「女が築いた日本国」第二十六回 三田誠広

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第二十六回 皇極・斉明女帝の謎

 皇極女帝は一度退位したあとで、重祚(天皇に二度なること)して斉明女帝となった。
 そこには謎がある。
 二度も天皇になった人物は、歴史上二人しかいない(もう一人は奈良時代の孝謙・称徳女帝)。
 その一人目だから、空前のことだった。
 だがそのことは次回に述べるとして、そもそも皇極女帝となった宝皇女という女性の立場が、きわめて特殊なものだったということを指摘しておきたい。
 皇極女帝は舒明天皇の皇后だったので、最初の即位はごく順当なものだった。皇后が即位するというのは、推古女帝の前例がある。
 問題なのは、女帝が舒明天皇の皇后になった経緯だ。ここには深い謎があるとしか言いようがない。
 宝皇女はそもそも皇女ではない。敏達天皇の曾孫(三世孫)だから、「おおきみ(女王)」と呼ばれる皇族ではあるものの、天皇の娘ではないので皇女とは呼ばれていなかった。いま宝皇女という言い方をするのは、のちに皇后や女帝となったので、あとになってそのように呼ばれたというだけのことだ。
 宝皇女は、本来なら皇后や女帝になるような出自ではなかった。
 その家系は敏達天皇に遡る。敏達の長男は押坂彦人大兄だが、この皇子は皇嗣にはなれなかった。石姫という皇族の母が亡くなり、蘇我の血を引く推古女帝が新たな皇后になったからだ。
 聖徳太子という若き協力者を得た蘇我馬子の独裁が始まり、蘇我の血が入っていない皇族は抹殺されかねない状勢だった。彦人大兄は世捨て人のような隠遁生活を送ったことで、かろうじて生きながらえることができた。
 彦人大兄の長男が田村皇子(舒明天皇)だが、その弟の茅渟王の娘が宝皇女だ。皇族ではあっても、政界の中枢とは無縁の女性だった。
 しかし田村皇子と宝皇女には、蘇我の血がまったく入っていない。推古女帝はそこに目をつけた。この二人が夫婦にすれば、蘇我の血がまったく入っていない皇子が生まれるはずだ。そして、女帝の期待どおりに生まれたのが、中大兄すなわち天智天皇だった。
 中大兄によって、蘇我一族は抹殺されることになる。
 ただ宝皇女は、すでに別の皇族に嫁いでいた。
 末端の皇族にすぎない彼女は、用明天皇の孫の高向王に嫁いで、漢皇子を産む。この漢皇子も、あとからそう呼ばれているだけで、皇子ではない。父親の家系をたどれば用明天皇の曾孫だから、かろうじて蘇我の血が入っているのだが、この漢皇子は夭逝したのか、行方不明になったのか、歴史から姿を消してしまう。
 どうして姿を消してしまったのか。そこにも謎がある(実は深い意味がある)。
 推古女帝は、蘇我馬子の独裁を批判し、蘇我の血が入らない後継者を望んでいた。
 蘇我の血の入った山背大兄と、隠遁していた彦人大兄の子息の田村皇子。どちらかを選ぶとなると、田村皇子を選びたかった。
 しかし蘇我一族は田村皇子にも目をつけていて、すでに馬子の娘を嫁がせていた。古人大兄という男児が生まれた。そのままでは、また蘇我の血の入った後継者が政権を担うことになる。
 おそらく推古女帝は、密かに群臣に指示を出していたのだろう。宝皇女を皇后に……。
 これが推古女帝の遺言だったのではないか。
 ここからはぼくの独断的な推理なのだが、宝皇女は神宿る皇女だったのではないか。
 すべての皇女に神が宿るわけではない。神秘的な資質をもっていて、いまでいえばヒステリーともいえる神がかり状態になりやすい女性が、時として皇族のなかに出現することがある。幼いころからそうした資質を発揮していた宝皇女の噂を、推古女帝は聞き知っていたのだろう。
 政界のピンチを救うのは、神宿る皇女だ。
 そういうわけで、舒明天皇の即位と同時に、宝皇女は先夫と離縁させられ、皇后に立てられた。産みの子の漢皇子は行方不明になる。これは驚くべきドラマだ。
 そして舒明天皇と皇后の間には、中大兄(天智天皇)と、間人皇女(孝徳天皇の皇后)が生まれる。
 さらに年齢の離れた大海人皇子(天武天皇)が生まれた……ということになっているのだが、ここに不思議なことがある。
