「女が築いた日本国」第十四回 三田誠広

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第十四回 天皇とは何か

 神宿る女というテーマでここまで語ってきたのだが、その神宿る女が、いかにして国家というものに関わってきたのか、そのことを述べておきたい。
 そもそも国家というものは、どのようにして成立したのだろうか。
 日本という国は、いつごろから国家になったのか。これには諸説がある。
 おなじみの戦国末期、天皇は存続していて、室町幕府の将軍もいたが、機能していなかった。
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の英傑が、バトンタッチのように国家の統一を果たした。このあたりのようすを眺めながら、国家とは何かということを考えたい。
 まずは織田信長。
 信長が京都に進出した時に、確かに天皇家は存続していて、信長との交流はあった。だが信長は天皇を無視して、「天下布武てんかふぶ」の印章を用いた。信長が実際に支配していたのは、畿内のあたりだけで、配下の秀吉が備中のあたりで毛利軍と対峙していた。
 信長は武田勢を滅ぼして信濃と甲斐を長男の支配下に置いていたし、三河、遠江、駿河を支配する家康とは同盟を結んでいた。それでも日本国の統一というには程遠い状態で、「天下布武」という印章は、足利将軍に代わって全国の統一を目指すという、心意気を示すものだったのだろう。
 秀吉は前関白の近衛前久の養子となって関白に就任した。天皇から関白に任命されてそれを受けたということだ。すぐに関白の地位は甥に譲って、自らは「太閤」と称した。これは関白から退いてもまだ実権を有しているといった称号だ。
 あの藤原道長は、書き遺した日記が「御堂関白記」と呼ばれているのだが、関白になったことはない。長く関白と同等の職務を担う「内覧」をつとめていただけで、瞬間的に摂政になったことはあったが、すぐに子息に譲っている。それでも晩年の道長は、「太閤」と呼ばれていた。この「太閤」には、実質的な権力だけでなく、天皇から承認されていることを示す重要な意味合いがあった。
 秀吉が「太閤」と呼ばれたのも、天皇から関白に任じられた実績があったからだ。
 戦国時代にはすでに、通称として朝廷の役職名を名乗ることが広まっていたが、これは正式の除目ではなく、勝手に通称としていただけだ。
 しかし徳川家康は、三河一国を征圧した時に、朝廷からの除目として、正式に三河守に任官していた。これは叙爵といって、下級貴族として公式に認められることを意味する。そのためには、家柄が必要だった。
 家康は出自の怪しい三河の小領主の長男として生まれたのだが、親しかった近衛前久に頼んで、東国の新田源氏の末裔であるという家系図を捏造してもらった。近衛前久は神社の元締の吉田家と親交があったので、東国の神社が保有している地元の小領主の家系図をもとに、わずかに手を加えて源氏の末裔の「徳川家」というものを創出したのだろう。
 これがあとになって大きな意味をもつ。なぜなら「征夷大将軍」に任じられるのは源氏に限るという慣例があったからだ。だから信長も秀吉も将軍にになる資格がなかった。
 とはいえ、秀吉も家康も、「関白」と「将軍」という肩書きを、天皇から得たということだ。
 ということは、関白よりも、将軍よりも、天皇の方が偉い、ということになる。
 話は現代に飛ぶことになるが、いま日本国を統治しているのは、内閣総理大臣だが、この地位は、天皇によって認証されている。
 ということは、現代においても、天皇がいちばん偉いということだろう。
 平安時代の藤原一族の隆盛は、天皇から、摂政、関白、内覧などの職務を与えられたことで成立した。
 源頼朝も、足利尊氏も、天皇から征夷大将軍に任じられた。
 どう考えても、天皇が最高権威であることは確かだ。ところが、後鳥羽天皇も後醍醐天皇も、戦争に負けて、島流しにされている。
 負けるのも当たり前で、天皇は直属の軍勢をもっていない。
 それは第十代崇神天皇のころから、そういうシステムだったと考えられる。
 確かに崇神天皇は、四道将軍を任じて全国統一を目指したように見えるのだが、その軍勢は、「とものみやつこ(伴造)」と呼ばれる大和周辺の豪族たちの寄せ集めの軍勢にすぎなかった。
