
第三十回 大伯皇女の悲劇
平城京遷都を実現した元明女帝に話を移す前に、一つの悲劇について語っておきたい。
大伯皇女(読み方は「おおくのひめみこ」)。
彼女もまた「神宿る皇女」だったのかもしれない。
持統女帝の姉の大田皇女が母親だ。
白村江の戦さのために、九州の那大津(福岡)に移動する途中の、瀬戸内海の停泊地で生まれた。大伯というのはその土地の名で、岡山のあたりだ。ちなみに道後温泉に長く逗留したあとの那大津で生まれた弟は大津皇子と呼ばれた。
母親の太田皇女が生きていれば、この姉弟の運命も変わっていただろう。だが、母が亡くなり、叔母にあたる持統が皇后となった。持統には実子の草壁皇子がいる。しかも持統は皇后として、政務の半ばを担う実力者だった。
壬申の乱で夫の大友皇子が亡くなったあと、天武天皇の長男の高市皇子と相思相愛の仲だった十市皇女を自害に追い込んだのは、明らかに皇后の持統だった。
吉野の盟約では、天武天皇の宣言で、皇子に順位がつけられ、一番が草壁、二番が大津、三番が高市と定められた。
二番手ではあるが、大津皇子は群臣たちから高く評価されていた。大津は背が高く、少年であった時期の壬申の乱にも参戦している。病気がちの草壁は性格が陰気で、女官たちの人気も大津に集中していた。
大伯皇女は、弟を溺愛していた。弟だけが生き甲斐だったといっていい。
大伯には、浮いた噂がなかった。持統の異母妹が、高市皇子や草壁皇子に嫁いだのに対して、大伯を妻に迎えようとする皇族や豪族は皆無だった。
有力豪族が大伯を嫁として迎え入れれば、大津の有力な支持者となる。そんな豪族が現れたら、皇后の持統がただでは置かないだろう。
誰もが皇后を恐れていた。
大伯の悲劇は、すでにそこから始まっていたのかもしれない。
弟を皇位に就けたい。その思いに凝り固まった大伯は、畿内の豪族たちを訪ね回るようになった。
すでに皇族の一員として、朝廷でも職務に就いていた大津の評判はよかった。皇女の大伯がわざわざ訪ねていって、弟をよろしくと頼んで回ると、豪族たちも悪い顔はできない。
大伯には、神宿る皇女としての巫女的なところがあったようで、大伯のカリスマ的な言動に賛同するものも現れた。
皇后の持統が手を打った。大伯を斎宮に任じたのだ。
先に十市皇女が斎宮を拒否して自害した先例があったが、大伯は斎宮に出向いた。弟のために活動していた大伯は、斎宮に閉じ込められることになった。
そして、天武天皇の崩御と、その直後の大津皇子の処刑。
大津は自分の身が危険だということを事前に察知していて、伊勢の斎宮まで姉に会いに行く。斎宮は男子禁制の場所だが、二人は夜を徹して語り合い、明け方、大津は大和に戻っていく。
そのことを詠った大伯皇女の和歌が残されている。
〽我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて、あかとき露に我が立ち濡れし
(弟を大和に帰したあと夜が更け暁まで立ち尽くして露に濡れました)
〽二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ
(二人でも越えて行くことが難しい秋山をあなたは一人で行くのですね)
大津皇子が処刑されたことで、大伯を伊勢に閉じ込めておく必要がなくなった。持統は斎宮の任を解いた。伊勢から大和に戻る時に大伯が詠んだ歌。
〽かむかぜの伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
(神風の吹く伊勢の国からなぜ戻るのか、そこには弟もいないのに)
〽見まくほり我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
(会いたかった弟もいないのになぜ帰るのか、馬が疲れるだけだ)
大津皇子は葛城山に隣接した二上山に葬られた。そのあとで大伯が詠んだ歌。
〽うつそみの人なる我や明日よりは二上山をいろせ(弟背)と我が見む
(わたしはまだこの世にいる、明日からは二上山を弟として見よう)
〽磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに
(岩の上にあしびがあって手折ったけれど見せるべきあなたはもういない)
和歌というのは、日本人にとって、とても大事なものだとぼくは思っている。
小倉百人一首を見ても、技巧に満ちた恋の歌から、美しい風景を詠んだもの、心情がストレートに伝わってくるものなど、その多様さと豊かさに胸を打たれる。
この大伯皇女の六首の和歌を、何といえばいいのだろうか。
痛憤……と言葉にして言ってみても、皇女の気持は伝わらないだろう。
「あかとき露に我が立ち濡れし」という言葉が、何とも重い。「明け方まで立っていて露に濡れてしまいました」という言葉の陰に、弟が去ったあとの暗闇をじっと見つめていた皇女の悲しみと悔しさが秘められている。
「二上山をいろせと我が見む」というのも、「墓所のある二上山を見る度に弟のことを思う」ということが伝わってくるだけではない。持統に対する痛憤がその言葉には秘められている。
小倉百人一首に収められている崇徳院の歌は多くの人が知っている。
〽瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
(早瀬の速い流れが岩に割かれてもその先でまた一つの流れになるだろう)
これは恋の歌とされている。いまは別れていても、またいつか逢えるだろう。そんな希望を語った歌とも見えるのだが、譲位を強いられて起こした戦さに敗れ、讃岐に流された崇徳上皇の痛憤を思うと、「岩に当たって割かれた激流がまた元に戻るはずだ」という言葉には、いつか自分に政権が戻るはずだという、悲痛な願いをこめた歌とも感じられる。
この和歌を小倉百人一首に選んだ藤原定家も、そんな思いをもってこの歌を収録したのではなだろうか。
なお、処刑された大津皇子の辞世の和歌も残されている。
〽ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
(由緒のあるいわれの池に鳴く鴨を見るのも今日限りで死んでいくのだ)
大伯皇女は四十二歳まで生きたと伝えられる。
弟の大津皇子が亡くなった時は二十六歳だった。
大津のライバルだった草壁の死ばかりか、その子息の文武天皇の薨去の時にも、大伯はまだ生きていたことになる。もちろん持統女帝が亡くなった時にも生きていた。
その持統のあとを継いで政務を執った元明女帝と、大伯皇女は、同じ年の生まれだ。同い年だということは、皇族に生まれたものとして、元明女帝を自分のライバルと見ていたことがあるのかもしれない。
元明は大津のライバルだった草壁皇子の妻となった。ライバル同士の皇子の妻と、姉。
火花が散るようなライバルだったのかもしれない。
大津皇子にも妻がいた。
山辺皇女という天智の娘だが、母親は壬申の乱で敗れた蘇我赤兄の娘だった。
いわば敗者の家系の娘として、不遇な時を過ごすはずだったが、山辺皇女は、元明女帝やその姉と、同母の姉妹のように暮らしていた時期があり、おそらくは皇后持統の指示で、皇位継承の一番の草壁には元明、二番の大津には山辺、三番の高市には元明の姉と、カップルが決められた。
元明の姉の御名部皇女は、太政大臣となった高市の妻となり、長屋王を産んだ。その長屋王の悲劇を知らずに死んだ。山辺皇女は夫の処刑という悲劇をまともに受けた。大伯は伊勢の斎宮にいたので、悲劇の現場からは離れていた。
山辺皇女は、狂い死んだと伝えられる。
痛憤をこめた歌を残したあと、四十二歳まで生きた大伯と、狂い死んだ山辺皇女と、どちらの胸の痛みが大きかったのか……。それは何とも言えないところだ。


