「女が築いた日本国」第三十四回 三田誠広

「女が築いた日本国」バナー

第三十四回 孝謙・称徳女帝と道鏡禅師

 古代最後の女帝。
 皇極・斉明女帝と同じように、二度にわたって即位したので、諡号が二つある。最初が孝謙、二度目が称徳。ここでは孝謙女帝と呼ぶことにしよう。
 ぼくは大昔に『天翔る女帝』(廣済堂出版)という作品を書き、『桓武天皇』(作品社)でも女帝と道鏡を登場させ、さらに『道鏡』(河出書房新社)という小説も出した。
 そのおりに影響を受けたのが、あの偉大なコミックス、里中満智子 『女帝の手記―孝謙・称徳天皇物語』(中公文庫コミック版)だ。
 里中さんの作品では、道鏡はイケメンの真面目な僧侶として描かれている。もちろんぼくの作品もそうだ。
 しかし道鏡という人物は、長くロシアのラスプーチンのような怪僧というイメージで語られることが多かった。
 これはおそらく、平安時代の藤原一族が、デマとして創り上げた虚像だろう。
 道鏡を悪いやつにしておかなければ、先祖の藤原仲麻呂が逆賊として討たれたことの言い訳にならないからだ。もちろん女帝を批判するともできないので、とにかく道鏡の悪徳が語られることになる。
 そういう見方は、庶民にはウケるようで、江戸時代にはこんな川柳が作られた(アブナイ川柳なので心して受け止めてください)。
  〽道鏡は座ると膝がみっつでき
 これは説明不要だろう。右膝と左膝、その真ん中にもう一つ膝がある。この膝は何?
  〽道鏡に根まで入れろと詔
 これは何のことだろう。ぼくにはわからない。とにかく女帝の発言は、すべて「みことのり(詔勅)」ということになるようだ。
  〽道鏡に崩御崩御と称徳言い
 これもぼくにはわからない。どうやら江戸時代の女性は、感極まると「死ぬ、死ぬ」というのが通例だったらしい。あるいは遊女がリップサービスでそんなことを言ったのか。それを真に受ける男の方がアホだと思うけれど、女帝だから「死ぬ」が「崩御」になるというのも、よくわからないギャグだ。
 とにかく道鏡の評判はよくない。こんな怪僧に意のままに操られた女帝も問題である……というような認識が世間に広まっていたのだろう。
 しかし道鏡は、まじめな人物だったとぼくは思っている。
 道鏡は東大寺の看病禅師だった。
 いわゆる「禅宗」の臨済宗や曹洞宗が伝わったのは鎌倉時代だが、仏教の修行僧の実践項目の六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)の五番目に「禅定」というのがあるので、座禅というのは昔から重要な修行の方法だった。
 僧侶は、禅師と呼ばれた。
 まだ空海の真言密教は伝わっていない。それでも呪文によって魔を祓うという、一種のおまじないは、庶民にも受け容れられていて、加持祈祷と呼ばれていた。それで病気を治すことから、看病禅師と呼ばれることもあった。
 鑑真が唐から渡ってきて、戒律を重んじるとともに、薬草による病気治療も実施していたのだが、薬では治らない病気もある。
 いまでいえば精神疾患なのだが、昔の人は、魔がとりついたとか、キツネに憑かれた、というような解釈をしていた。看病禅師が呪文を唱えると、何となく、魔が祓われた感じがする。それで病気が治る人もいたのではないかと思われる。
 いまでいえばサイコセラピーのようなものだろう。患者の話を聞いて、励ましてあげる。それがうまくいかない場合には、切り札として呪文を唱える。昔の人が相手なら、こちらの方が効果があったのかもしれない。
 聖武天皇の母で、光明皇后にとっては姑であると同時に異母姉にあたる宮子は、出産後に精神疾患となって、牢獄に幽閉されていたと伝えられる。その宮子を治療したのが、「玄ぼう(文字化けするおそれがあるので平仮名にしておくが漢字は日へんに方)という看病禅師で、治療の成果があって、聖武天皇は生まれて初めて実の母親と対面できたと伝えられる。
 道鏡も、そういう治療法を学んでいたのだろう。
 孝謙女帝はかなりわがままな女性だったようで、厳しい母親の光明皇后が亡くなると、藤原仲麻呂の手に余るようになった。そこで仲麻呂は女帝に譲位を迫り、自分の意のままになる淳仁天皇を擁立した。
 淳仁天皇は天武天皇の孫であるから、皇族ではあるのだが、持統上帝から文武天皇、元明女帝という主系列からは外れている。仲麻呂の長男は病没していたが、その未亡人はそのまま仲麻呂のもとに留まっていた。その未亡人の婿として淳仁天皇を迎えたのだ。
 つまり義理の息子ということになる。
