「女が築いた日本国」第十八回 三田誠広

「女が築いた日本国」バナー

第十八回 生け贄という不思議な概念

 話はまた横道に逸れてしまう。
 前回、「生け贄」の話をした。ヤマトタケルが、自ら望んで十字架にかかったイエス・キリストのように、わが身を犠牲にして、神との間にウケヒ(誓約)を結んだといった話だ。
 今回は、わが国でも重要な概念となっている、ウケヒというものについて、改めて考察しておく。
 これまで述べてきたように、アマテラスとスサノオのウケヒは神と神との契約だった。
 しかしヤマトタケルと伊吹の神の場合は、人と神とのウケヒだ。
 これは明らかに、イエス・キリストの場合に似ている。
 英語では、この人と神との契約を、テスタメント(契約/証し/遺言)と呼んでいる。
 イエスが神と結んだ契約を、ニュー・テスタメント(新約)と呼ぶ。だからこそ、イエスの事蹟と思想を記した書物を『新約聖書』と呼ぶのだ。
「新約」があるのだから、「旧約」も存在する。
 まずはその「旧約」の話から始めよう。
 ユダヤ教の聖典のことを、キリスト教徒は『旧約聖書』と呼んでいる。
 そのハイライトとなっているのが、アブラハムと神との契約の物語だ。アブラハムはアラビアに住んでいたのだが、神のお告げに従って砂漠を横断し、エルサレムの近くにやってくる。
 そこは砂漠に囲まれたオアシスで、わずかながら水があり、ブドウ、オリーブ、ナツメヤシなどが育っていた。草も生えていたので、羊飼いだったアブラハムは、そこで豊かに暮らすことができた。
 ただ跡継の息子に恵まれなかった。
 アブラハムは神に祈った。その思いは神に届き、アブラハムが百歳、正妻のサラが九十歳の時に、一人息子のイサクを授かった。とんでもない高齢出産だが、伝説なので聞き流しておこう。
 アブラハムにはエジプトから来た奴隷女のハガルが産んだイシュマエルという息子がいたのだが、嫡男のイサクが誕生したので、ハガルとイシュマエルは追放され、二人は砂漠を横断してアラビアに向かった。アブラハムとは逆コースを辿ったことになる。
 イシュマエルはアラビア人の祖と称えられる人物だ。
 そのためイスラム教でもイシュマエルの故郷のエルサレムは、メッカとメジナに次ぐ聖地となっている。だから聖地エルサレムをめぐって、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の三つ巴の争いになってしまうのだが。
 さて、アブラハムは神に感謝して、毎月丘の上で小羊を焼いて神に捧げ物としていたのだが、ある時、「小羊ではなくわが子を焼け」という神のお告げを得る。アブラハムの信仰心を試すための神の残酷な命令だった。
 アブラハムは仕方なく、わが子イサクを連れて丘の上に登っていく。そしてまさにイサクを殺そうとした時に、神の声が聞こえてくる。
 いまは「モニタリング」というテレビ番組があるけれども、昔は「ドッキリカメラ」という番組があった。登場人物をだまして、驚くさまを撮影し、視聴者がおもしろがるという、悪趣味な番組だが、神さまもアブラハムに「ドッキリ」を仕掛けたことになる。
 結局のところ、イサクは生きながらえて子孫を残す(万世一系の系図があってダビデ王やイエス自身が子孫だとされる)のだが、わが子を生け贄に献げることによって、アブラハムは神と契約を結び、神はアブラハムの子孫だけの守り神となる。
 これが旧約であり、モーセの出エジプトと十戒の伝授、ダビデ王によるユダヤ王国の建設などの出来事は、この契約によってもたらされたものだとされる。
 イエスはダビデの再来といわれた。民衆はユダヤ王国の栄光が再現されることを望んだのだが、ユダヤ民族はその前に、王国の滅亡と「バビロンの捕囚」と呼ばれる奴隷時代を体験していた。
 その困窮の時期に、数多くの預言者が現れて、ダビデのような英雄(ヘブライ語で「メシア」と呼ばれこれのギリシャ語訳が「キリスト」)が再び現れると予言したのだが、奴隷となっているユダヤ人にとっては、再びダビデ王のような偉大な英雄が現れるというのは、にわかには信じがたいものだった。
 すると一部の預言者が、ダビデ王のような英雄ではなく、イサクのように自らが生け贄となって神との間に新たな契約を結ぶ、「虐げられた英雄」というイメージを提出した。
