「女が築いた日本国」第二十二回 三田誠広

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第二十二回 田舎のおじさんの登場

 さて今回は、こんな話から始めたいと思う。
 妊婦の腹を裂いて胎児を取り出した。人の爪を抜いて芋を掘らせた。人を木に登らせてその木を切り倒して殺した。池の端の樋に人を入れて水とともに流れ出る人を矛で刺した。貢ぎ物をもたらした百済の遣いを長らく貢ぎ物がなかったとして抑留した。人を木に登らせて矢で射落とした。女を裸にして馬と交尾させた……。
 もっといろいろあるのだけれども、書くのもいやになったので省略する。
 「池の端の樋に人を入れて……」というくだりは、まるでソーメン流しみたいな装置でおもしろがって人を殺したことになる。
 これらは武烈天皇の行状として、日本書紀に記述されている事柄だ。
 簡単に言うと、武烈天皇はサディストでヘンタイだった。ヘンタイだったので、通常の子孫を残すような行為には興味がなかったと見えて、跡継の子がいなかった。
 武烈天皇の歿年齢は五十七歳というのが通説だったが、前述の行状を見れば、若気の至りという感じがするので、二十歳くらいで亡くなったのではという学説もある。これはえらい違いで、武烈天皇の姉とされる手白香皇女の年齢にも重大な関係がある。
 武烈の歿年が五十七歳なら、手白香は六十歳くらいということになってしまう。
 神がかりの女といっても、六十歳の老婆では魅力が失せてしまう。
 武烈天皇はひどい人物だった。日本書紀はそのことを強調するために、思いつく限りの悪業を書き連ねたのだと思われる。とにかく武烈は悪逆非道の人物でなければならなかった。なぜかというと、ここで万世一系の天皇家の系譜がほぼ途切れて、越の国から継体天皇が突然、王都に乗り込んでくることになるからだ。
 この継体天皇の統治の始まりと、武烈天皇の死の間には、タイムラグがある。
 政権の継承に混乱が生じた場合は、神がかりの皇女に頼るという、神功皇后、青皇女と同様の状況が生じて、武烈の姉がしばしの間、政務を執ることになったのだろう。
 そこでどういう議論が起こったのか、詳細は不明なのだが、群臣の代表格の大伴金村が越の国(越前)に出向いて、男大迹王(読み方は「おおどおう」)と呼ばれる人物を招聘することになる。これが継体天皇となって、現代の皇室にまで続いていく。
 これはいかにも唐突な選択だ。
 神武天皇から始まった万世一系の皇位継承は、父から子へ、または兄から弟へというのが原則だった。
 神功皇后が腹に石を抱いて二年後に産んだという応神天皇の出生は、やや怪しい感じではあるが、とにかく仲哀天皇の子息ということになっている。
 青皇女が政権を担ったあとに即位した顕宗天皇は、直前の清寧天皇の又従兄弟で、ずいぶん飛躍しているようではあるが、顕宗と兄の仁賢は、履中天皇の孫なので、直系相続の復活と見ることもできる。
 ところが継体天皇となった男大迹王は、応神天皇の五世孫。しかも応神天皇は遠征に行った先々で落胤を遺したという伝説上の人物だから、三世孫とか、四世孫とかは、全国各地のどこにでもいたはずだ。
 ちなみに神田明神に祀られている平将門は、桓武天皇の四世孫、在原業平は桓武天皇の三世孫だが、桓武の子息の平城天皇から数えれば二世孫ということになる。
 歴代の天皇のなかに、諡号に「光」の文字が入っているお方が何人かいる。これは、天武天皇の子孫による継承が途切れて、天武の兄の天智天皇の系統に戻されて擁立された光仁天皇(平安京を築いた桓武の父)に始まる約束事のようなものだ。
 つまり意外な人物が天皇に擁立されたケースに、「光」の文字を当てるということ。
 とはいえ光仁は天智天皇の孫(二世孫)で、とんでもない継承ということではない。
 その他の「光」のつく天皇を見ても、陽成天皇が暴力事件を起こして退位したあとを受けた光孝天皇は、陽成の祖父の弟だが、仁明天皇の皇子だから、「光」の文字を付けられるほどのことはない。代位に数えられていない北朝の光厳天皇は後伏見天皇の皇子だ。
 江戸時代には光格天皇がいる。後桃園天皇に皇子がなく、直系の継承が途絶えた時に、曾祖父の中御門天皇の弟の孫にあたる光格天皇が即位した。このお方が明治天皇の曾祖父にあたるので、現代の天皇家はここから始まるといっていい。
 ずいぶん系図が飛んでいるように見えるのだが、この光格天皇は中御門天皇の父の東山天皇から数えると、三世孫(曾孫)ということになる。
