
第三十二回 橘三千代はどこから来たか
ぼくたちは名字(苗字)というものを使っている。ファミリーネームであり、一族の名称だ。夫婦別姓とか、そういう話をするつもりはない。個人名だと、同じ名前の人がいて区別がつけにくいので、氏族の名称を先につけておく。ひと昔前なら、由緒正しい家系であるとか、家柄みたいなものが重視されたのだが、いまはまあ、家族単位の符号のようなものになっている。
しかし伝統的な名字は、氏姓と呼ばれ、そこには意味があった。
物部は、物の怪などといわれる恐ろしいものを退治してくれる武官だし、大伴は王都近辺の「とものみやつこ(伴造)」の代表格であり、中臣は大臣に次ぐ地位で神祇を担当する役職を表していた。服部(「はたおり」が転じて「はっとり」となった)、玉造、弓削、土師など、職業集団を表すものもあった。
皇族には氏姓がないのだが、臣籍降下といって、皇族の子弟が民間人になる場合も、氏族名が必要となる。平安京を築いた桓武天皇の孫や曾孫には「平」が与えられ、それ以後の皇族の子弟には、先祖が皇族であることを示す「源」が与えられた。
このように朝廷から新たな氏族名が授与されることは、名誉なことであった。
ところで、いまぼくたちが使っている名字は、朝廷から与えられたものではない。東国では、桓武天皇の孫や曾孫が国司の次官や三等官クラスで地方に赴任し、そのまま地方の小領主の娘婿になることが多かった。田舎の小領主にとっては、「平」という氏族名を名乗ることは、大変な名誉だった。
この結果、東国の小領主の多くが、「平さん」と呼ばれるようになった。皆が「平さん」なので、区別がつきにくい。そこで氏族名の代わりに、領地のある地名で区別するようになった。それが名字の由来だ。
同じように、京の貴族のほとんどが「藤原さん」になってしまったので、住んでいる道路の名前で区別するようになった。一条、三条、九条、近衛、冷泉、武者小路、勘解由小路などだ。
農民など名字のない人も多かったのだが、明治になって名字を登録する必要ができて、適当に地名や地形を登録することになった。ぼくの三田というのは、近くに皇室領か天領があって、「御田」と呼ばれていたのを、書くのがめんどうなので「三田」にしたのだろう。
このように、いまの名字はほとんどが地名に由来しているのだが、朝廷から賜った氏族名が残っているケースも少なくない。
県犬養三千代が、長年の功績によって、「橘」という氏族名を与えられた。そこから「橘さん」という氏族が生まれた。嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子、空海とともに唐に留学した橘逸勢、菅原道真とともに藤原一族に対する抵抗勢力となった漢学者の橘広相など、有名人を輩出している。
平安時代には、「源・平・藤・橘」と称され、名門の代表格ということになっていた。
その橘という氏姓は、文武、聖武という二代の天皇の乳母となった三千代の功績に対して与えられたものだ。
新たな氏姓を賜った県犬養三千代(読みは「あがたいぬかいのみちよ」)の出自は、明らかになっていない。
地方の屯倉と呼ばれる米倉を、犬を鍛えて守っていた武官の名称だと思われるのだが、三千代は下級の女官として朝廷に出仕していたものと思われる。
壬申の乱のおり、近江王朝は全国に援軍を要請した。地方の軍勢で最大のものは大宰府の守りに就いていた兵団だが、長官の栗隈王は兵を出さなかった。それが功績と認められて、天武天皇のもとで兵政官長という役職に任じられた。敏達天皇の子孫という末端の皇族だった。
その子の美努王も治部卿を務めるなど要職にあったのだが、三千代はこの美努王の妻として、葛城王と佐為王を産んでいる。
美努王も末端の皇族なので、さしたる出世欲もなく、家柄のない女を妻に迎えた。三千代がよほどの美人だったのか、あるいは持統女帝に気に入れられた女官だったので何らかのメリットを期待して妻に迎えたのか、そのあたりは不明だが、持統女帝が三千代に目をかけていたことは確かだ。
三千代は、持統の孫の珂瑠皇子(文武天皇)の乳母に起用された。
皇族の妻であることと、子を産んで乳が出ること、さらに持統女帝の信頼を得るほどに聡明な女性だったと思われる。
