「女が築いた日本国」第十五回 三田誠広

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第十五回 地方豪族とは何か

 前回、何の説明もなく、「豪族」という言葉を用いてしまったのだが、改めて考えてみないといけない。
 豪族って何なのか。
 試みにウィキペディアで調べると、「国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと」と書いてあった。
 これはヨーロッパの諸侯の配下の小領主のようなものを念頭に置いた定義だろう。
 日本には、大和政権の周囲に「とものみやつこ(伴造)」、地方に「くにのみやつこ(国造)」というものがあった。
 この「やつこ」というのは、要するに「やっこ(奴)」のことで、権力者に隷属する「配下」とか「家来」とか「従者」といった意味合いをもっている。
 しかし大和朝廷が中央集権的な国家を築く前は、朝廷などというものはなく、天皇もいなかったはずだ。
 そうすると、全国には、ただ豪族だけがいたことになる。
 領地の大小はあるだろうが、彼らはその地域の王さまだったと考えられる。
 地方の王。
 古墳時代には、大和周辺だけでなく、各地に古墳が築かれた。全国各地に王がいて、自らの墳墓を築いたのだ。
 地方の王を支えているのは、王の配下となっている武人たちだ。
 彼らは自分たちの領地を有している。
 これをとりあえず、小領主と呼んでおこう。
 農村があると、その地域を守る武士集団がいる。武士集団には、核となるリーダーがいる。これが小領主だ。
 たとえば平治の乱で破れた源頼朝が流された伊豆の蛭ヶ小島で、流人の監視をしていた北条時政。これは典型的な小領主だった。
 真田幸村の父の真田昌幸。これは信州の小領主だった。
 徳川家康も三河の小領主だった。
 小領主たちが、同盟を結んで、地方の王を支えていく。真田昌幸を例にとれば、信州の諏訪湖のあたりの大領主の配下だったが、甲斐から武田信玄が侵入してくると、武田の配下になった。武田が滅びると、織田信長の配下となり、信長が討たれると家康の配下となった。
 家康は三河の小領主から出発して、周囲の小領主と同盟を結んで三河を支配し、隣の遠江の西半分にまで支配を広げ、武田が滅びると遠江の全域と駿河を支配し、信長が討たれた隙に信長の長男の領地だった甲斐と信濃を征圧した。
 五国を領有する地方の王となったのだ。
 だが天下は秀吉のものになりつつあった。小田原の北条を滅ぼした秀吉は、北条が支配していた関八州を家康に与えた。その代わりに、家康はそれまで領有していた五国を没収されることになる。
 信濃の小領主にすぎない真田昌幸は、秀吉の配下となるしかなかった。
 関ヶ原の戦さでは、真田昌幸は西軍についた。しかし長男を徳川家康の配下としていた。そうやって真田家の存続を図ったのだ。
 小領主というものは、地方の権力者の配下となってはいるが、忠誠を誓って隷属しているわけではない。
 その地域の農民と密接につながった、農民を守る武人、すなわちガードマンのリーダーのような存在が、小領主なのだ。
 その小領主はいかにして生じたのか。
 話は弥生時代に遡る。
 その前の縄文時代の人々は、狩猟採集によって生活していた。確かに縄文時代の土器のなかにも、米粒が見つかることはあるのだが、大規模な水田が作られたのは、弥生時代や古墳時代になってからのことだとされている。
 狩猟採集をしている人々にとっては、国家などは必要ない。住んでいるところの近くで、食べられるものを探す。それだけのことだから、大きな集落を作る必要もない。
 ところが米などの穀物を大規模に生産するようになると、事情は違ってくる。
 米は資産だ。
 獣や魚介や果実などは保存がきかない。
 ところが米は、保存できる。
 保存できるというのが、米などの穀物の最大の特徴だ。
