第二十一回 飯豊青皇女の執政
万世一系といわれる日本の天皇の系譜のなかに、女帝は八人いる。
二人は江戸時代に入ってからの女帝で、これはもう天皇に権威がなかった時代のことだから、この連載で採り上げるつもりはない。
古代の六人については言及しないわけにはいかないだろう。
時期としては、飛鳥に都があったころから奈良時代までで、この時期は女帝の方が多かった。
名前を挙げておくと、推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正、孝謙(称徳)ということになる。一人で二回天皇になった女性が二人いる。これを重祚というのだが、代数は二回にカウントされ、諡号も新たに付けられる(カッコで示した)ので、六人で八代の女帝ということになる。
長い皇室の歴史のなかで、男の天皇で重祚した人はいない。二人の女帝の重祚は、女性に特有の事情があったのか、それともやむをえぬ状況があったのか、そのあたりについても考察しなければならない。
最初の女帝は聖徳太子が摂政をつとめていた時代の、太子の叔母(父の妹)にあたる推古女帝だが、それ以前にも、政権を担っていたと思われる女性が三人いる。
一人目は神功皇后で、ほぼ女帝といっていい人物だった。
今回は二人目の飯豊青皇女について語ろう。
漢字の読み方は「いいとよのあおのひめみこ」だが、以後は青皇女とする。
この原稿の読者の方で、青皇女という名をご存じの方は、ほとんどいないだろう。しかしこの女性は、確かに女帝として政務を担っていたという記録が残っているので、日本の歴史のなかでは、揺るぎのない人物として記憶されなければならない。
さて、この女性はどういう状況で女帝に等しい立場となったのか。
複雑な話になるので、次に語ることは、サラッと読み飛ばしていただきたい。
神功皇后が産んだ応神天皇は、偉大な人物だった。有史以前の人物なので、伝説で語られるばかりで、詳細はわからないのだが、とにかく偉大な人物だと語り伝えられている(何しろ八幡さまという神として祀られるくらいにすごい人だったのだ)。
その応神の跡は、子息の仁徳天皇が継ぎ、その次は仁徳の子息の三兄弟、履中、反正、允恭と続き、允恭の子息の安康、その弟の雄略、その子息の清寧と、順調に皇位継承が続いていったように見えるのだが……。
天皇の名前が羅列されているだけだが、注目していただきたいのは、兄から弟への継承が意外に多いということだ。
初代の神武天皇から仁徳天皇までは、ほぼ父から子への一直線の継承なのに、仁徳の子息の三兄弟から、急に兄弟継承になっているところが、何やら怪しい事態だというべきだろう。
天皇は直属の軍勢をもたず、「とものみやつこ(伴造)」と呼ばれるヤマト周辺の豪族たちの私兵の上に乗せられているお神輿みたいなものだが、それでも神事を司る神主の親玉みたいな存在として、それなりに君臨していた。
とくに神功皇后から応神天皇のころは、独裁的な存在だったと考えられる。
しかし兄弟間の継承のころは、天皇の権威が弱まって、群臣たちがそれぞれの旗頭となる皇族を支援して、対立が起こっていたと考えられる。
群臣たちの対立が激しくなると、陰惨な争いになる。互いに刺客を送って、相手が擁立しそうな皇族を暗殺する、というようなことが起こる。
それに比べれば、いまの自民党内の派閥争いなど、穏やかなものだ。刺客を送る代わりに、札束が飛び交っているのかもしれないが。
兄から弟への継承が終わって、次の世代に移行する時には、弟の子息に継承されることになる。末の弟が権力を握った時には、兄たちは亡くなっているので、自分の息子に継がせるということになる。
大国主も、神武天皇も、末の弟だった。太古の時代には末子相続という慣習があったことはすでに書いた。
この仁徳天皇の子息の三兄弟の継承は、末子相続ではないけれども、結果としては末子の子息が継承するということで、末子が有利な状況になっていた。
