「女が築いた日本国」第三十一回 三田誠広

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第三十一回 元明女帝と平城京遷都

 平安京遷都をしたのが桓武天皇だということはよく知られているが、平城京遷都の元明女帝は、あまり知られていない。
 京都はその後も千年以上にわたって、天皇の御座所であり続けた。
 奈良はそうではない。
 東大寺や興福寺があり、鹿がいたりするので、観光名所にはなっているけれども、そこに天皇がいた期間は八十年ほどにすぎないのだが……。
 奈良は、魅力的な場所だ。
 ぼくは奈良が好きだ。大阪で生まれ育ったので、奈良には何度も出かけたし、大事な思い出もたくさんある。当時は上本町が始発だった近鉄に乗れば、あっという間に奈良に着く。新宿から立川に行くくらいの感じだ。東京駅からなら横浜に行くのと同じくらいか。
 ただし奈良との間には生駒山がある。トンネルがあるので、別世界に行くような感じがするのだが、距離はものすごく近く感じる。国鉄(JR)はトンネルではなく、大和川に沿っていくので、もっと時間がかかる。
 京都が、山に囲まれた盆地のほぼ中央にあるのに対し、奈良の街は盆地の南東の山際にある。
 奈良への遷都には、大きな決断が必要だった。
 今回はその決断をした元明女帝の話をする。
 元明天皇は持統天皇の異母妹で天智の皇女だった。幼名を阿閇皇女(読み方は「あべのひめみこ」か/「あとじ」とも読めるのだが)。同母の姉に高市皇子の妻となった御名部皇女(読み方は「みなべのひめみこ」)がいる。異母妹に山辺皇女がいて、敷地に限りのある近江大津宮では、この三人は同母の姉妹のように同居して仲睦まじく暮らしていた。
 御名部、阿閇、山辺……この三人の天智の皇女と、高市、草壁、大津……この三人の大海人(天武)の皇子とは年齢も近く、よいカップルになりそうだと誰もが思ったはずだ。
 問題はどういう組み合わせになるかだ。カップルを決めたのは天武の皇后となった持統女帝だが、皇女たちの意向を問うてみたことはあったかもしれない。
 三人の皇子のうち、抜群に評価が高かったのは高市だ。長男であり壬申の乱でも将軍として大活躍した。姿が美しく女官たちの人気者だったのは大津だ。持統の実子の草壁は、皇嗣の最有力とはいえ、病弱で性格にも暗いところがあったといわれている。
 人気投票をするなら、高市、大津、草壁の順だろう。年齢からすると、皇女のなかで最年長の御名部が高市に嫁ぐのは自然だった。高市が未亡人となった十市皇女と相思相愛であることは誰もが知っていたが、十市の自害で高市も諦めがついたはずだ。
 問題は、大津か草壁か、というところだ。
 聡明な阿閇(元明女帝)は、草壁を選んだ。
 自分が皇后になって病弱な草壁を支えるという決意があったのだろう。
 持統も阿閇の聡明さを評価し、自分の後継者となるのは阿閇だと狙いをつけていたのだろう。いずれにしても、壬申の乱で失脚した蘇我赤兄を祖父にもつ山辺皇女は、持統の実子の妻にはふさわしくなかった。
 ということで、カップルの組み合わせは、すんなり決まった。
 大津の処刑で狂死した山辺は、貧乏クジを引いたことになるが、三人のなかでは最もハンサムで人気者だった大津の妻になれたことで、山辺も瞬間的には幸福だったはずだ。
 阿閇は病弱な草壁と結婚したが、夫は天皇として即位する前に病没してしまった。
 幸いにも、珂瑠皇子(文武天皇)という男児に恵まれて、わが子の将来に希望をもつことができた。
 しかし珂瑠皇子も病弱で、孫が即位するまではと頑張って女帝を続けていた持統も、心配でならなかったのだろう。
 持統は自分が父の天智の後継者を討ったことで、父の怨霊がとりついているのではと懸念した。柿本人麻呂を近江に派遣して、鎮魂の歌を詠ませたりした。曾孫にあたる聖武天皇も病弱で、そのため東大寺の大仏や、薬師寺、新薬師寺など、次々に仏閣が建立されることになった。
 人麻呂の鎮魂歌も効果がなかったようで、十五歳で即位した文武天皇は、十年後、二十五歳で病没する。あとに残されたのは七歳の病弱な幼児(のちの聖武天皇)。このピンチを救うのは、「神宿る皇女」の阿閇皇女だ。