 イエスは『旧約聖書』を読み込んで、このイメージを自らにまとうことを意図したのだろう。
 ただし、『旧約聖書』の預言者たちが一切予言していない重要事項がある。
 十字架だ。
 予言者たちも、まさかユダヤ民族がローマ人に支配されるとは、思いもつかなかったのだろうし、ローマ人が十字架刑という恐るべき残酷な刑罰を実施していようとは、想像もつかなかったに違いない。
 しかしイエスは自ら望んで十字架にかかった。
 アブラハムの契約は、わが子イサクを生け贄に献げて、神に自分の子孫(ユダヤ人)だけを守ってもらうというものだった。
 神の子であると自称していたイエスは、神がわが子を生け贄にして、人類全体と新たな契約を結ぶという途方もない妄想にとりつかれていたのだ。
 このイエスの思想を、三島由紀夫は、ヤマトタケルになぞらえたのだと思う。そればかりか、三島由紀夫自身も、自らが十字架にかかる気分で、市谷の自衛隊に乗り込んでいったのではないだろうか。
 ところで、ヤマトタケルの物語は、なぜイエスの物語に似ているのだろうか。
 ぼくが日本書紀を読んで不思議に思うのは、イエスの物語によく似たエピソードが、聖徳太子の伝説のなかにも記されていることだ。
 片岡の飢人と呼ばれている話で、聖徳太子が自宅の近くで、飢えて死んだ人の遺骸を見かける。気の毒に思って、自らの衣を遺骸にかけてやる。
 配下のものが翌日、同じ場所を通りかかると、遺骸がなくなっていて、衣だけが残っていた。それだけの話なのだが、『新約聖書』に親しんでいる人なら、思い当たることがあるだろう。
 マグダラのマリアという女の弟子がいる。彼女はイエスの生前に、香油でイエスの足を浄めている。それを見た会計係のユダが、高価な香油を無駄使いするなと批判するのだが、イエスはマグダラのマリアを称える。
 ユダヤ人の慣習では、死者は香油で浄められ、ハーブをまとわせて亜麻布で包んで埋葬する。
 マリアはイエスが自ら望んで死のうととしていることを察して、生前に香油でイエスを浄めたのだ。
 それでもイエスの逮捕と処刑は急なことだったので、ハーブの用意が間に合わなかった。マリアは遺骸が埋葬されたあとに、ハーブをもってイエスの墓に向かう。
 途中でマリアは、知らない人とすれちがう。墓に行ってみると、石で塞がれているはずの墓はあばかれていて、遺骸はなく、遺骸を包んでいた亜麻布だけが残されている。
 マリアはさっきすれちがった人が、復活したイエスだったと思い当たる。
 そういった話で、衣だけが残されていたという片岡の飢人の話とどこか似ているのではないだろうか。
 この話を配下から聞いた聖徳太子は、「聖人なり」と言って死者を称える。
 なぜこんなことを言ったのかもよくわからないが、聖徳太子は仏教経典を読破しただけでなく、新約聖書も読んでいたのではないかと思ってしまう。
 実はヤマトタケルも白鳥となって空に舞い上がるので、墓に遺骸はなく、衣だけが遺されていたと日本書紀に記述されている。
 古事記や日本書紀が最終的にまとめられたのは、奈良時代の初めだ。その時代には、すでに中国には景教と呼ばれるキリスト教が伝えられていた。
 ヤマトタケルが自らを生け贄とする話も、聖徳太子の片岡の飢人の話も、編纂した人がイエスの話を知っていて、話をまとめたのかもしれない。
 ただ遠く離れた場所で、同じような話が発生するということは、実はよくあることなのだ。
 イザナギが亡き妻を求めて黄泉の国に赴く話は、ギリシャ神話のオルフェウスの物語とそっくりだ。稗田阿礼がギリシャ神話を知っていたのか。そんなことはないだろう。
 愛する妻がいなくなれば、地獄でも黄泉の国でも、どこへでも行きたくなる。それが人情というものだ。
 英雄が生け贄になる物語のパターンも、人類共通のものなのかもしれない。

三田誠広の歴史エッセー
「女が築いた日本国」 三田誠広数多の歴史小説を発表されている作家の三田誠広さんによる歴史エッセー「女が築いた日本国」が始まりました。第十八回 生け贄という不思議な概念第十七回 日本武尊とオトタチバナ姫第十六回 源平合戦とは何か第十五回 地方...