 通常は、春に種をまき、秋に収穫する。一年に一度しか収穫できない。
 その収穫した米で、次の収穫までのあいだ、食いつないでいかないといけない。
 どんな貧しい農民でも、秋になると、一年分の米をかかえる。
 つまり秋になると、誰もが一年分の年収に等しい資産を保有することになる。
 資産があれば、当然のことながら、泥棒がやってくる。
 稲田に隣接している地域には、弓矢で獲物をとる縄文人が住んでいる。彼らは弓矢が得意だし、戦闘能力がある。
 ロシアからスペインまでが地続きのヨーロッパでは、各地に石造りの城壁都市が築かれた。周囲の農村の穀物をすべて城壁のなかに囲い込む。
 そのために、古代の早い時期から、城壁都市を中心とした都市国家が成立していた。
 日本は島国なので、異民族の侵入は心配せずすんだ。せいぜい隣接した地域からの襲撃を防げればいい。
 穀物は、高床式の倉庫を建てて、村の周囲に環濠を掘っておく。
 倉庫には腕力の強いガードマンを常駐させておく。
 他の村人たちが農作業にあたったり、荒れ地を開墾したり、水路の工事をしている間も、ガードマンは穀物の番人をしてなければならない。
 やがてこのガードマンの集団が組織化されていき、リーダーが生まれる。
 これが小領主の起こりだろう。
 続いて小領主同士の闘いが始まる。
 二つの村が合併して倉庫を一つにした方が効率的だし、ガードマンを一箇所に集中できる。そうなると合併がどんどん進み、大きな倉庫をかかえた城砦のようなものができていく。
 ガードマンの組織が大きくなると、リーダーの権力も大きくなっていく。
 地域の王のような存在になる。
 そのような王が出現すると、周辺の小領主は不安になって、王の配下となって自分の領地を守ろうとする。
 そのようにして、各地方に、地域の王のような存在が発生して、それが伴造や国造になっていく。
 地域の王が、中央集権の国家に組み込まれていくのは、そのような大きな権力がないと、地方の紛争がなくならないからだ。
 平安時代の中ほどに、東国で平将門の乱が起こった。
 平安京を開いた桓武天皇には子息が多く、朝廷の財政が破綻しそうになったので、孫や曾孫は皇籍を剥奪されて、臣籍となった。平安京の「平」の字を採って平氏と呼ばれることになる。
 ちなみに桓武の子息の嵯峨天皇の末裔は「源」の文字を用いて源氏と呼ばれ、それ以後の天皇の末裔はすべて源氏と称されることになる。
 平という氏姓となった人々の多くが、国司の次官か三等官で東国に降った。これが地方領主には歓迎された。何しろ天皇の血縁なのだから、自宅に招いて娘婿とした。
 そのため東国の小領主の名字が、平さんばかりになってしまった。
 平将門もそうした「平さん」の一人で、地方の小領主だったが、親戚の平さんと土地争いを起こした。
 単なる土地争いであるから、小競り合いみたいなものが続いたのだが、将門の従兄にあたる平貞盛が、中央政府に訴え出た。すると政府は三上山のムカデ退治で名を成した藤原秀郷に騒動の鎮圧を命じた。
 結局、将門は反逆者として討伐され、藤原秀郷は奥州藤原氏の祖となった。藤原秀郷の副官として活躍した平貞盛は土地争いに勝っただけでなく、褒賞として新たに伊勢にも領地を与えられた。
 これが伊勢平氏の起こりで、やがて平清盛が天下をとることにつながっていく。
 なお平清盛は出世して公卿となったので、清盛の一族だけが「平家」と呼ばれる。
 このように、地方の争いも、中央政府に訴え出れば、何とかしてくれる。これが多くの地方領主が中央政府に期待したことだろう。
 天皇の権威というものも、地方の紛争を収束させるだけの効果をもっていたことになる。

三田誠広の歴史エッセー
「女が築いた日本国」 三田誠広数多の歴史小説を発表されている作家の三田誠広さんによる歴史エッセー「女が築いた日本国」が始まりました。第十五回 地方豪族とは何か第十四回 天皇とは何か第十三回 伊勢物語の謎第十二回 神宿る女――斎宮について第十...