生田修平「カンガルー」

カンガルー

生田修平

大阪、東淀川駅前で一杯飲み屋に入った。
カウンターのみで4~5人がやっと入れる小さな店だった。
奥に客が一人だけいた。茶色い毛皮のコートを着ていたが、よく見るとカンガルーだった。
カンガルーは黄色い飲み物を飲んでいた。さんぴん茶割りだという。私もそれを注文した。
私はカンガルーの隣の席に座った。
カンガルーは、後退(後ずさり)ができる人間をうらやましいと繰り返した。
このカンガルーはサッカーをするらしいが、いつも背後を狙われる。後ろに行くには、一度振り向いてから戻らなくてはならず、追いつかないという。攻撃に転じ、ゴール前まで深く突っ込み過ぎる時もポジションの修正が容易でない、と。
「人間がうらやましい。少しでいいから後ずさりしたい」とカンガルーは言う。
「まあ、後退ばかりしている人間もいるけどね」と私は言い、将棋の香車(やり)が頭をよぎった。「将棋の香車も後ろに進めないが、友達か?」と聞いた。
カンガルーはこう言った。「確かに香車とは仲がいい。ただ、私の前への進み方は、香車のように直線的ではなく、桂馬のような動き方をする。後ろに進めない桂馬といった方がよいだろう。桂馬とはもっと仲がいい。」
意気投合した私たちはスナックへ行った。
ホステスたちは興味津々で、カンガルーはモテモテだった。袋を触られたりしていた。
カンガルーもいい気分になったようで、今度はカンガルーの優位性を語り始めた。
「人間はお母さんのお腹から産まれた日を誕生日として祝うが、カンガルーは誕生日に加えて、はじめて袋から出た日を、出所記念日(1)として祝う。無袋類(2)の人間には出所記念はないだろう」。
それからカンガルーはカラオケを歌い、ホステスとダンスを踊った。ダンスでは、カンガルーは後ろのステップができないので、相手のホステスを壁まで押し込み、そこからターンをする風変わりなダンスになった。
この時もカンガルーは「人間がうらやましい。少しでいいから後ずさりしたい」とこぼした。
果たして、カンガルーはかなりヘロヘロに酔っ払った。時間を見ると午前2時だった。
タクシーを呼ぼうとしたが、カンガルーは近いので歩くと言った。
私たちは店を出た。
泥酔状態のカンガルーは足元がおぼつかなく、真っ直ぐ前に進めない。
その時だった。
私はこの目ではっきり見た。
フラフラのカンガルーは、わずか2、3ステップであるが、後ずさりした。
「おい!今できたじゃないか!後ろのステップ!」
カンガルーがうらやましい。3つも記念日を持っている。お母さんのお腹から産まれた日、はじめて袋から出た日、そして、はじめて後ろに歩けた日。
註1:カンガルーの俗語で袋から出ることを出所という。
註2:人間はカンガルーのことを有袋類といっているが、カンガルーは人間を無袋類と分類している。

(文字数1,185字)

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