 ここに藤原仲麻呂の独裁体制は、揺るぎのないものになったように見えた。
 独裁体制があまりにも完璧すぎたというのが、唯一の欠陥だった。
 南家の藤原仲麻呂に対して、冷遇されるようになった同じ藤原一族の北家や式家が反撥して、漢学者の吉備真備を中心に、歌人の大伴家持なども巻き込んで、仲麻呂の独裁体制を崩す作戦を密かに練り始めた。
 単なる武装蜂起では反乱になってしまう。武装蜂起を正当化する旗頭が必要だった。
 ところが橘奈良麻呂の反乱など、これまでにも光明皇后と藤原仲麻呂の独裁体制に対する抵抗勢力が暗躍していたのだが、仲麻呂は災いの芽となりそうな皇族をことごとく処刑していたので、旗頭となりそうな皇族が皆無という状態だった。
 そこで白羽の矢が立ったのが、譲位して太上天皇となっていた孝謙女帝だ。
 ただし、問題があった。
 意に染まぬ譲位を迫られた孝謙女帝は、愛人でもあった仲麻呂の翻意にショックを受けて、精神疾患となって、近江の行宮に幽閉されていたのだ。
 この時に動いたのが、吉備真備だったと思われる。吉備真備は漢学者として、孝謙女帝が皇太子であった時期に、東宮学士をつとめていた。従って女帝とは親しい間柄だった。女帝にとっては、唯一の味方となるのが、吉備真備だった。
 そのため、仲麻呂はあらかじめ手を打って、吉備真備を遣唐使として唐に派遣した。吉備真備はすでに一度、唐に渡航していて、看病禅師の「玄ぼう」を連れて帰っていた。だから二度目の渡航となる。
 この時代の遣唐船は、嵐に遭ったりして、乗組員の生存率が五割を下回っていた。往復すれば生存率は二割五分以下ということになる。
 仲麻呂としては、吉備真備が遭難して帰らぬ人となることを期待していたのだろう。
 ところが吉備真備はまたもや生きて帰ってきた。しかも今度は鑑真という高僧を連れて戻ってきたことで、群臣から高く評価されるようになった。
 宮子を治療した「玄ぼう」はすでに没していたので、吉備真備は看病禅師として実績のある道鏡を行宮に派遣して、治療にあたらせた。治療がどの程度、成果を挙げたのかはわからないが、とりあえず人前に出て配下に指示を出すことはできるようになった。
 密かにクーデターの計画が進められた。
 吉備真備は漢学者であるが、唐で兵法も学んでいた。ちょうど朝鮮半島の新羅の脅威が高まっていた時期なので、吉備真備は大宰府に派遣され、奈良の高官の子弟たちを集めて、軍事訓練に当たっていた。
 この結果、吉備真備は漢学者であるにもかかわらず、若い兵たちを統率する立場になっていたのだ。
 綿密に計画が練られ、クーデターによってまず皇居にいる淳仁天皇が襲撃された。
 天皇のもとには内印と駅鈴が保管されていた。内印というのは天皇の詔勅に捺される御名御璽のハンコのこと。駅鈴は地方に文書を伝達する時の、街道の要所に置かれた替え馬を用意した駅に使者が到着した時に、朝廷の使者であることを示す鈴の形をしたアイテムで、その鈴の鋳型となるものが皇居に保管されていた。
 内印と駅鈴は、権力の所在を示すもので、内相の仲麻呂が有する外印と呼ばれる太政官符のハンコよりも優位となる。
 内印と駅鈴を押さえてしまえば、藤原仲麻呂は天皇に対する反乱者ということになる。
 すでに藤原仲麻呂の親族以外は、すべて吉備真備、北家、式家の側に回っていた。
 クーデターは成功し、藤原仲麻呂の一族はすべて、謀反人として討たれた。
 淳仁天皇は廃帝となり、孝謙女帝が復帰する。
 重祚と呼ばれる二度目の即位で、没後に称徳という諡号が贈られるのだが、ここでは孝謙女帝と呼んで話を続けることにする。
 看病禅師道鏡の治療によって、太上天皇(上皇)となっていた孝謙女帝は、快癒した……はずであったのだが、どうもそうではなかったらしい。
 孝謙女帝は愛人であった藤原仲麻呂に棄てられ、皇位を剥奪された。
 そのショックが後を引いて、極端なヒステリー状態にあり、さらに色情狂といってもいいほどの情熱をこめて、道鏡を頼るようになった。
 孝謙女帝の指示で、道鏡は僧籍でありながらも、太政大臣禅師という地位に昇り、実質的な最高権威となった。さらに法王という空前の位となり、やがて孝謙女帝は、天皇の地位を道鏡に譲ると言い出した。
 この話は次回に続いていく。

三田誠広の歴史エッセー
「女が築いた日本国」 三田誠広数多の歴史小説を発表されている作家の三田誠広さんによる歴史エッセー「女が築いた日本国」が始まりました。第三十四回 孝謙・称徳女帝と道鏡禅師第三十三回 光明皇后と紫微中台第三十二回 橘三千代はどこから来たか第三十...