この美人で聡明な乳母に目をつけたのが、藤原不比等だった。
不比等にはすでに妻がいて、のちに藤原四家(南家・北家・式家・京家)を起こす四兄弟や文武天皇の夫人となる宮子は生まれていたのだが、三千代を後妻として、のちに光明皇后と称えられる安宿媛(読み方は「あすかべひめ」)を得ることになった。
娘を産んで乳が出たことから、三千代は聖武天皇の乳母にも起用された。二代の天皇の乳母となったのだ。これは異例のことであり、偉大な功績でもある。「橘」という新たな氏族名を賜るのも当然だ。
氏族名を賜ったことで、先夫の子の葛城王は橘諸兄、佐為王は橘佐為と名乗ることになった。諸兄は光明皇后の異父兄にあたるわけで、のちに左大臣に昇り、一時期は藤原一族を凌ぐ権勢を誇ることになる。
ここで奇妙なことが起こる。オビト(首)と呼ばれたのちの聖武天皇の乳母であった三千代には、実子の安宿媛(光明皇后)がいた。この二人は、双児の兄妹のように、いっしょに育つことになった。
病弱なオビトは、年は同じだが安宿媛を姉のように慕い、安宿媛の言いなりになることが習慣になった。二人が結婚したあとも、リーダーシップをとるのは安宿媛だった。彼女は自らを光明子と称し、やがては光明皇后と呼ばれるようになる。
この時代までは、皇后に立てられるのは皇女に限られるという不文律があった。実際に文武天皇の妻となった藤原宮子は、「皇后」ではなく、「夫人(読みは「ぶにん」)」と呼ばれていた。
しかし光明子は、皇后に立てられた。一説によると、長屋王が抹殺されたのは、この光明子の立后に長屋王が強く反対したからだとされる。
三千代は聖武天皇の母代わりでもあった。乳母という立場ではあったが、ともに育てている安宿媛の母親だから、オビト皇子の母も兼ねることになる。
産みの母の藤原宮子は、オビトを生んだものの、精神障害に侵されていて、幽閉されている状態だったから、オビトは三千代を本物の母と思っていたはずだ。
兄妹のように育っていた二人が結婚する。そして天皇と皇后になる。三千代は同時に天皇の母と皇后の母になった。それだけでもすごいことだが、さらに三千代は、オビトの妻のスペアまで用意した。親族の県犬養広刀自という娘を、聖武天皇の夫人としたのだ。
聖武天皇は相変わらず病弱だった。祖母の元明女帝の父の天智天皇の怨霊への怖れが、巨大な大仏の造営につながった。光明皇后も夫の病気の回復を願って、東大寺と同じくらい広大な新薬師寺を建立している。
さて、ここで、問題が生じる。皇嗣の問題だ。
光明皇后は阿倍内親王(孝謙女帝)という女児と、基王という男児を生んだ。この男児が「もといのおおきみ」なのか、命名の前に亡くなったので「なにがし」という意味で「某王」と書かれたのが読み間違いで基王と伝えられたのか、判明しない。いずれにしても親王宣旨の前に亡くなったことは確かだ。
一方、県犬養広刀自の方は、井上内親王(読み方は不明で「いのえ」「いのうえ」「いかみ」「いがみ」などの説がある)、不破内親王、安積親王の二女一男を産んだ。
聖武天皇の長男の基王が夭逝したため、次男の安積親王が有力な皇嗣となったのだが、この男児も亡くなってしまった。
残ったのは女児三人。年の順では井上内親王、阿倍内親王、不破内親王だから、末の妹の不破内親王は除外されて、井上か阿倍かということになるが、阿倍が皇后の娘であることから、阿倍内親王が皇太子に立てられた。
女性の皇太子というのも、空前のことだ。
で、ライバルの井上内親王は、伊勢斎宮に送り出された。
このころから伊勢斎宮は、十市皇女や大伯皇女の例のように、不要な皇女の収容所となった。「伊勢物語」の恬子内親王も同様だ。
そして、六人目の女帝、孝謙女帝の即位ということになる。
ただその前に、光明皇后の時代があった。
病弱な聖武天皇に代わって、政務の大半を光明皇后が担っていたことは明らかだ。
長屋王一族の大虐殺という、歴史的事件の直後に、藤原四兄弟は立て続けに病没した。
長屋王の呪いだと誰もが考えた。
権力者になろうとしていた兄四人がごっそりいなくなったので、ここから光明皇后の独裁体制が始まっていくことになる。


