
第三十九回 史上最悪の女……薬子
史上最悪の女の話をする前に、『西遊記』に登場する玄奘三蔵法師のことを語っておきたい。
孫悟空、猪八戒、沙悟浄は架空のキャラクターだが、玄奘三蔵法師は実在の人物で、『大唐西域記』という旅行記を書いている。
で、孫悟空の物語でも、お師匠さまの三蔵法師は、天竺(インド)にお経をとりにいく、という設定になっている。
ここで皆さんに質問です。三蔵法師は聖徳太子よりも三十年ほどあとの人物です。聖徳太子は大量の経典を読み、経典の解説書まで書いています。日本にいる聖徳太子が経典を読んでいるくらいですから、唐に経典がないはずはありません。すでに中国はもとより、日本にも、大蔵経と呼ばれるお経の全集が揃っていました。
では、三蔵法師はいったい、何をとりに天竺に行ったのでしょうか。
答えはズバリ、瑜伽密教、ということになる。
瑜伽(読みは「ゆが」)とは、梵語のヨーガということで、ヨーガといえば、柔軟体操みたいなポーズを連想する人が多いだろうが、あれはヨーガの一部にすぎない。
瑜伽とは一種の認識論で、唯識派などとも呼ばれ、初期のものは興福寺や薬師寺に伝えられていた。
経典というものは、文字で書かれた説教、戒律、理論(これを三蔵という)などだが、仏教やヒンドゥー教の奥義を極めていくと、文字や言葉では表現できない領域に入っていく。あのヨガのポーズも、言葉にはならない何かを感知するための体術のようなものなのだ。もちろん座禅もそうなのだが、さらに奥深い真理を求めて、さまざまな試みが続けられていた。
その言葉にならない真理を、般若という。
言葉にならない真理を何とか言葉にしようという試みが続けられた。それが般若経典と呼ばれるものだ。般若心経というコンパクトなお経もその一つだが、般若を追求する試みは膨大な量になっていて、その集大成が大般若経と呼ばれている。
ところが、鳩摩羅什という偉大な翻訳家が仏教経典を漢語に翻訳した時期にはなかった経典が、インドではさらに書かれていた。瑜伽密教の試みには果てがない。どんどん新しい経典が出てくる。つまり大般若経は、時とともに、果てもなく増殖していく経典なのだ。
玄奘三蔵法師が求めたのは、インドで書かれてまだ翻訳されていない最新の瑜伽密教の経典だった。
その最新の経典と、経典に付随するさまざまな法具は、まだ日本に伝わっていなかった。言葉にならない真理を会得するためには、言葉とは別のアイテムが必要だ。呪文というのもその一つ。意味不明の呪文が深い意味をもつ。呪文のことを、真言という。空海が求めたのも、この真言なのだ。
真言は陀羅尼とも呼ばれる。あの般若心経の最後に記されているギャテー、ギャテー……ソワカ! というのも、陀羅尼の一種だ。
真言や陀羅尼の他にも、言葉にならないものがある。手の指で作る印契(読みは「いんげい」)というもの。ここには魔術的なパワーがあるとされる。それから曼陀羅という図像。巨大なタペストリーになっているものもある。独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵・金剛鈴などという金ぴかの法具。こういうものの総合作用によって、言葉では到達できない真理の深みに迫っていく。
これが瑜伽密教であり、真言密教なのだ。
と、ここまでが前置き。
薬子の話を始めよう。桓武天皇の親友に、式家の藤原種継という人物がいたことは、すでに述べた。平安京遷都の直前に試みられた長岡京造営の陣頭指揮に立っていたのだが、何ものかに暗殺された。薬子はその種継の娘だ。
桓武天皇が配下の群臣に、娘を差し出すように命じたという話もすでに述べた。
種継も娘を差し出すことになる。薬子は当然、自分が後宮に入るものと思っていた。ところが、薬子にはいくぶんクレバーなところがあるという評判が、桓武天皇の耳に届いていたようで、結局、薬子の妹が入内することになった。
どうやら薬子は、そのことを怨んでいたようだ。薬子は同じ式家の藤原縄主(読みは「ただぬし」)の妻になり、娘を入内させる。といっても桓武天皇ではなく、嫡男の平城天皇の後宮に押し込むことに成功した。それだけでなく、薬子は自分も後宮に入って女官となる。
教育ママが娘と同じ職場に入ってきたようなものだ。
そして驚くべきことに、まだ皇太子であった平城天皇と、肉体関係ができてしまう。
