
第三十五回 和気清麻呂と藤原百川
明治時代に発行された十円札の表面には、和気清麻呂の肖像画が印刷されていた。
これが通用したのは昭和の初めくらいまでだから、ぼくは知らない。ぼくの子どものころの十円札は、人の肖像ではなく、国会議事堂が描かれていた。
で、和気清麻呂って誰? ということになる。
天皇として復帰した孝謙女帝は、道鏡を寵愛する一方、広虫という女官を信頼して側近としていた。広虫がどういう経緯で女帝の側近になったのか詳細は不明だが、夫の葛城戸主が、光明皇后に仕えて、貧民や病人救済の実務を担当した縁で、妻の広虫も手伝いをしていたのだろう。
その事業は孝謙女帝に引き継がれ、夫の死後も広虫は孝謙女帝に仕えていた。
精神疾患から復帰した女帝の世話を、広虫が一手に引き受けるようになったのは、女帝に信頼されていたからだろう。まだ病が完全には治りきっていない女帝は、なるべく人前には出ないようにしていたので、側近の広虫だけがおそばに侍るという状態だった。
その広虫の弟が、和気清麻呂だ。
姉の引きがあったようで、下級の武官だった清麻呂は、にわかに女帝の側近として台頭していく。
この地味な武官が脚光を浴びるのは、九州の八幡総本宮とされる宇佐八幡宮(いまは宇佐神宮と称している)が、「道鏡を皇位につけるべし」という八幡神の神託を朝廷に伝えた「宇佐八幡宮神託事件」あるいは「道鏡事件」と呼ばれる騒動の主役となった時だ。
神功皇后について語った時、石を腹に巻き付けて出産を遅らせたという話をした。朝鮮半島を征圧して九州に帰った時に産み落とされたのが応神天皇で、このお方が八幡宮の主神となっている。他に母親の神功皇后と、九州北岸の宗像三女神も祀られている。
で、八幡さまの神託が出た。
そういうことなのだが、八幡神社の禰宜とか、巫女が、ヒステリー状態になって何か叫んだ。神託というのはそういうものだろう。
応神天皇が、なぜ道鏡を支援するのか。
おそらく禰宜と呼ばれる神社の神主が、女帝にゴマをすって、そういう報告をしたのだろう。
それを真に受けた女帝は大喜びだが、群臣たちは猛反対する。
そこで神託の真偽を確かめるために、和気清麻呂が九州に派遣された。
和気清麻呂は八幡宮の本殿に入って、八幡神と対面し、直接に神託を受けたとされる。その文言が伝えられている。
「我が国は開闢以来、君と臣の分、定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」
その大意を記せば、わが国では太古の時代から皇族と臣下は厳しく区別されいた。それゆえに臣下を天皇にすることなどありえない。皇位継承は皇族でなければならぬ。そうでない人は排除すべし……。
まことに正当な神託だが、これは真面目一徹の和気清麻呂自身の心の声であったのだろう。
この結果、女帝は怒り狂って、清麻呂と広虫は左遷されてしまう。
ただし式家の藤原百川などによって、手厚い支援があり、のちに桓武天皇が政権を奪取すると、清麻呂は高官として朝廷に迎えられる。そして明治になってから、十円札の肖像となった。
で、孝謙女帝はどうしたか。怒りに任せて清麻呂と広虫を左遷したため、側近がいなくなった。かつての東宮学士の吉備真備が右大臣になっていたが、その娘の由利を側近とした。吉備由利は後宮の宝物や衣服を管理する典蔵(読みは「くらのすけ」)という重責を担い、のちには長官の尚蔵(「くらのかみ」)に昇る有能な女官だった。
この吉備由利が献身的に仕えたところを見ると、孝謙女帝はただの色情狂ではなく、吉備真備から学問を習った深い見識を有していたようで、権威の頂点に君臨することで、精神疾患もほぼ快癒していたのだろう。
ただ道鏡に対する熱愛は醒めていなかった。
女帝は道鏡の出身地とされる大阪の東に位置する八尾市の弓削という地に、由義宮(読みは「ゆげのみや」)という豪華な宮殿を造営して、そこで道鏡と贅沢な暮らしに耽っていた。
ここで、式家藤原百川という人物が登場する。