 阿閇皇女は長く持統の嫁として、二人で草壁皇子と文武天皇を守ってきた。文武の即位から五年後に持統が亡くなったあとは、阿閇皇女が一人で文武を守った。その文武が薨去したいま、頼りになるのは自分以外にはない。
 阿閇皇女は即位して元明女帝となる。
 しかし阿閇皇女は、持統のようなカリスマではなかったので、不安もあったはずだ。
 朝廷ではいまの「勤労感謝の日」のもとになった、農作物の取り入れを感謝する新嘗祭を毎年十一月下旬に実施していたのだが、新帝が即位した年の新嘗祭は特別の行事として、大嘗祭と呼ばれていた。
 その大嘗祭に際して、元明女帝が詠んだ和歌が残されている。
  〽ますらおの鞆の音すなり、もののふの大臣楯立つらしも
  (男たちの鞆の音が響きます。武者の大臣が楯を立てているのですね)
 これは大嘗祭の恒例の行事で、内裏に隣接した大極殿と、群臣が政務にあたる朝堂院との間の中庭に、高官たちが集まり、全員が鎧で身を固め、弓と盾を手にして、掛け声とともにいっせいに弓の弦を弾くと、弓柄をもつ左手に装着した革製の鞆に当たって、ビシッという冴えた音を立てる。
 将軍役がそれに応じて手にした楯を地面に打ち当て、ズンッと大地を揺るがせるような濁った響きを起こす。
 軽やかな冴えた音と、重々しい濁った響きとが、交互に鳴り響き、周囲の建物に反響して、荘厳な気配が中庭を満たす。
 男たちの豪壮な舞踊だ。
 本来なら将軍役は新帝がつとめるところだが、即位したのが女帝なので、老いた左大臣の石上麻呂が代役に立った。
 男たちの雄叫びと、楯を打つ響きに、頼もしさを感じると同時に、自分が女帝であることの虚しさと不安をこめて、この和歌が詠まれたのだろう。
 大嘗祭においては秘儀が実施される。秋の稔りの米や粟を、降臨した伊勢のアマテラスと新帝がともに食する儀式で、その場には神の依代となる巫女が欠かせない。
 巫女をつとめるのは通常は皇后だが、女帝なので皇后はいない。そこで元明女帝は、姉の御名部皇女に巫女の役を頼んだ。女帝の和歌を聞いた姉は、こんな歌を返した。
  〽わが大君ものな思ほしすめかみ(皇神)の嗣ぎて賜へる我なけなくに
  (大君よ心配しないでください、そばにわたくしがついております)
 女帝の大任に不安を覚えている妹を、そばにいる姉が優しく励ましている。
 心温まる和歌のやりとりだが、実際に姉の御名部皇女は、女帝の心の支えとなっていたはずだ。
 御名部皇女が嫁いだ高市皇子は亡くなっているのだが、三十二歳になった子息の長屋王が、正四位上という公卿に準ずる地位にある。
 持統女帝の側近として政務を担当した藤原不比等に次ぐ、若手の高官として、実力を発揮し始めていた。
 女系天皇というキーワードについては、すでに述べたので詳述はしないが、元明女帝の末の皇女が長屋王に嫁ぎ、男児が生まれている。
 その長屋王の子息たちにも、皇位継承権があるという詔勅を、元明天皇はのちに発することになる。
 それが長屋王の一族すべてを抹殺する、藤原四兄弟(不比等の子息たち)の暴挙を引き起こすことになるのだが、聖武天皇が病弱であることと、姉への感謝の気持が、長屋王に対する高い評価につながったものと思われる。
 平城京遷都を実現した元明女帝は、長女の元正女帝に皇位を継承させた。聖武天皇はあいかわらず病弱だった。あるいは長屋王の子息に引き継ぐまでの間、娘の女帝が政務を執ることが、元明女帝の希望だったのかもしれない。
 まだ持統女帝が生存していたころに、藤原京という広大な王都が建設された。幅の広い道路が縦横に走った大都市の建設は半ばで挫折した。盆地の中央に位置するこの土地は、水捌けがよくなかった。
 元明女帝は盆地の北東に遷都を敢行する。ここは山裾の斜面であり、湧き水も豊富で、排水も充分だった。ただしこのころから、藤原不比等と子息たちの勢力が強くなり、王都は波乱を予感させる状況になっていく。

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