平城天皇は早くに母を亡く、マザコン的なところがあった。それで薬子に懐いてしまい、やがては深い仲になった。
このことが桓武天皇の耳に入り、薬子は追放される。ところが桓武天皇が崩御して平城天皇が即位すると、薬子はただちに後宮に呼び戻されて、尚侍に就任する。あの百済王明信の後釜になったわけだ。
マザコンの平城天皇の場合は、すっかり薬子の言いなりになってしまった。
天皇は詔勅を発する。古代には大事を詔、小事を勅と区別し、勅は文書で通達されることもあったが、大事の詔は必ず声で読み上げられる。
ただし天皇が臣下に自らの声を聞かせることはない。読み上げるのは女官の役目だ。
太古の時代から、皇后や皇女には神が宿るとされた。天皇の言葉も神託のごときものなので、巫女的な女官が読み上げる風習が残っていた。
従って平城天皇の詔勅はすべて尚侍の薬子が読み上げる。
その薬子が読み上げる詔勅が、何だかおかしい。群臣たちは不審の念を抱き始める。
これって、平城天皇の言葉ではなくて、薬子が自分の思いどおりのことを勝手に宣言しているのではないか……。
政務も軍務も、天皇の詔勅によって方針が通達される。それを読み上げるのが薬子だから、結局のところ、薬子の独裁体制が確立してしまった。
薬子の言葉は、建前では天皇の言葉なので、群臣たちはどうしようもない。
困惑した群臣たちは、桓武天皇の次男にあたる伊予親王に相談した。伊予親王の母の吉子は南家藤原是公の娘で、是公は桓武天皇が侍従をしていたころの上司だ。そのころから吉子とはつきあっていた。
そのため桓武天皇が最も目にかけていた子息は伊予親王だったのかもしれない。ところが、群臣たちが伊予親王と談合していることを、薬子が察知した。薬子の命令で兵たちが伊予親王と母の吉子を幽閉し、闇に葬ってしまった。
薬子の独裁を阻止する手立ては尽きた。誰もがそう思った時に、救世主が登場した。
空海だ。
空海の叔父の阿刀大足(読みは「あとのおおたり」)は漢学者で、伊予親王の学士を務めていた。おそらく若き空海は、伊予親王の学友として、いっしょに勉学していた時期があったのだろう。地方の郡司の子息でしかない空海が大学に入れたり、授戒を受けていないのに遣唐使の船に留学僧として乗り込めたのも、叔父のコネで桓武天皇が動いてくれたのだろう。
遣唐船そのものは、比叡山の最澄のために仕立てられた。最澄は天台山に赴いて、法華経の新しい解釈と修行の方法を学ぶのが目的だった。船が着くのは上海の近くの寧波というところで、そこから天台山は近い。
遣唐使の一行は奥地にある長安に向かう。長安までの旅程に半年くらいかかるので、遣唐使一行の滞在期間を含めると、二年くらいかかる。最澄は還学僧という短期滞在なので、遣唐使の一行の帰朝の船で帰国した。
一方の空海は留学僧で、二十年以上の滞在が義務づけられていたのだが、長安に着いて半年ほどで、瑜伽密教の一弟子相伝の奥義を恵果という高僧から伝授され、唐でも評判になっていた。そのことを聞いた桓武天皇は、臨時の船を出して、空海を呼び戻すことにした。しかし空海が船に乗った時には、桓武天皇はすでに亡く、薬子の独裁が始まっていたのだ。
空海は曼陀羅や金ぴかの法具などの一切を伝授され、荷物とともに大宰府に入ったのだが、そこで足止めされた。大宰府の長官が薬子の夫の縄主だったのだ。
しかし阿刀大足と藤原冬嗣が、空海を密かに脱出させた。空海は、大阪と奈良の境にある槙尾山施福寺で、持ち帰った秘宝の曼陀羅を掲げ、金ぴかの法具を手にして、瑜伽密教の呪文を唱え始めた。
その呪文にどれほどの威力があったのかはわからない。ただその噂が平城天皇の耳に届いただけで、天皇はノイローゼ状態になって倒れてしまった。薬子の野望はそこでついえることになる。
平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位する。嵯峨天皇は大喜びで空海と、いっしょに帰国した留学生の橘逸勢を京に迎えた。この三人はサロンを作り、三人とも書の達人なので三筆と称された。
空海が京に入ると、平城天皇は途端に元気になった。京に入ったら、空海がもはや呪文など唱えていないことが明らかになったからだ。薬子は兄の藤原仲成とともに平城上皇を旧都奈良に移動させて、そこで反乱を企てたのだが、鎮圧され、処刑された。