 応神天皇の五世孫という継体天皇が、いかに系譜をスッ飛ばして即位したかがわかるだろう。
 大胆に言い切ってしまえば、どこの馬の骨ともわからない、謎の人物……。もっと簡単に言えば、ただの「田舎のおじさん」が継体天皇なのだ。
 しかしこの人物は、越前の三国を本拠とする地方国の王だった。三国には港があり、百済との交流が盛んだった。渡来人も多く、そのなかに蘇我一族もいたと考えられる。
 軍事力もあり、資産家でもあったこの人物が、ヤマトの王都に招かれた。
 なぜそんなことが可能だったのか。
 日本書紀にも古事記にも詳しいことは書かれていないのだが、ぼくは手白香皇女に神が宿ったと考えている。
 越前の三国へ行って、そこの領主を連れて来なさい!
 そんなふうに手白香皇女が、大伴金村に指示を出した。神宿る皇女の命令は、神託に等しい。それで金村は命じられるままに越の国に向かった……。そういうことだったのではとぼくは考えている。
 王都に乗り込んできたこの田舎のおじさんを、手白香皇女は夫として迎える。
 応神天皇の五世孫というのは、あとづけの理由だ。
 女帝として政務を担っていた手白香皇女が、婿を迎えた。
 そして、この田舎のおじさんの末っ子を、わが子だと称して、皇位を継承させた。
 その手白香皇女の養子となった子が、日本国で最初に仏教を採り入れた天皇として知られた欽明天皇となる。
 欽明天皇の子どもたちからは、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古女帝と、四代の天皇が誕生する。
 ここで読者の皆さんに、認識していただきたいことがある。
 全国に落胤を振りまいた応神天皇の五世孫というのは、万世一系の天皇家の系譜としては、あまりにも遠い関係で、これでは万世一系とはいえないのではないか。
 ここで考え方を変えて、手白香皇女が女帝であったと考えてみよう。
 手白香皇女は仁賢天皇の娘だ。
 りっぱな直系の子孫だ。
 その子息の欽明天皇が皇位を継承する。
 それで万世一系の系譜は堂々とつながっているではないか。
 ただ世の中の保守的な学者は、こういう考え方を認めない。なぜかというと、手白香皇女を女帝として認め、その子息が皇位を継承したと考えると、それは「女系天皇」を認めることなってしまうからだ。
 日本の歴史のなかに、女帝は何人も存在する。しかし「女系天皇」は一度も存在したことがない。これが学者たちの主張なのだ。
 で、女系天皇っ何? ということになるので、説明しないといけない。
 女帝が産んだ子が、次の天皇になる。
 その天皇が男であっても女であっても、とにかく女帝の子が天皇になる。それが女系天皇だ。
 ただし条件がある。
 たとえば天智天皇は、皇極女帝(二度目の即位では斉明女帝)の子だ。だから女系天皇かというと、そうではない。
 皇極女帝は舒明天皇の皇后で、夫の没後に女帝となった。
 従って天智天皇は、舒明天皇の子息だ。これはりっぱな男系天皇ということになる。
 女帝は八人いるけれども、父か祖父が天皇だった。だから男系天皇に分類される。
 八人の女帝は、皇后が夫の死後に女帝になるケースと、皇女が即位するケースがある。皇后の場合は、子どもが天皇になっても、夫が天皇だったので男系天皇になる。皇女の場合は、女帝になったあとで結婚することはないので、子孫はいない。
 従って女系天皇は存在しないということになる。
 だが、手白香皇女は、仁賢天皇の皇女だ。皇位に就く資格がある。
 夫の継体天皇は、応神天皇の五世孫という怪しい人物だ。従って、欽明天皇が皇位を継承できたのは、母方の血筋が優れていたからだと考えられる。
 確かに欽明天皇は、継体天皇の子だから、男系天皇と考えられているのだが、継体をただの「田舎のおじさん」と考えれば、むしろ手白香皇女の子であることが、皇位継承の決め手となったと考えられる。
 だとすれば、欽明天皇は、女系天皇だといってもいいのではないか。
 これがぼくの考えだ。このことは次回でも議論したいと思う。

三田誠広の歴史エッセー
「女が築いた日本国」 三田誠広数多の歴史小説を発表されている作家の三田誠広さんによる歴史エッセー「女が築いた日本国」が始まりました。第二十二回 田舎のおじさんの登場第二十一回 飯豊青皇女の執政第二十回 任那とは何か第十九回 いよいよ神功皇后...