「女が築いた日本国」第三十八回 三田誠広

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第三十八回 百済王明信とは何ものか

 京都の三大祭の一つに時代祭というのがある。
 各時代の京都にまつわる歴史上の人物が次々に登場する長大なパレードなのだが、平安時代の有名女性たちが新しい順に登場する隊列がある。トップバッターが巴御前で、清少納言、紫式部、小野小町などが登場して、掉尾を飾るのが百済王明信(読みは「くだらのこにきしみょうしん」)ということになる。
 百済王明信って誰?
 知っている人は少ないと思う。
 ぼくは『桓武天皇』(作品社)という小説を書いたことがあるので知っている。桓武天皇の、初恋の人なのだ(とぼくが勝手に決めている)。
 氏姓からもわかるとおり、交野に本拠を置く百済王一族の娘だ。
 百済王一族は末端の皇族だった白壁王(桓武天皇の父)を自邸に招き、従者の娘の和新笠を嫁がせて、姻戚関係を結んだ。
 新笠は母の里の大枝で生まれたはずだが、若いころに百済王家で、下女のようなことをしていたのだろう。
 結婚して懐妊したあとは母の実家の大枝に戻り、山部王(桓武天皇)もそこで育ったようだが、母とともに百済王家を訪ねる機会は少なくなかったはずで、平城京の官吏となったあとも、何かにつけて百済王家を訪ねていたことだろう。
 渡来人ではあるものの、武官として朝廷の重責を務める百済王家の娘で、才色兼備、ものすごく頭の良い感じの明信に、山部王は憧れの気持をもっていた。明信の方も、若き山部王に好意を抱いていたのではと思われる。
 ならば相思相愛で、結ばれてもよかったのだが、自由恋愛という概念のない昔のことだから、娘の婚姻は、親にとってはステップアップのための貴重な飛び道具だった。少しでも位の高い家の息子と婚儀を結んで、家の格を上げたいという思いを、どの親ももっていた。
 当時の山部王は、末端の皇族の息子だから、百済王家としては家の格が低いと判断されたのだろう。結局、明信は南家の藤原継縄(読みは「つぐただ」)に嫁ぐ。独裁者となった藤原仲麻呂の兄豊成の子息だ。
 この人物は温厚な漢学者であったために、仲麻呂が逆賊として討たれた政争に巻き込まれることもなく、孝謙・称徳女帝のもとで参議に昇り、白壁王が光仁天皇となると中納言、桓武天皇のもとでは大納言、右大臣と出世することになる。ただ桓武政権になってからの昇進は、妻の明信の推しがあったのかもしれない。
 桓武天皇は、藤原不比等の独裁については話に聞いただけだろうが、藤原仲麻呂の独裁は自分の目で目撃した。その独裁の原因は、不比等が二人の娘を天皇に嫁がせ、藤原一族が天皇の外戚となったからだ。
 桓武は外戚政治の危険性を知り抜いていた。
 その対策はというと、一人の妻だけを愛してはならない、というものだった。一人の妻だけを愛していると、その父親がしゃしゃり出ることになる。
 ということで、桓武天皇は一人の妻だけを愛することなく、後宮に何十人もの女官を入れた。めぼしい高官には必ず娘を差し出すように命令した。
 高官の娘を平等に愛する。これが特定の外戚を排する秘策だと桓武天皇は考えたのだ(単に多くの女性を愛したかっただけかもしれない)。
 実際に桓武天皇は、多くの女たちを平等に愛したようで、そのため大量の子どもができた。
 孫や曾孫の代になると何百人という人数になった。
 継体天皇が応神天皇の五世孫だったので、そのあたりまでは皇族と考えられていたのだが、曾孫は三世孫にすぎない。五世孫まで皇族にしたのでは、朝廷の財政が破綻してしまう。
 そこで朝廷は、桓武天皇の孫や曾孫を、「平」という氏姓を与えて皇族から放り出すことになった。「平さん」の多くは武官として東国に赴き、そこで地方豪族の娘婿として受け容れられ、地方豪族の名字が「平さん」ばかりになってしまった。
 というようなわけで、桓武天皇は、大勢いる妻のうちの誰かをとくに寵愛するということはなかったのだが、実は、ただ一人、圧倒的な寵愛を受けた女性が後宮にいたのだ。
 それが初恋の女性、百済王明信だ。
 まだ夫の南家藤原継縄が元気なころから、桓武天皇は頻繁に継縄邸を訪ねていた。継縄は漢学者だったので、京都の南部の自邸に広大な書庫を有していた。桓武天皇も漢学の造詣が深く、継縄邸を訪ねて漢籍を借りたり、漢学についての議論を交わすことを楽しんでいた。
