、「あれなん、都鳥」。そこで詠んだ名歌がある。
 〽名にし負わばいざ言問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと
 あんたが都鳥という名なら、都のことを知っているかい。ぼくの恋人はどうしているかな……。
 それだけの歌なのだけれど、いまは渡し船の発着所のあたりに「言問橋」という橋がかかっている。すぐ先には業平橋という橋もある。いまは「とうきょうスカイツリー」というひどい駅名になっているけれども、もとの駅名は「業平橋」だった。
 そして「都鳥」というのはユリカモメのことだろうというので、お台場を走る交通機関の名称にもなっている。
 で、伊勢の話はどこに出てくるの? ということになるのだが、高子の入内の直前に、伊勢の話が出てくるのだ。
 入内前の高子には、迷いがあった。業平とは相思相愛だとの思いがあった。高子はこの時代には珍しい自由奔放な女だったので、実際に入内したあとも、お琴の師匠とか、若い僧侶とか、とかく噂が絶えなかった。それも業平との仲を引き裂かれた絶望感から生じた情緒不安定のせいかもしれない。
 そのせいなのか、子息の陽成天皇も情緒不安定で、宮中で側近を殴り殺すという事件が起こり、退位を迫られることになった。
 そこからかなり系図の離れた人物が、桓武天皇の曾孫という理由だけで天皇に擁立され、その子息が皇太子に定められる。
 それが菅原道真の弟子で、すでに臣籍降下して源という氏姓を名乗っていた宇多天皇で、そこから道真の大改革が始まるのだが、これはまた別の話だ。
 迷っていた高子が、なぜ入内を決意したかというと、在原業平が伊勢の斎宮と情を通じたという風評が広まったせいだ。
 確かに『伊勢物語』には、業平が斎宮を訪ねて相聞歌を詠むくだりが記されている。物語はそこで終わるのだが、実際には、斎宮の懐妊という「事件」に発展する。
 これは高子の兄の基経の策略で、当時は噂が都のなかを駆け抜けたようだ。
 業平が下級の蔵人であったころ、皇女の恬子やすこ内親王のお世話をしていた。相手は幼女だったが、すっかり業平に懐いていた。恬子の兄の惟喬これたか親王が長男であるにもかかわらず皇太子になれず、仏門に入った。ほとんど同じ時期に、妹も斎宮に定められて伊勢に向かった。
 これは藤原良房の独裁政権につながる政治的な意味合いをもった出来事で、業平はこの兄と妹に同情していたのだろう。
 そこをついて、良房と基経は、伊勢権守の高階峯緒に、業平を伊勢に案内させた。
 そして斎宮の懐妊という前代未聞の大事件が起こる。
 懐妊ということは、『伊勢物語』には書かれていないのだが、誰もが知るほどの風評になっていたようだ。生まれたのは男児で、高階峯緒はこれを自分の孫として引き取った。
 その何代が後に生まれたのが、『枕草子』の清少納言が仕えた中宮定子で、母親が高階一族だった。
 定子が産んだ長男ではなく、藤原道長の娘の彰子が産んだ次男が皇太子に立てられたのは、道長の権勢が第一の理由だが、いくつかある他の理由の一つに、定子が高階一族の血を引いていることが挙げられている。
 斎宮と情を通じるなどけしからぬことをした業平の子孫を皇太子に立てるわけにはいかないというわけだ。
 これは一条天皇の側近の藤原行成が『権記』という日記に記していることで、斎宮の懐妊という事件は、百数十年が経過した紫式部や清少納言の時期まで、公然の秘密として語り伝えられていたことが、それでわかる。
 伊勢斎宮というものが皇室にとって、いかに重要なものであったかの、一つの例証といえるだろう。

三田誠広の歴史エッセー
「女が築いた日本国」 三田誠広数多の歴史小説を発表されている作家の三田誠広さんによる歴史エッセー「女が築いた日本国」が始まりました。第十三回 伊勢物語の謎第十二回 神宿る女――斎宮について第十一回 箸墓の御陵は卑弥呼の墓なのか第十回 なぜ日...