ところが、そのシステムに破綻が生じた。弟だった雄略天皇の子息の清寧天皇に政権が受け継がれたところで、その清寧天皇に跡継の子息がいなかった。
後継者争いの先が見えなくなった。
こういう場合は、いったん家系を元に戻して、仁徳の長男の履中天皇の子息の家系が注目される。だが履中の孫にあたる二人の兄弟は、父親が雄略天皇の刺客に殺されたという恐ろしい体験をもっていたために、自分たちも殺されると怯えて、姿をくらましていた。
二人は播磨に逃げていて、ようやく発見されたのだが、兄弟は互いに譲り合って、自分が後継者になろうとはしなかった。
その時、決然として、政権を担った女性が出現した。
兄弟の姉の青皇女だ。
この連載の始めの方で、皇族の女性には時として神が宿るという話をしたが、この青皇女も神がかりの女性だった。
皇位継承者の兄弟の姉であるので、あとづけで皇女の扱いになっているのだが、父親は天皇になる前に暗殺されていた。それでもこの女性は、少女のころから神がかっていて、孤高の存在だったのではと思われる。
というのも、日本書紀には奇妙なことが書かれているからだ。
少女のころから神がかっていたので、男とのつきあいはまったくなかった。処女の巫女であったわけだ。
ところがこの女性は、どういう心境の変化か、ある時、男と「まぐわい」をしたらしい。
で、その時の青皇女の感想が歴史に刻まれている。
「べつに変わったことは何もない」
これが皇女の感想だ。
言われてみればそういうこともあるだろうとは思うのだが、これがなぜ日本書紀に記されているのか。とにかく、少しヘンな女性だったと、日本書紀の編者は考えていたのだろう。神がかりの女性というのは、ふつうとは違っているのだ。
とにかくこの皇女が執政したことは事実のようだ。
風土記のなかに神功皇后を女帝とする記述があったのと同じように、後代の史書の『扶桑略記』には、「飯豊天皇廿四代女帝」と書かれており、『本朝皇胤紹運録』にも「飯豊天皇」の記述がある。『先代旧事本紀大成経』には女帝の諡号として「清貞天皇」という記述もあり、明らかに女帝として万世一系の系譜のなかに組み込まれている。
明治に入って、天智天皇の後継者で壬申の乱で敗れた大友皇子を弘文天皇とするなど、系譜の書換がなされた時も、飯豊女帝は、「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていた。
現在も宮内庁では「履中天皇々孫女飯豊天皇」と称している。天皇と呼んではいるが、歴代の天皇には加えないという方針のようだ。
青皇女がどのような政治をしたかは、何の記述も残っていない。とにかく弟たちが譲り合った末に、弟の方が即位するということで、政治の空白期間は終わり、青皇女は政治の現場から退くことになった。
いずれにしても、天皇がいないという大ピンチを、神宿る女が救ったことになる。
しかしながら、もっと大きなピンチが、わが国を襲うことになる。
弟の顕宗天皇が即位したあとも、何らかのトラブルがあったようで、結局、兄の仁賢天皇が即位することになった。弟から兄への政権交代という異例の皇位継承が生じたのだ。さらに仁賢の子息の武烈天皇が即位したあとに、とんでもない事態が起こってしまう。
その「とんでもない事態」については、次回で語ることになるが、その大ピンチを救ったのが、手白香皇女という「神宿る皇女」だった。
名前の読み方は「たしらかのひめみこ」で、神功皇后、青皇女と並んで、「古代の三大神がかり皇女」と呼んでおきたい。
手白香皇女は、ピンチを切り抜けるために、越の国から継体天皇を招いた。
応神天皇の五世孫という、王朝の系脈とはほとんど関係のない「田舎のおじさん」が皇位に就いたのだ。
継体天皇は推古女帝の祖父、聖徳太子の曾祖父にあたる。
そのあたりから、客観的な史料や発掘調査に裏打ちされた、歴史の時代が始まる。
神話と伝説の時代が終わり、歴史の時代が始まると、神がかりの女性の時代も終わるのかというと、そうではない。
まさにここから、「女が築いた日本国」の歴史が、本格的に始まるのだ。