 というのは表向きの理由で、本当は百済王明信に会いたかったのだろうと思う。
 漢籍を借りたり、難しい議論を交わしたあとは、酒席になり、明信相手に楽しい会話をするというのが、桓武天皇の目的だったのだろう。
 継縄が亡くなると、百済王明信は、後宮の女官の長官にあたる尚侍(読みは「ないしのかみ」)に任じられ、後宮に住み込むことになった。
 尚侍は女官なので、皇后(のちには中宮)、妃(女御)、夫人、更衣という後宮の妻妾の序列の範囲からは外れている。百済王明信はそれらの系列から外れた女官のなかの長官の待遇だったが、実際は特別の愛人だったと思われる。
 この尚侍という役職は、のちには妃や夫人と同等の上位の妻妾の呼称になったり、年輩の妻妾の名誉職となるのだが、百済王明信はそのさきがけであったと見ることもできる。
 とにかく明信が後宮に入り、いつもそばにいるようになると、桓武天皇は上機嫌だった。高官たちに娘を差し出させて、何十人もの妻妾をかかえている桓武天皇にとっては、百済王明信だけが特別の存在で、心から愛したただ一人の妻、という感じだったのではないかと思われる。
 時代祭の女性たちのパレードの大トリに百済王明信が起用されているのも、そのことが公然の秘密であったからだ。明信が、平安京を開いた桓武天皇のただ一人の愛する人であったことは、誰もが認めるところだった。
 桓武天皇が、尚侍を中心にした女官たちを侍らせて、宴会をしている時に詠んだ和歌が歴史書(『日本後記』)に記されている。
  〽いにしえの野中古道あらためばあらたまらんや野中古道
  (野っ原に古い道があるよ。古い道っていいよね。行ってみたいよね)
 これはどうやら、野原で詠まれた古歌のようだが、これを宴会の席で復誦したのは、もちろん、旧い付き合いの尚侍に向かって、「古い道はいいね」と同意を求めたのだろう。
 百済王明信は笑っただけで、答えなかった。
 そんな冗談にはつきあえないと、冷ややかだったのか、自分のことを「古い道」などと言われて、とんでもないと怒ってしまったのか。
 すると桓武天皇は、明信に代わって、自分で返歌も詠んでしまった。
  〽きみこそは忘れたるらめにぎ珠のたわやめ我は常の白珠
  (あんたは忘れてしまったの? 古い道なんかじゃなくて、あたしは宝石よ)
 これはまさしく明信の本当の気持だったのかもしれないが、それを桓武天皇が自分で詠んでしまったところが、独裁者らしい、やりたい放題の宴会芸といえるだろう。
 若き日の山部王は、末端の皇族にすぎなかった。百済王家の令嬢、百済王明信は高嶺の花だった。
 その高嶺の花を、自分の後宮の女官に据えて、いつも手元に置いて眺めることができる。
 天皇っていいものだな、と思ってしまう。
 ところで、桓武天皇が群臣に、娘を差し出せと命じた時、適当な娘がいなかったので、あわてて自分の妻を差し出した人物がいる。
 北家の藤原内麻呂という人で、冴えない文官だったのだが、妻の百済永継(読みは「くだらのえいけい」か?)は、とびきりの美女だった(とぼくは思う)。
 渡来系だが百済王家の出自ではなく、下級の家柄の娘だったようだ。藤原内麻呂の妻となって、子息の真夏、冬嗣を産んだあと、後宮に入り、良岑安世(読みは「よしみねのやすよ」)という皇族を産む。
 良岑という特別の氏姓を賜ったことから、この子息は桓武天皇にとくに可愛がられていたようだ。その子息が歌人として有名な僧正遍昭、さらにその子が素性法師と、歌人の家系の祖となるのだが、この良岑安世の異父兄の藤原冬嗣が、急速に出世して、のちの摂関家の祖となる。
 桓武天皇の母の新笠、尚侍の百済王明信、そして摂関家の祖となる冬嗣を産んだ百済永継……。渡来人の女性が活躍する時代だったといえるだろう。きっと「冬のソナタ」のチェ・ジウのような美女だったのだろうと思われる。

三田誠広の歴史エッセー
「女が築いた日本国」 三田誠広数多の歴史小説を発表されている作家の三田誠広さんによる歴史エッセー「女が築いた日本国」が始まりました。第三十八回 百済王明信とは何ものか第三十七回 和新笠と桓武天皇第三十六回 井上内親王の謎第三十五回 和気清麻...