 天智と天武の生年と没年を記した記録を付き合わせてみると、天武の方が五歳ほど年長という、ヘンなことになってしまうのだ。そこから、姿を消した先夫の子の漢皇子が、弟ということで皇族に組み入れられたのではという疑念が生じる。
 大海人というその名は、海戦や海運を担う部族に育てられたことを示している。やがて大海人は、九州の宗像水軍の一族の娘と結婚している。最初から皇子の扱いではなく、臣下となるように、水軍関係の一族に育てられたのではないか。
 宗像水軍の娘からは長男の高市皇子が生まれる。母が皇女ではないので皇嗣の資格がなく、臣下として働き、壬申の乱では将軍として大海人の軍勢を率いて活躍し、持統女帝の時代には太政大臣となって女帝の支えとなる。
 その子息が長屋王だ。
 大海人は天智天皇のもとで、海戦や海運の総指揮を担当していたようで、ここでも臣下のような扱いを受けていたようだ。
 軍勢を率いる手腕は傑出していた。そのため群臣たちから支持されていた。のちの壬申の乱でも、多くの豪族は大海人の側についた。
 天智天皇も大海人の存在を無視できず、二人の娘(太田皇女と同母妹の讃良姫すなわち持統女帝)を大海人に嫁がせている。バーターとして、大海人の愛人だった宮廷歌人の額田女王を貰い受けたのではないか。そしてその娘の十市皇女を、自分の子息の大友皇子の妃としている。
 さらに天智は大海人に、「皇太弟」(すめいろど/天皇の同母の弟)という称号を与えた。
 これは皇位継承者として認定したのではなく、大臣よりも偉い、というくらいの意味だったとぼくは解釈している。
 天智天皇は子息の大友皇子を後継者とするために、「あらためまじきつねののり(不改常典)」という詔勅を発して、直系継承を基本ルールと定めた。太古の時代によくあった兄から弟への継承を否定したのだ。そして太政大臣を務めていた子息の大友皇子が、後継者と認められた。
 その大友皇子と、大海人との間に起こったのが、壬申の乱という古代最大の内戦で、勝利した大海人が天武天皇として即位する。
 だが、天武がもし天智の弟でなく、皇極女帝の先夫の子、すなわち異父兄なのだとしたら、話はややこしいことになる。
 ……と、話をどんどん先の方まで進めてしまったが、このややこしい事態の大もととなったのが、宝皇女の離婚なのだ。
 なぜ宝皇女は、先夫と離婚してまで、舒明天皇の皇后にならねばならなかったのか。
 彼女が神宿る女だったから……というのがぼくの推理だ。
 これまで語ってきたように、王朝がピンチになる度に、神宿る女が政務を執って、王朝を支えてきた。
 神功皇后、青皇女、手白香皇女、推古女帝……。その先に、宝皇女すなわち皇極女帝がいるのでは、とぼくは考えている。
 推古女帝が死の床についた時、聖徳太子の子息の山背皇子の人気は高く、そのままでは蘇我一族の系統の天皇が誕生しそうだった。しかし晩年の聖徳太子は、馬子の独裁に対して批判的で、斑鳩に身を引いていた。
 馬子が聖徳太子の子息を嫌っていて、隠遁生活をしていた押坂大兄の子息を傀儡にしようと考えた、という説を唱える学者もいるのだが、真相はわからない。
 とにかく事実として、推古の後継者には田村皇子が選ばれ、舒明天皇として即位した。そして宝皇女は先夫と離婚させられて、皇后に立てられた。さらに先夫の子の漢皇子は、行方不明になった。
 この事実の背後にある謎は深い。
 蘇我馬子は没して、時代は子息の蘇我蝦夷、さらに孫の蘇我入鹿の時代になっていく。
 蘇我一族の独裁色はいっそう強くなり、舒明天皇の長男で蘇我の血を引く古人大兄の即位が近いと、そういう状況が生じた時に、神宿る皇女の産んだ中大兄、すなわちのちの天智天皇が、驚くべきテロリズムに走ることになる。
 すなわち大化改新……。

三田誠広の歴史エッセー
「女が築いた日本国」 三田誠広数多の歴史小説を発表されている作家の三田誠広さんによる歴史エッセー「女が築いた日本国」が始まりました。第二十六回 皇極・斉明女帝の謎第二十五回 推古女帝はなぜ天皇になったのか第二十四回 堅塩媛と小姉君第二十三回...