
第二十九回 独裁者・持統女帝の誕生
偉大な独裁者・持統女帝については、この連載の始めの方で詳述したので、ここでは簡潔にその生涯をたどることにする。
大化改新の直前、のちに天智天皇となる中大兄は、蘇我一族の傍系の石川麻呂を味方に引き入れるために、娘の遠智姫を妻とした。
しかし権力を掌握すると、中大兄は石川麻呂を討った。
遠智姫は夫に父親を殺されたことになる。その怨みは、二人の娘に語り伝えられたのではないか。
讃良姫と呼ばれた持統は、父親の天智に対して、深い怨みを抱いていたのではと、ぼくは考えている。その怨みが、偉大な独裁者としての持統女帝の強靱な精神力のもととなっているのではないだろうか。
讃良姫は、姉の大田姫とともに、大海人の妻となった。大海人の愛人だった額田女王に惚れ込んだ天智は、交換条件として、二人の娘を差し出したのかもしれない。海戦を得意とする大海人は、天智にとっては貴重な親族だった。娘二人を通じて、関係を強化したかったということでもあるのだろう。
讃良姫としては、姉とセットで嫁入りさせられるというのは、屈辱だったのではないか。姉の方が先に妊ったのだが、女児だった。大伯皇女だ。やがて姉は男児(大津皇子)も産むのだが、それに先んじて讃良姫は男児(草壁皇子)を産むことに成功した。
草壁と大津はわずか一歳違いなのだが、母親がともに皇女なので、皇位継承者としては、わずかでも先に生まれた方が有利だ。しかも大津の母の大田姫は亡くなってしまい、讃良が天武天皇の皇后となったので、草壁がかなり有利になった。
蘇我一族という強大な軍事力をもった豪族が滅びて、ヤマトの周辺は小豪族が群雄割拠する状態になっていた。そのため天皇の権威が強くなっていた。これは律令制度の確立によってさらに強化されることになる。
大海人は公式には天智の同母弟ということになっている。しかし大海人という幼名でもわかるように、海戦海運に携わる小豪族に育てられたので、最初から臣下として、軍事的な面で才能を発揮していたのだろう。
漢籍の教養があり、陰陽道、易学、天文学にも造詣が深かった。
天智天皇としても、大海人を味方につけておく必要があった。そのため皇太弟という地位を与えた。これは大臣より地位が上の皇族という意味で、皇位継承を約束したものではない。天智天皇は長男の大友皇子への直系継承を「あらためまじきつねののり(不改常典)」という詔勅の形で公示した。
しかし群臣の多くは、大海人と、妻の讃良すなわちのちの持統女帝に期待をもっていたようだ。
白村江での大敗と、急な近江への遷都で、ヤマトの豪族たちの気持は天智から離れていた。そのままでは内戦になりそうな危機感があった。
皇太弟の大海人は身の危険を感じて、自ら身を引いて吉野の離宮に隠棲した。天智の側近の蘇我赤兄は、大海人を殺せと進言していたはずで、大海人が無事に吉野に向かう姿を見て、「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と恐れたと伝えられる。
天智が没すると、大海人は吉野を脱出して、領地のある美濃に向かった。長男の高市皇子が将軍となって近江の王朝を攻め、大友皇子は討たれた。三男の大津皇子も参戦して手柄を立てた。
高市の母は小豪族の女なので皇嗣としては認められないが、三男の大津の母は讃良の姉なので、血筋としては申し分がない。群臣たちの支持も大津に傾いていたのだが、大海人はしばらく隠棲していた懐かしい吉野離宮に六人の皇子(そのうち二人は天智の息子)を集めて、皇嗣としての順位を言い渡した。これを吉野の盟約という。
一番が草壁、二番が大津、三番が高市。これは天武の意思というよりも、皇后持統の強い要請によるものだろう。六人の皇子たちがこれを受け容れたので、皇嗣の問題はいちおうの解決を見た。
順位を言い渡して気持が軽くなったのか、吉野離宮で天武はこんな能天気な和歌を残している。
〽淑き人の良しとよく見て好しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見