 律令制度が確立されてからは、五衛府とか六衛府と呼ばれる、皇居を守護する兵が置かれたのだが、これも豪族たちから供出しされた兵であって、天皇の直属の兵とは考えられない。
 要するに、天皇は、皇后や皇女が巫女として儀礼を行い、自らも神と交信できる存在として、いわば神主の親玉のように君臨しているだけで、軍事力で日本国を支配していたわけではないのだ。
 だから、関白や将軍を任命して、国を治めて貰うことしかできなかった。
 そうは言ったものの、独裁的な政権を確立した天皇(あるいは上皇)がいないわけではない。
 実質的な支配者であった蘇我一族を滅ぼした天智天皇、その娘の持統女帝は、独裁的な政権を確立していた。
 平安遷都を実現した桓武天皇も強大な権力を有していた。
 平安末期の白河上皇も、それまでの権威だった藤原一族の勢力を排して、治天の君と呼ばれていた。
 ただ曾孫にあたる後白河上皇のころには、平家の台頭によって立場が弱くなっていた。
 それでも東国武者に院宣を発して、平家を倒すくらいのことはできた。
 まあ、天皇が実質的な支配者であった状況は、五本の指があれば数えられる程度の、異例の事態であって、基本的には、天皇は軍事力も支配権ももっていないというのが、天皇というものの本質ではないだろうか。
 では、天皇とは何なのか。
 神さまとつながっている人。これに尽きる。
 そして神さまとのつながりを支えているのは、巫女としての能力を有した女帝や、皇后や、皇女なのだ。
 これが、「女が築いた日本国」というこの連載の基本コンセプトなのだが、それではなぜ、直属の軍勢をもたない天皇が、日本国というものを統一することができたのか、そのことについて、ぼくなりの考えを述べておく。
 話は飛躍するのだが、ぼくの子どものころ、いちばん人気のあるスポーツは、野球でも相撲でもなく、プロレスだった。
 力道山という英雄がいた。
 毎週、ゴールデンアワーに、テレビ中継があった。
 ただ力道山が登場する試合は、あっという間に勝負が決してしまう。そこでテレビ中継が始まると、まず前座の対戦があるのだが、そういう催しのなかに、レスラーが十人以上リングに上る、不思議な試合があった。
 試合のルールは簡単で、両肩を3秒間、リングに付けられれば、そのレスラーは敗退ということになる。
 しかし何しろリングの上には、十数人のレスラーがいる。どうやって勝敗が決するのか。
 一種の勝ち抜き戦になるのか、あるいはリングの各所で勝手にトーナメントの勝負になるのか、というと、そうではない。
 前座の試合だから、力道山は出場していない。
 ざっと見渡して、出場選手のなかで、強そうなレスラーがいると、残りのレスラーが束になって襲いかかる。その場にいる最強のレスラーといえども、相手が多人数では、たちまち押さえ込まれて、3秒ルールで退場ということになる。
 そうするとこの種の試合では、最強のレスラーから順番に排除されていくことになる。人数が少なくなっても同様だ。3人のレスラーがいれば、一番強いレスラーに、残りの二人が襲いかかる。
 最後に二人残った場合は、強い方が勝つ。
 ということは、弱い方から二番目のレスラーが優勝するということになる。
 こんなものと天皇を比べても、何のたとえにもならないだろうが、何となく、直属の武力をもたない天皇が、日本国を支配することになるプロセスは、似ている気がする。
 天皇は弱い。
 だから安心してトップにまつりあげることができる。
「とものみやつこ(伴造)」と呼ばれた畿内の豪族たちは、互いに牽制し合って、群雄が割拠の状態だった。そこで、最も弱い、ただの神主にすぎない天皇を擁立することによって、豪族たちの結束を固めていった。
 天皇の周囲には、皇后や皇女など、神宿る女たちがいた。彼女たちの霊的なパワーのまとめ役として、天皇がいた。
 つまり、日本でいちばん偉いのは、皇后や皇女などの、神宿る女たちではないか。
 ということで、この連載も、話の方向性が見えてきたように思われる。

三田誠広の歴史エッセー
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