南家藤原仲麻呂に対するクーデターで中心となったのは、漢学者の吉備真備と、北家、式家の藤原一族だった。秘密裏にクーデターを計画した一団のなかには、歌人の大伴家持などもいたのだが、私兵を多く擁していたのは北家と式家だ。
北家のトップは藤原永手、式家のトップは藤原良継だった。百川は良継の弟だが、孝謙女帝の信頼を得て、側近となっていた。
左遷された和気清麻呂と広虫を密かに支援したのが百川で、清麻呂を宇佐八幡に派遣したのも百川だった。百川は最初から、女帝と道鏡の意向を無視して、道鏡の即位を阻止するために暗躍していたことになる。
女帝の百川への信頼が失われることはなかった。表面的には女帝に忠実な振りをしていたのだろう。
百川は腹黒い策士だった。表面は女帝に媚びへつらいながら、腹のなかでは、女帝亡きあとのことを考え、着々と手を打っていた。
孝謙女帝の死因について、百川による毒殺説というのが、近年は学者の間にも起こっている。
というのも、奈良の皇居でも、西の京と呼ばれた由義宮でも、配膳の用意はすべて百川が取り仕切っていたからだ。
由義宮で食事をしたあと、女帝はにわかな病で倒れ、急ぎ奈良に運ばれたのだが、そのまま崩御ということになった。
女帝の死によって、孝謙・称徳女帝の独裁政権は終わった。
病没によるあっけない終焉だった。
後継者は定められていない。
吉備真備と北家、式家の間で密かな談合が実施され、ここでも百川が暗躍した。
光明皇后の独裁から藤原仲麻呂、さらに女帝と道鏡による独裁が続いてきたわけだが、その間に謀反の疑いで処刑された皇族は少なくなかった。気が付いてみると、天武系の皇族はほとんど残っていなかった。
突如として浮上したのが、大納言をつとめている白壁王という人物だった。
天智天皇の孫にあたる。従って天武の血も、持統に引き継がれていた蘇我の血も入っていない。
壬申の乱の時には幼少だった志貴皇子の子息だ。
ぼくは中学生の時に、教科書で志貴皇子の和歌を習ったことがある。
〽石ばしる垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかも
(岩の上を走り抜ける滝のそばにワラビが芽吹く春になったんだな)
どうということのない叙景の歌なのだが、「いわばしル」「たルみ」「さわラび」「はル」「なリにけル」とラ行の響きを折り込んだ、軽快なリズムの歌、という解説がついていた。
この志貴皇子という人は、政界にはまったく関わっていない。恋と歌に生きたという能天気な人物で、その子息が白壁王だ。
どういうわけかこの人は、渡来人の百済王(読み方は「くだらのこにきし」)一族と交流があり、配下の渡来人と土師一族の娘との間に出来た、和新笠(読み方は「やまとのにいがさ」)という女性を妻としていた。
天武系の皇族が次々と死んでいったので、いつの間にか大納言になっていたのだが、朝から酒を飲んで朝廷に出仕し、会議ではいつもイビキをかいて寝ていたという伝説が残っている。
この人も父親譲りの能天気な人だったのか、それとも謀反の疑いをかけられないように、無能な人物を装っていたのか。
子息の桓武天皇は深い学識と強い意志によって、強大な独裁者となった。そのことを考慮すると、父親も長期的な戦略を立てて、わざと酒びたりを装って生きながらえたのだろう。いや、本当に酒が好きだったのかもしれないが。
ところで、女帝が崩御したあと、道鏡はどうなったか。
この人は看病禅師としてつねに女帝のそばにいたというだけなので、処罰の対象にはなからなかった。ただ下野国の薬師寺の別当として遠国に赴任することになった。
左遷のようではあるのだが、鑑真が伝えた正式な授戒の儀式ができるのは、東大寺の戒壇院、九州大宰府の観世音寺、下野薬師寺の三箇所に定められていたので、僧侶の免許を与える重責を負った、日本に三人しかいない戒師の一人になったのだから、ただの左遷とも言いきれない。
下野薬師寺では道鏡の直前までは、鑑真の直弟子の如宝という唐からの渡来僧が担当していた。道鏡はその戒師という重責を担いながら、地方国で静かな晩年を過ごしたのだった。