(昔の偉人が好いところだから良く見よと言ったこの吉野をよく見ておけ)
意味不明の歌だが、順位が決まってほっとして、酒でも呑んでいい気分になり、語呂合わせのラップみたいな歌を口ずさんだのだろう。
この連載の始めの方で述べたように、大海人の出自には怪しいところがある。さらに「不改常典」を定めた天智天皇の意思を無視して、大海人が天智の長男の大友を討ったことは、群臣たちの反感を招く可能性があった。
そこを収拾したのが皇后の持統で、彼女は天智の皇女として、また緊急の場合の神宿る皇女として、群臣たちの信望を集めていた。天武天皇が即位したあと、漢籍に詳しい天武が諸制度の改革に当たる一方、政務の大半は皇后が担っていたとされる。
天武の没後、皇后の持統は皇后のままで政務を独裁した。これを皇后称制と呼ぶ。実子の草壁がまだ三十歳に達していないので、皇位が空白のまま皇后が政務を担当したということだ。しかし皇位の空白は混乱を招く可能性がある。
天武崩御の直後、大津皇子が謀反の疑いで捕縛され、処刑された。
吉野離宮で順位を定めたのは天武だから、その天武がいなくなれば吉野の盟約が守られるとは限らない。群臣の支持が集まっている大津を早めに抹殺しておくという、持統の冷徹な決断だった。
独裁者となった持統だが、誤算があった。病弱な草壁が、三十歳の即位を前に病没してしまったのだ。享年二十八。
称制を続けていた持統は、持統女帝として即位する。
草壁には幼い遺児があった。その遺児が十五歳になるまで、持統は女帝を続けた。天皇として即位するためには三十歳でないといけないという、古来の不文律を、持統女帝は無視して、強引に十五歳の天皇(文武)に即位させた。
こんなことが可能だったのも、持統が揺るぎのない独裁体制を固めていたからだ。
孫に譲位したあとも、持統は没するまでの五年間、太上天皇(上皇)として君臨した。
天皇の崩御ではなく譲位によって政権が移るというのは、二度即位した皇極・斉明女帝の先例があるが、この時は弟の孝徳が即位し、実質的には子息で皇太子の中大兄が政務を担っていた。
退位後も政務を掌握しつづけるという、院政期の上皇の立場と同じ、上皇による権力システムを確立したのは、持統女帝が史上初めてのことで、文武が十五歳で即位したことも含めて、空前の出来事だった。
すでに一度引用したはずだが、この当時の持統女帝を称えた柿本人麻呂の和歌を再度引用しておく。
〽大君は神にしませば天雲の雷の上に廬らせるかも
(持統女帝は神であられるので雷雲の上にお住まいなのでしょう)
その持統の独裁体制を支えたのが、側近の藤原不比等だった。天智落胤説をとるなら、不比等は持統の異母弟ということになる。
不比等が先頭に立って確立したのが、律令格式だ。
中国の制度にならいつつ、日本の実状を加味した、法律、条令、慣習の総合的な体系が、大宝律令として整備された。
それまでは、ヤマト周辺の豪族の私兵の寄せ集めにすぎなかった朝廷の軍団は、律令によって組織化された。奈良時代に入ると不比等の四人の子息が政務と軍務の要職に就いて、藤原一族による独裁体制が完成する。
そこに行くまでの流れを作ったのが、持統による独裁体制だった。この独裁体制は、持統上皇から、妹の元明女帝に引き継がれていく。
草壁皇子の子息の文武天皇も病弱で、のちに聖武天皇となる幼児を残して没したあとを、元明女帝が支えていく。この持統と元明によって完成されたのが、藤原京だ。
それまでの皇居は、天皇が亡くなる度に移設されるのがふつうで、地形に沿った狭い道路しかない飛鳥のここかしこに皇居が置かれていたのだが、藤原京は唐の長安を模したといわれる、広大な道路が縦横に走った大都市の建設で、その中央に宮殿が築かれた。
この条里をもった大都市は、さらに元明女帝によって、盆地の北部に移設されることになる。
すなわち平城京。
この大都市は、持統と元明という、偉大な女帝によって為し遂げられたものだ。


